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シタイミタ

AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。

第一節 土のにおい

 グラウンドの土は、夏になると妙なにおいを放つ。

 雨のあとでもないのに、鉄錆と湿った草の混じったような、そんなにおい。

 俺――谷本遼は、ノックを受けながらその空気を吸い込んで、少しだけ眉をひそめた。 「谷本、集中しろ」

 キャプテンの篠田先輩がバットを構えたまま、低く笑った。

 笑いかたが、どこか固かった。県大会まで、あと二週間のはずだった。

 俺たちの中学校は、街の外れの丘の上にある。

 校舎の裏手には雑木林が迫っていて、グラウンドの端には古い部室小屋が建っている。  木造の二階建てで、一階は倉庫、二階が部員たちの溜まり場。

 壁は色あせて、雨漏りの染みが、天井に古い地図みたいに広がっていた。

 扉の蝶番は、誰かが油を差しても、すぐにきしみ始める。

 小屋そのものが、湿ったため息をつき続けているような建物だった。

 その小屋の床下から、最近、よくにおいが上がってくる。

 いちばん濃く立ちこめるのは、一階の、二階へ上がる階段のふもとのあたりだった。  練習の合間に道具の手入れをしようと一階の板の間に腰を下ろすと、鼻の奥に、まずそれが来る。

