祓えぬ部屋
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
一、仕事の依頼
特殊清掃の仕事は、慣れればどうということはない——先輩の田神義郎は、そう言った。
大場晴紀がこの仕事に就いたのは、二十六歳の春だった。他にやりたいことが特になかった。ただ、誰かの痕跡を整えるという行為に、妙な実感があった。区切りをつけてやれる感覚。死んだ人間が残していったものを、きれいにして、消していく。それが嫌じゃなかった。
田神は業歴二十年だった。
五十二歳、白髪の混じった短い頭髪、肉のない顎。現場では私語を嫌い、指示は最小限だった。感情的になる場面を、大場は一度も見たことがない。ただ田神が稀に見せる「黙り方」があった。
普通の沈黙ではなく、何かを噛み殺しているような、奥へ奥へと引っ込んでいくような黙り方だ。大場はその沈黙が苦手だったが、嫌いではなかった。怖いものを見た後でも、田神の隣にいれば落ち着けた。
依頼が来たのは十一月の終わり、朝の気温が一桁になった頃だった。
担当は東京郊外の古い分譲マンション。八階建て、築三十八年。依頼人は故人の遠縁にあたる女性で、現地には来られないという。電話口で担当者が「部屋の様子が、少し……特殊でして」と言葉を選んだ。
その言い方が引っかかった。特殊清掃に依頼してきて、「特殊」と断りを入れる意味がある。だが大場はそれ以上追求しなかった。どうせ現場を見れば分かる。この仕事を始めて一年が経ち、大場は「事前に聞きすぎると構えすぎる」という田神の哲学を少しずつ体で覚えていた。
どんな現場も、扉を開けた瞬間に全てが分かる。それまでは余計な想像をしないことだ。この一年で、大場はその哲学を自分の体の一部にしていた。呼吸を整え、作業用の手袋をバッグに確認した。
翌朝、田神の車に乗り込んだ。後部座席には新人の仁村昂太が黙って座っていた。仁村は昨日まで元気そうだったのに、今朝は妙に口数が少なかった。
現場に慣れ始めた頃というのが、一番危ない。身体が慣れる前に、頭だけが余計なことを考えるようになるからだと、田神は言っていた。入社して三ヶ月。まだ現場の数が少なく、臭いに慣れていない顔つきをしていた。
首都高を降りてから誰も口を開かなかった。窓の外に、錆びた手すりのベランダが連なる住宅街が続いた。
マンションの駐車場に車を停めたとき、大場はふと見上げた。
外壁に黒い染みがいくつも残る、古いマンションだった。五階の端の窓だけが、カーテンもなく暗かった。その窓が、こちらを見ているような気がした。気がしただけだ、と大場は自分に言い聞かせながら、防護マスクを顔に当てた。
二、千枚の祈り
五〇三号室。
エレベーターを降りた瞬間に、廊下の空気が変わった。他の階と同じ長さ、同じ扉の並び、同じ蛍光灯の色のはずだが、音が少し違った。足音が返ってこない感じがした。吸い込まれているような、あるいは最初からその音がここに馴染んでいたかのような、薄気味の悪い静寂だ。
大場は作業服の袖口を無意識に握った。
扉を開けると、臭いが来た。
特殊清掃の現場特有の臭い。死後二週間の人間が部屋に残す、甘く腐って凝固したような空気の質感。それは想定内だった。しかし大場の視線が床から壁へ、壁から天井へと移った瞬間、息が止まった。
部屋中がお札で覆われていた。
一枚や二枚ではない。ワンルームの壁という壁、柱という柱、天井の四隅から中央まで、隙間を探す方が難しいほど貼られていた。
糊で貼ったもの、画鋲で留めたもの、セロハンテープで何枚も重ねたもの。下の層が変色して黒ずんでいる箇所は、相当な年月が経っていることを示していた。文字のかすれたお札の下から、さらに古いお札がのぞいている。
「……何年分だよ」と大場は思わず呟いた。
お札に書かれた文字は、読み取れるものと読み取れないものが半々だった。見覚えのある神社の印もあれば、どこのものとも判断できないものもある。手書きで何かを書き殴ったような紙片も混じっていた。
お札なのか、それとも全く別の何かなのか、大場には分からなかった。
