静かな夜
夕食を終えた後。
食器の片付けを終えた紅音が、伸びをしながら息を吐く。
「ふぅー……食べた食べた」
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
ルナが丁寧に頭を下げる。
紅音は嬉しそうに笑った。
「ほんと!? やった!」
「以前より腕が上がっておりました」
「えへへ、ルナ師匠のおかげです!」
褒められて素直に嬉しそうだ。
そんな様子を見ながら、深樹はソファへ腰を下ろした。
テレビをつける。
適当に流れていたバラエティ番組の音がリビングへ広がった。
「じゃあ次お風呂入る?」
紅音がルナへ視線を向ける。
「はい」
「一緒に入ろ!」
さらっと言った。
ルナは少しだけ目を瞬かせる。
「ご一緒しても?」
「もちろん!」
深樹がテレビへ視線を向けたまま言う。
「狭くなるぞ」
「別にいいもん」
「問題ありません」
ルナも普通に返した。
「……そうか」
深樹はそれ以上言わなかった。
紅音はタオルを抱えながら楽しそうに廊下へ向かう。
「ルナー! 昔みたいに髪洗ってー!」
「承知しました」
二人の声が遠ざかっていく。
しばらくして。
浴室の方から微かに笑い声が聞こえてきた。
深樹はソファへ身体を預けながら、小さく息を吐く。
テレビは流れている。
だが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
静かな夜だった。
昔なら考えられないほどに。
危険区域。
討伐任務。
血の匂い。
眠る暇すらない日々。
あの頃は、家でこうして何もしない時間の方が珍しかった。
ふと。
視線が窓の外へ向く。
街の灯りが静かに揺れていた。
平和な夜。
それは昔、自分には無縁だと思っていたものだった。
「……変わったな」
誰に向けるでもなく呟く。
学園へ入ってから。
紅音と過ごす時間も増えた。
人と話すことも増えた。
任務以外で誰かと関わることも。
そして。
今日はルナまでここにいる。
昔の仲間と、こうして普通に食卓を囲む日が来るなんて思わなかった。
不意に。
浴室の方から紅音の笑い声が聞こえてくる。
『ルナ髪さらさらすぎー!』
『紅音様も綺麗ですよ』
『ほんと!?』
賑やかな声。
深樹は思わず小さく笑った。
――悪くない。
本当に、そう思った。
その時。
テーブルの上へ置かれていた端末が、小さく震える。
深樹の視線が向いた。
表示されたのは、探索者協会からの高優先度通知だった。
【危険区域監視対象に異常反応を確認】
【至急対応可能な探索者を招集】
深樹は無言で内容を流し見る。
だが。
途中で指が止まった。
「……は?」
珍しく小さく声が漏れる。
通知の下部。
そこに表示されていた座標。
それは、以前自分が最後の任務で訪れた危険区域の近辺だった。
ソファへ深く座り直す。
テレビの音だけが妙に軽く響いていた。
嫌な予感がする。
しかもかなり。
「タイミング悪すぎだろ……」
小さく呟き、端末の画面を閉じる。
その瞬間。
浴室の扉が開く音が聞こえた。
「ふぅー、さっぱりしたー!」
紅音が上機嫌でリビングへ戻ってくる。
後ろからルナも続いていた。
長い黒髪を軽く拭きながら歩いてくる姿は、普段より少し柔らかい雰囲気に見える。
深樹は何事もなかったように端末をテーブルへ伏せた。
「おかえり」
「ん、ただいまー」
紅音はそのままソファへ座り込む。
「ルナ髪綺麗すぎるんだけど」
「ありがとうございます」
「お兄ちゃんもそう思うでしょ?」
「まぁ、昔からだな」
自然に返した瞬間。
紅音がニヤッと笑った。
「へぇー?」
「なんだその顔」
「いや別にー?」
面倒そうな空気を感じ取り、深樹はテレビへ視線を戻す。
ルナは小さく微笑んでいた。