「夏場はこんなもんだろ」

 滝川先輩は笑って、タバコみたいにアイスバーをくわえていた。

 エースの肩の仕上がりは上々で、県大会のマウンドは彼に任されている。

 井澤はキャッチャーミットを磨きながら、ちらりと足元の床に目をやっていた。

 その目線の先には、階段の登り口の板張りがあって、そこだけが他より少し沈んでいる。  一年の宮坂は、戸口の外で素振りの合間に何度も鼻をすすっていた。

「部室の下、なんかいるんじゃないすか」

 宮坂が冗談めかして言ったとき、誰も笑わなかった。

 ただ、風がひとつ通り抜けて、古い窓がガタガタと鳴った。

 鉄錆と、湿った草のにおいが、また濃くなった。

 そのとき俺は、板張りの隙間の、細い黒い線を見ていた。

 指でなぞれば、少しだけ湿っている、その線を。

 縦にまっすぐ、一メートルほど続いて、途中でかすかに歪んでいる。

 ひとの背格好くらいの長さだ、と思ってしまってから、俺は慌てて目をそらした。

 部活が終わって、小屋の鍵を閉めるとき、篠田先輩が一度だけ振り返った。

 夕焼けの赤が、先輩の白いユニフォームを、染料を垂らしたような色に変えていた。 「明日も、いつもどおりな」

 そう言って、先輩は鍵をポケットにしまった。

 その背中を見送ったのが、俺が彼を元気な姿で見た、最後だった。

 小屋の床下から、別れの挨拶のように、ひとつ、においの塊が立ちのぼった。

第二節 欠けていくベンチ

 篠田先輩の訃報は、翌朝の朝礼で知らされた。

 自宅の階段から転落。頭を強く打って、搬送先で息を引き取ったという。

 放送委員の声が、やけに遠くで聞こえていた。

 体育館に並んだ俺たち野球部員は、みんな同じ顔をしていた。

 表情がない、というより、表情を忘れた、という顔だった。

 夏の朝の光だけが、床に斜めの縞模様を落としていた。

 通夜の帰り道、滝川先輩が缶コーヒーの蓋をひねりながら呟いた。

「部室、やっぱ変だよな」

 井澤は何も言わずに、空を見上げていた。

 街灯の下で、三人の影が長く伸びて、少しだけ揺れていた。

 俺は、影の数を数えていた。

 三つ。間違いなく、三つだった。

 けれど視界の端で、四つめの影が立ちあがる気配だけが、ずっと消えなかった。

 それから四日後。

 滝川先輩が自転車で坂を下っているとき、ブレーキが利かずにガードレールに突っ込んだ。

 頭の打ちどころが悪かった、と顧問の先生は言った。

 エースのいない練習は、扇風機を止めた部屋のように、じっとりと重かった。

 滝川先輩が座っていたベンチの位置だけ、木目がすり減って、鈍く光っていた。

 誰もその席に座らず、誰もその席を片付けなかった。

 欠けた一席が、そこに人の形のまま残っていた。

「二人だぞ」

 井澤が、ミットを握ったまま言った。

 掌に食い込むほど、強く握っていた。

「二人、同じ時期に、同じ部活で」

 そんな偶然、あるか、と続けようとして、井澤は口をつぐんだ。

 部室の二階の窓が、風もないのにカタリと鳴った。

 階下のほうから、また、あのにおいが立ちのぼってきた。

 顧問は学校に相談し、学校は遺族に配慮すると答え、部活動は一週間だけ休みになった。  その一週間のあいだに、宮坂が右足を骨折した。

 下校中、歩道橋の階段で足を踏み外したらしい。

 ただの怪我だった。

 ただの怪我のはずだった。

 でも俺たちはもう、誰もそれを「ただ」とは呼べなくなっていた。

 練習が再開した日、部室の扉を開けるのに、誰も最初の一歩を踏み出せなかった。

 扉の前で、全員が一度、互いの顔を見た。

 誰かが最初に入れば、そいつが次に呼ばれる、と言わんばかりの、静かな譲り合いだった。

 結局、顧問が先に中に入って、俺たちはぞろぞろとそのうしろに続いた。

 鉄錆と湿った草のにおいが、前より少し、濃くなっていた。

 階段脇の板張りの黒い線が、一段と、くっきりしているように見えた。

第三節 掘らなかった夏

 顧問がその人を連れてきたのは、部活再開から三日目の午後だった。

 年のころは五十くらいの、痩せた女の人だった。

 薄い灰色のワンピースに、擦り切れた藁草履。

 髪は短く切りそろえられて、前髪のすきまから、水のように静かな目が覗いていた。  挨拶もそこそこに、女の人は部室の戸口に立って、しばらく動かなかった。

 そして、鼻先で一度だけ短く息を吐いた。

 まるで、においを数えているような、短い息だった。

「ここの、床の下」

 掠れた声だった。

「土の中に、埋まっている」

 何が、とは言わなかった。

 でも、その部屋にいた全員が、同じものを思い浮かべた。

 鉄錆と湿った草のにおいが、ぐっと鼻の奥まで押し寄せてきた。

 井澤が、小さく呻いた。

 松葉杖をついた宮坂は、棒のように立ち尽くしたまま、まばたきも忘れていた。

 女の人は、床の一点を指さした。

 二階に上がる階段のすぐ脇。

 板の色が、そこだけほんの少し、他より黒い場所だった。

 俺は、いつか指でなぞった細い黒い線を思い出していた。

 あれは、なにかの輪郭だったのかもしれない。

 板の下の、土の上の、かたちを持ったなにかの、外側の線。

「掘ったほうが、いい」

 女の人はそれだけ言って、顧問に会釈して帰っていった。

 会釈のとき、首筋に一粒、汗が浮かんでいるのが見えた。

 その夜、職員会議が開かれた、らしい。

 結論は、翌朝、教頭の口から淡々と告げられた。

「部室の床を掘るような措置は、行いません」

 理由はいくつも並べられた。

 建物は市の所有で、勝手に解体はできない。

 根拠もなく噂を広げるのは、亡くなった生徒の遺族にも失礼になる。

 県大会も近いし、今は部員の心のケアを優先したい。

 どの理由も、ひとつひとつは正しく聞こえた。