田神は何も言わなかった。ただ静かに室内を見渡し、手元の資料を確認した。故人は八十三歳の女性。孤独死。発見されたのは死後二週間が経過してからだった。
「本人が貼ったのか」
「そうらしい」と田神が短く答えた。「何年も前から。近所には変わった方だと思われていたようだ」
大場は室内の奥、窓際に近づいた。そこだけがお札のない場所だった。縦三十センチ、横四十センチほどの空白。窓枠のすぐそばの壁が、意図して空けたかのように白く残されていた。
周囲をびっしりと覆うお札の群れの中で、その余白だけがやたらと目を引いた。引き寄せられるような、あるいは呼ばれているような、落ち着かない感覚だった。
まじまじと見ていると、その空白の形が妙に人の輪郭に似ていることに気づいた。肩幅くらいの横幅、腰から頭くらいの縦幅。偶然だ、と大場は思った。だが一度そう見えてしまうと、もう別の形には見えなかった。
何を待っていたのだろう、と大場は思った。何年もかけてお札を貼り続け、それでも最後にここで死んでいった老女が。祓おうとしていたのか。あるいは、もっと別の何かを。
答えは、もうどこにもなかった。 そして老女は、その答えを知ったまま死んでいった。それとも、とうとう知れないまま死んでいったのか。どちらの方が不幸か、大場には判断がつかなかった。
三、巣食うもの
作業を始めて一時間が経った頃、仁村が「少し空気を吸ってきます」と小声で言って、部屋を出た。
戻ってこなかった。
十分後、大場が廊下に出ると、仁村はエレベーターホールの壁に背中を押しつけ、膝を抱えて座り込んでいた。顔色が紙のように白く、目の焦点がどこにも合っていなかった。口が小さく開いていたが、音は出ていなかった。
「どうした」
「……いました」
「何が」
「窓の前に」仁村は唇を震わせた。「お婆さんが。立って、こっちを見てた」
大場は部屋に引き返し、窓を確認した。当然、何もなかった。ただ窓際の白い空白が、妙に存在感を持っていた。見ていると視線がそこに吸い寄せられる感じがした。空白を見ているのではなく、空白の方から見られているような、落ち着かない感覚だった。
田神に報告すると、彼は一度だけ窓の方を見て、それから短く言った。
「触るな」
「触りません。ただ仁村が——」
「その場所だけは、触るな」
命令ではなく、確認するような口調だった。それ以上の説明はなかった。田神の目が、窓の外のどこか遠くを見ていた。空でも、地面でもない。もっと奥の何かを見透かそうとするような、静かで疲れた目だった。
大場は作業に戻った。
お札を剥がすたびに、下から染みが出てくる。茶色く、丸く、大小さまざまな染みが壁紙の裏に潜んでいた。まるで何かが長い年月、壁に体を押し当て続けたような形をしていた。あるいは何かが内側から、じわじわと染み出してきたような。
窓際から視線を感じた。
振り返っても、何もいなかった。ただ部屋の空気が少し暗くなっていた。 防護マスクの内側で、自分の息だけが聞こえた。外の音が遠かった。このマンションの五階にいるはずなのに、地面の下に潜り込んだような、密閉された感覚があった。
夕方にはまだ早い時間のはずなのに、光の量が変わっていた。気のせいだ、と大場は思った。気のせいだと思い続けながら、手を動かし続けた。
お札は何枚あったのだろう。百枚か、二百枚か、もっとか。
老女は一枚ずつ貼るたびに何を思っていたのだろう。それとも何も思わなくなってから、貼り続けていたのだろうか。お札の一枚に触れたとき、紙の感触の奥に、古い指の跡のような微かな凹凸を感じた。大場は黙って、次のお札を剥がした。
部屋の隅に、小さな仏壇の残骸があった。扉が外れ、中身は空になっていた。写真も、位牌も、線香立ても、何もなかった。老女は何を拝んでいたのだろう。あるいは何かを、拝むことで封じていたのだろうか。
四、業歴二十年の言葉
作業が終わったのは夕暮れ時だった。
廊下に機材を片付けながら、大場は田神に聞いた。「ああいう部屋、今まで何度かありましたか」
田神はしばらく答えなかった。梱包したゴミ袋を持ち上げ、エレベーターのボタンを押し、扉が開くのを待ちながら、ようやく言った。