「深樹様」
「なんだ」
「お茶をお持ちしますか?」
「ああ、頼む」
「承知しました」
ルナは静かにキッチンへ向かう。
その後ろ姿を見送りながら、深樹は小さく息を吐いた。
余計な心配はさせたくない。
少なくとも今は。
まだ正式任務ですらない。
ただの異常反応。
それだけだ。
……本当に、それだけならいいが。
深樹は無意識にテーブルへ伏せた端末を見る。
赤い警告表示が頭から離れない。
最後の任務。
あの危険区域。
嫌な記憶ばかりが浮かぶ。
「お兄ちゃん?」
紅音の声で意識が戻る。
「どうしたの?」
「別に……」
「なんかぼーっとしてる」
「眠いだけだ」
「ほんとに?」
「ああ」
深樹は短く返す。
紅音は少しだけ不思議そうにしていたが、それ以上は聞かなかった。
しばらくして。
ルナがお茶を持って戻ってくる。
「どうぞ」
「ありがと」
湯気の立つ湯呑みを受け取りながら、深樹は静かに息を吐いた。
暖かい。
それだけで、少しだけ思考が落ち着く。
テレビでは、相変わらず騒がしいバラエティ番組が流れていた。
紅音は楽しそうに笑っている。
ルナも静かにその様子を見ていた。
穏やかな時間。
昔の自分なら、きっと縁のなかった空気。
だからこそ。
深樹は思う。
――この日常を、壊したくない。
そのためなら。
また危険区域へ戻ることになったとしても。
深樹は静かに湯呑みへ口をつけた。
そして。
「……ちょっと外出てくる」
何気ない口調で言う。
紅音がテレビを見たまま反応した。
「んー」
軽い返事。
完全に番組へ意識が向いている。
ルナだけが、一瞬だけ深樹へ視線を向けた。
だが何も言わなかった。
深樹はそのまま玄関を出る。
夜風が静かに頬を撫でた。
「……」
小さく息を吐く。
住宅街は静かだった。
街灯の灯り。
遠くを走る車の音。
平和な夜。
それでも。
胸の奥に残る違和感は消えない。
深樹はポケットから端末を取り出す。
再び表示される赤い通知。
危険区域。
異常反応。
最後の任務と同座標付近。
「偶然、なわけないか……」
静かな呟き。
数秒だけ考え込む。
そして。
深樹はゆっくり右手を前へかざした。
空気が変わる。
足元へ淡い光が広がっていく。
緑色の魔法陣。
複雑な紋様が静かに回転し、夜の地面を照らした。
風が吹く。
周囲の空気が揺れ、木々がざわめいた。
次の瞬間。
緑の光がふわりと弾ける。
一人の女性が静かに姿を現した。
長い翠髪。
風を纏う軽装。
鋭さの中に柔らかさを含んだ瞳。
そして、どこか“世話焼きな姉”のような空気。
「……深樹」
リゼは姿を見るなり、少し眉を下げた。
「やっと呼んでくれた」
「開口一番それか」
「だって心配してたんだから」
リゼは呆れたように息を吐く。
「最近全然呼ばないし、無茶してないか気になるし、ちゃんと寝てるかも分からないし……」
「保護者かお前は」
「放っておくと危ない弟が悪い」
即答だった。
深樹は小さくため息を吐く。
だが。
そのやり取りすら少し懐かしかった。
リゼは深樹へ近づくと、じっと顔を覗き込む。
「……ちゃんと食べてる?」
「紅音にも同じこと言われた」
「紅音ちゃんにも心配かけて!」
「ちゃんと食ってるよ」
「睡眠は?」
「取ってる」
「えらい!」
「なんなんだお前……」
リゼは小さく笑う。
だが、その表情は少し安心したようにも見えた。
「でもよかった」
「何が」
「前より顔色マシ」
夜風が吹く。
リゼの翠色の髪が揺れた。
「昔の深樹、ほんと危なかったから」
「……」
「いつ倒れてもおかしくない顔してた」
静かな声だった。
深樹は何も返さない。
否定できなかった。
リゼは昔から、深樹の無茶を一番近くで見ていた一人だ。
だからこそ、少しの変化にも敏感だった。
「で?」