 ただ、正しさを並べた先に、板張りの黒い線だけが、ぽつりと残った。

 正しさは、においを消してはくれなかった。

 その週のうちに、井澤が家の風呂で溺れた。

 シャンプーを流している最中に意識を失ったらしい、と誰かが言っていた。

 通夜の帰り、俺は宮坂と二人で夜道を歩いた。

 松葉杖の音だけが、やけにはっきり響いていた。

 遠くで、蛙がひとつ鳴いて、すぐに黙った。

「先輩」

 宮坂が、街灯の下で立ち止まった。

「俺、なんか、変な夢見るんすよ。土の中から、こっち見てる夢」

 俺は何も言えなかった。

 宮坂の影の足元で、松葉杖の影が、小さく震えていた。

 坂の下の暗がりから、風が一度、ゆっくりと吹き上がってきた。

 その風は、あの部室の床下と、同じにおいをしていた。

第四節 黒板の並び

 宮坂が入院したのは、その三日後のことだった。

 骨折した足の傷口から、細菌が入ったらしかった。

 容態が悪化している、と担任が教室で告げたとき、俺は机の木目を見つめていた。

 木目のうねりが、床下の土の流れに、そっくりに見えた。

 ふと顔を上げると、窓の外に、雨でもないのに灰色の空が広がっていた。

 放課後、俺は部室に行かず、誰もいない教室に残った。

 黒板には、日直が書いた今日の連絡事項が、まだ消されずに残っていた。

 その横の空いたスペースに、俺はチョークで、小さく名前を書いていった。

 篠田。  滝川。  井澤。  宮坂。

 入院中の宮坂は、まだ亡くなってはいない。

 でも、名前を書いた指先は、もう震えていた。

 四つの名字を、俺はぼんやりと眺めた。

 県大会の名簿みたいに、整然と並んだ四文字。

 それから、ゆっくりと、頭の文字だけを目で追った。

 シ。  タ。  イ。  ミ。

 教室の時計が、やけに大きな音で秒針を刻んでいた。

 俺はチョークを握ったまま、しばらく動けなかった。

 頭の中で、あの女の人の掠れた声が、もう一度よみがえった。

 ――土の中に、埋まっている。

 ――掘ったほうが、いい。

 掠れた声のあとに、くぐもった別の音が、ほんの一瞬混じった気がした。

 それは息遣いのような、土を押しあげる呼吸のような音だった。

 誰が、何を、見たというのだろう。

 掘られなかった床下の、黒い線のことを、ずっと考えていた。

 もし、何かが本当にあそこに埋まっていて、それが誰かに「見られた」のだとしたら。

 見られた側は、どうしたいと思うのだろう。

 見返したい、と思うだろうか。

 見た者のことを、ひとりずつ呼び寄せたい、と思うだろうか。

 見た者の順番に、ひとりずつ、名前を呼び返したい、と思うだろうか。

 黒板に並んだ四つの文字を、俺はもう一度、口の中で繰り返した。

 シ、タ、イ、ミ、――。

 あと一文字。

 最後の一文字が足りない。

 その最後の一文字で、言葉が完成する。

 完成したがっている気配が、黒板の表面から、うっすらと立ちのぼっていた。

 そのとき、俺は自分の苗字の、最初の一文字を思い出した。

 谷本。

 タ、だった。

第五節 シタイミタ

 俺は黒板の前に立ったまま、チョークを落としていた。

 床に転がった白い棒が、ころころと、窓際のほうへ転がっていった。

 窓の外は、もう日が沈みかけていて、グラウンドの土が赤く染まっていた。

 部室小屋の屋根が、夕日のふちに、黒く切り抜かれていた。

 その屋根の下の、二階の窓に、小さく白いものが浮かんでいた。

 誰かの顔のような、ただの反射のような、判然としない白さだった。

 鉄錆と湿った草のにおいが、閉め切った教室のどこかから、ふわりと漂ってきた気がした。

 俺は黒板を振り返って、空いたスペースに、もう一字だけ書き足した。

 谷。

 五つの苗字が、黒板に縦に並んだ。

 その頭文字を、最後にもう一度、ゆっくりとなぞった。

 シ・タ・イ・ミ・タ。

 死体、見た。

 笑えないほど、きれいに並んでいた。

 誰かが指先で文字を並べて遊んだみたいに、過不足なく並んでいた。

 並びきった言葉が、誰の口から、誰に向かって発せられたものなのか、俺にはわからなかった。

 わからないまま、俺は黒板に背を向けた。

 廊下のほうで、かすかに木の軋む音がした気がしたが、この校舎の床は、昔からよく軋む。

 ただ、今日に限って、その軋みは、松葉杖の突く音に、よく似ていた。

 宮坂は、病院にいるはずだった。

 帰り道、部室小屋のわきを通った。

 二階の窓は、もう暗くて、何も見えなかった。

 ただ、床下のあたりから、前より少しだけ、においが濃くなっていた。

 鉄錆と、湿った草。

 それから、まだ名前のついていない、別のなにかのにおい。

 土に一度抱かれたものが、長い夏のあいだに熟れて、少しずつかたちを取り戻していくような、そんなにおい。

 家に帰り着いた俺は、玄関で靴を脱ぎながら、ふと振り返った。

 夜の坂道の先に、誰かが立っているような気がしたからだ。

 街灯は、遠くにひとつだけ。

 その光の下には、誰も、いなかった。

 いなかったけれど、坂の下の暗がりから、こちらを見ている気配だけが、確かに残っていた。

 見ている、のではなくて、見返されている、のかもしれなかった。

 俺の名前は、タで始まる。

 黒板に並んだ五つの文字は、ちょうど、終わっている。

 終わっているはずなのに、坂の下のにおいだけが、まだ、少しずつ、近づいてきていた。

 玄関の戸を、そっと閉めようとして、俺は一度だけ、そのにおいに向かって耳をすませた。

 風の音も、虫の音もない、夏の夜だった。

 ただ、遠くの土の下のほうで、何かが、ゆっくりと、寝返りを打った気がした。


(完)

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