「五回ある」
「お札だらけの部屋がですか」
「そうじゃない」扉が開いた。田神は乗り込みながら、目を伏せた。「何かが巣食っている部屋が、だ。五〇三は、そういう部屋だ」
大場は黙った。
田神は感情のない声で続けた。「故人が何年もかけて祓おうとしていたのか、あるいは逆に招いていたのか、俺には分からない。分からないまま二十年やってきた。だが一つだけ確かなことがある」
「何ですか」
「あの窓の場所に何かがいる。我々が全部きれいにした後も、ずっとそこにいる。部屋が変わっても、入居者が変わっても、関係ない。そういう場所がある」
エレベーターの扉が閉まった。下降するにつれて、肩の重さが少し引いた気がした。現場から離れると、身体が正直に反応する。それを田神は「体が覚えている」と呼んでいた。鏡張りの扉に、大場と田神の顔が映っていた。どちらも疲れた顔をしていた。
大場はその鏡をあまり見たくなかった。映っているものが、二人だけとは限らない気がしたからだ。確認しなかった。
仁村はその日から現場に来なくなった。体調不良を理由に休み続け、翌月には退職した。退職の理由を本人は多くを語らなかった。語る必要も、語れる言葉も、持っていないようだった。
大場は一度だけ電話で連絡を取った。
仁村は笑って「大丈夫ですよ」と言った。しかしその笑い声の奥に、何か空洞のような響きがあった。壁を叩いたときに返ってくる、中が抜けた音に似ていた。その違和感を、大場はうまく言語化できなかった。できないまま、電話を切った。
着信履歴からその番号を消した。消してから、なぜ消したのか分からなかった。
その夜、大場は夢を見なかった。眠れたかどうかも、よく分からなかった。ただ朝になると、窓のカーテンを開けるのが少し怖かった。開けてしまえば何もなかった。当たり前のように、外は曇っていた。
五、次の現場へ
翌月もまた、新しい依頼が来た。
大場は作業着に袖を通しながら、五〇三号室のことを思い出した。あの窓際の白い空白。お札に囲まれた、唯一の何もない場所。老女は何を知っていたのだろう。あの余白に、毎晩何を見ていたのだろう。
剥がし終えた後、壁紙職人が新しい壁紙を貼ったと聞いた。今頃あの部屋は、きれいになっているはずだった。何事もなかったかのような顔をして、次の入居者を待ちながら。田神の言葉が頭に残っていた。
「そういう場所がある」
きれいになった壁の裏に染みが残っているように、あの余白もまだそこにあるのだろう。壁紙の下で、静かに。
ただ一つ、気になっていることがあった。
作業の最後、田神が窓の前に立った。片付けが終わり、大場が扉の外に出た後、田神だけが少し遅かった。振り返ると、田神は窓際の白い空白の前に立って、じっと動かなかった。声をかけようとして、かけられなかった。
田神が、何かに向かって、小さく頭を下げていたからだ。
挨拶なのか、謝罪なのか、それとも祈りなのか。二十年間この仕事をしてきた男が、何に対して頭を垂れていたのか。大場には分からなかった。田神は何も言わなかった。大場も何も聞かなかった。
それでいいような気がした。聞いてしまったら、何かが変わるような気がした。
田神は今もあの現場のことを覚えているのだろうか。いや、覚えているから二十年やってこられたのかもしれない。忘れない方が、この仕事では安全なのかもしれなかった。
何かが巣食う場所があるということを、知っていることが。
今日の現場は別の区の、築二十五年のアパートだった。孤独死の案件で、故人は五十代の男性。発見まで八日が経過している。田神が助手席の窓を少し開けて、前を向いていた。
信号が青になり、車が動き出した。 田神はラジオをつけなかった。いつもそうだった。現場に向かう車の中では、音楽も、ニュースも、いらない。それが二人の間の、言葉にしない約束だった。
大場はバックミラーをちらりと確認した。特に意味はなかった。ただ、確かめたかっただけだった。
後部座席には誰もいなかった。
それで、今のところは十分だった。少なくとも、今日の現場に向かうまでは。
(完)