リゼが少し真面目な顔になる。
「今回は何があったの?」
深樹は端末の画面を見せる。
赤い警告表示。
それを見た瞬間。
リゼの表情が変わった。
「……これ」
「ああ、なるほどね…最後の任務の場所じゃん……」
さっきまでの柔らかい空気が静かに消える。
風だけが夜道を通り抜けた。
「まだ招集段階だ」
「でも気になってるから私を呼んでの相談ね」
「まぁな」
リゼはしばらく黙り込む。
そして。
小さく息を吐いた。
「深樹」
「なんだ」
「今度は、一人で抱え込まないで」
優しい声だった。
「前みたいに、“自分だけで何とかする”は無し」
「……」
「私もいる。ルナもいる。他のみんなもいる」
リゼは真っ直ぐ深樹を見る。
「だから、ちゃんと頼って」
その言葉に。
深樹は少しだけ目を細めた。
昔。
何度も同じことを言われた気がする。
そして毎回、聞かなかった。
「返事」
「……善処する」
「絶対聞かないやつじゃんそれ」
リゼが呆れたように笑う。
だけど。
その笑顔は、どこか安心したようにも見えた。
夜風が静かに吹き抜ける。
すると。
リゼがふと空を見上げた。
「……ここだと落ち着かないね」
「急だな」
「深い話する時、人通りある場所嫌いなの」
そう言いながら、リゼは深樹へ手を差し出す。
「行こ」
「どこに」
「いつもの場所」
深樹は少しだけ目を細めた。
「まだ覚えてたのか」
「忘れるわけないでしょ」
リゼが小さく笑う。
次の瞬間。
彼女の足元へ緑色の魔法陣が広がった。
風属性魔法。
柔らかな翠光が夜道を照らしていく。
「しっかり掴まって」
「子供じゃないんだが」
「深樹、昔高所から落ちかけたことあるでしょ」
「……お前まだ根に持ってるのか」
「当たり前」
リゼはじとっと睨む。
「あの時ほんと心臓止まりそうだったんだから」
深樹は諦めたように小さく息を吐く。
そして。
リゼが伸ばした手を取った。
瞬間。
風が吹き上がる。
地面が一気に遠ざかった。
緑色の魔法陣が空中へ展開し、二人の身体を包み込む。
まるで風そのものに乗っているようだった。
ビル群を飛び越え。
夜の街を駆け抜ける。
眼下には無数の灯り。
道路を流れる車。
眠らない都市の景色。
冷たい夜風が頬を撫でた。
「……相変わらず派手だな」
「風属性は機動力が売りだから」
リゼは少し得意げに笑う。
そして。
二人は高層ビルの屋上へ静かに降り立った。
夜景が広がる。
街の灯りが、まるで星みたいに輝いていた。
深樹は静かに景色を見渡す。
「懐かしいな」
「昔、任務帰りによく来てた」
リゼが隣へ並ぶ。
「深樹、ボロボロのままここで寝そうになってたし」
「そんなこともあったな」
「“少し休むだけ”とか言って、そのまま気絶してた」
「言うな」
リゼが小さく笑う。
だが。
その笑顔はすぐ静かなものへ変わった。
「……ねぇ、深樹」
「なんだ」
「また危険区域へ行くつもり?」
真正面からの問いだった。
深樹は夜景を見たまま答える。
「まだ決まってない」
「でも行く顔してる」
「……」
図星だった。
リゼは小さく息を吐く。
「ほんと変わんないね」
「そうか?」
「そうだよ」
リゼは少しだけ寂しそうに笑う。
「平和な時間が出来ても、危険な匂いがしたらそっち行こうとする」
夜風が吹く。
翠色の髪が揺れた。
「でも前よりはマシ」
「比較対象が悪い」
「昔は本当に危なかったから」
リゼは静かに続ける。
「自分が壊れること、全然気にしてなかった」
その言葉に。
深樹は何も返さない。
リゼだけじゃない。
ルナも同じことを言っていた。
きっと皆、そう感じていたのだろう。
「……でも」
リゼが少し柔らかく笑う。
「今の深樹は、ちゃんと“帰りたい”って思ってる顔してる」
「顔で分かるのか?」
「長い付き合いだから」
どこか誇らしげだった。
リゼは夜景を見渡す。
「だから安心した」
「何が」
「ちゃんと、人間らしくなってて」
「それ褒めてるのか?」
「褒めてる」
即答だった。
深樹は小さくため息を吐く。
だが。
不思議と悪い気分ではなかった。
高層ビルの上。
静かな夜風。
そして隣には、昔から自分を気にかけ続けている存在がいる。
――こんな時間も、悪くない。
深樹は静かに夜空を見上げた。
都会の灯りに隠れて、星はほとんど見えない。
それでも。
この静かな空気は嫌いじゃなかった。
リゼが隣でフェンスへ軽く寄りかかる。
「で?」
「何が」
「本音」
真っ直ぐな視線だった。
「深樹、今かなり気にしてるでしょ」
「……まぁな」
「最後の任務と同じ場所だから?」
「ああ」
短く答える。
リゼは少しだけ視線を落とした。
あの日のことは、リゼも忘れていない。
むしろ。
召喚存在たちの中でも、一番強く覚えている側だった。
「あの時さ」
リゼがぽつりと言う。
「深樹、最後まで一人で残ろうとしてたよね」
「……」
「“お前らだけでも帰れ”って」
風が吹く。
深樹は黙ったまま夜景を見ていた。
「正直、かなり腹立ったんだよ?」
「だろうな」
「だって私たち、仲間だったし」
リゼの声は静かだった。
「なのに深樹、自分だけ犠牲になればいいって顔してた」
「……結果的には帰れただろ」
「そういう問題じゃないのよ」
少し強い口調だった。
だが。
そこに怒りよりも心配が混ざっているのを、深樹は分かっていた。
「私たちが怖かったのは、“任務失敗”じゃない」
リゼは続ける。
「深樹が戻ってこないことなの」
その言葉に。
深樹はゆっくり目を閉じた。
昔から。
自分はそういう戦い方しか出来なかった。
誰かを守るためなら、自分を切り捨てる。
それが当たり前だった。
「でも今は違うでしょ?」
リゼが静かに言う。
「帰る場所あるじゃん」
紅音。
今の学園生活。
穏やかな日常。
そして。
こうして心配してくれる存在たち。
深樹は小さく息を吐いた。
「……分かってる」
「ほんとに?」
「少なくとも昔よりは」
リゼは数秒だけ深樹を見つめる。
そして。
ふっと力を抜くように笑った。
「なら、今回は様子見でいいじゃん」
「様子見?」
「まだ正式任務じゃないんでしょ?」
「ああ」
「なら深樹が今すぐ動く必要ない」
リゼは夜景を見ながら続ける。
「昔の深樹なら、通知来た瞬間に危険区域へ向かってた」
「……否定できない」
「でしょ?」
少し呆れたように笑う。
「でも今は違う」
リゼは真っ直ぐ深樹を見る。
「“行かない”を選べるのも成長だよ」
その言葉に。
深樹は少し黙り込んだ。
昔なら考えもしなかった。
危険があるなら、自分が行く。
それだけだったから。
だが。
今は違う。
すぐに飛び込まなくてもいい。
状況を見て判断する余裕がある。
それはきっと、昔より“普通”に近づいた証拠なのかもしれない。
深樹はポケットから端末を取り出した。
高優先度任務通知。
数秒だけ画面を見る。
そして。
静かに通知画面を閉じた。
「……今回は保留にする」
リゼが少しだけ安心したように笑う。
「うん。それでいい」
「ただの異常反応なら、協会側で処理できるはずだ」
「もし本当にヤバかったら?」
「その時は呼ぶ」
「ちゃんと?」
「ああ」
リゼはじっと深樹を見る。
まるで嘘を見抜こうとするみたいに。
そして。
「……なら信じる」
小さく笑った。
夜風が吹く。
高層ビルの上。
静かな夜景の中で。
深樹はようやく、肩の力を少しだけ抜いた。
リゼも隣で穏やかに空を見上げている。
戦場ではなく。
ただ静かに夜を過ごす時間。
それは昔、二人が決して持てなかったものだった。




