雨音の三番
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。
https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan
一、── 雨音素材
六月の終わり、梅雨前線が関東の上に貼りついたまま動かなくなった。
私は在宅で動画編集の仕事をしている。怪談朗読の編集が多く、夜になると部屋の中には人の声より先に、雨、風、古い床鳴り、遠い踏切の音が溜まっていく。効果音サイトの雨音は便利だが、どれも妙に綺麗すぎる。都市怪談には、排水口で泡立つ水や、ベランダの手すりを叩く水滴の汚れた感じが要る。
その夜、私は近所の柳木橋まで出た。実在の地名ではない。古い親水公園の端に、柳が一本だけ残っているので、近所の人がそう呼んでいるだけだ。橋の下には低い歩道があり、川というより地下水路の出口に近い細い水路が流れている。コンクリートの壁に雨が反響し、スマホのマイクにはよく乗る。
録音アプリを起動し、傘を肩に挟んで水路へ向けた。LEDの街灯が雨粒を白い線にして落としている。終電前の時間なのに、歩道には誰もいない。私は音量メーターを見ながら、声を出さないように鼻歌で拍を取った。
子どもの頃から知っている童謡だった。雨が降ると母が歌っていた、明るい歌。
一番、二番までは何となく出る。そこでやめればよかった。けれど編集用の目印に、三番の出だしだけを小さく口ずさんだ。歌詞を全部思い出せたわけではない。ただ「ずぶ濡れの子」と「柳の根元」という言葉の形だけが、雨音の中で勝手に揃った。
録音時間は三十秒で足りた。停止ボタンを押し、波形を確認する。
そのとき、スマホの黒い画面に、私の肩越しの歩道が映った。
柳の根元に、小さなレインコートのような影が立っていた。
顔は見えない。傘も差していない。肩から袖へ水が流れ、足元だけが街灯に照らされている。橋の下だから、真上から雨は落ちない。なのにその影だけが、外から降る雨を浴び続けているように濡れていた。
振り返ると、そこには柳の幹と濡れた落ち葉しかなかった。
私は録音データをクラウドへ自動保存し、逃げるように帰った。帰宅後、スニーカーを脱いだとき、右足だけが靴下まで濡れていた。水たまりを踏んだ覚えはない。
二、── 自動字幕
翌朝、録った雨音を編集ソフトに読み込むと、波形の後半に細い山が残っていた。私は声を入れていないはずなのに、雨音の底に息のようなものが混じっている。
ノイズ除去をかけると、かえってそれははっきりした。子どもの鼻歌。歌ではなく、歌う前の、息だけで旋律を探る音。
試しに自動字幕を走らせる。
画面に出た文字を見て、背中が冷えた。
「かさをください」
私はすぐ再生を止めた。字幕エンジンの誤認識は珍しくない。雨音が人の声に変換されることもある。そう自分に言い聞かせ、音声トラックを丸ごと削除した。
削除した直後、玄関で水が落ちる音がした。
ぽた。
ぽた。
廊下に出ると、ドアの内側に小さな水たまりができていた。外から入った水ではない。玄関のたたきではなく、フローリングの真ん中に丸く溜まっている。水たまりの端には、子どもの靴ほどの濡れた跡が一つ。裸足ではない。スニーカーでもない。古い雨靴の底みたいな、丸い模様。
私は管理会社に電話しようとして、やめた。説明できる言葉がない。
代わりに、怪談に詳しい友人の美里へメッセージを送った。童謡の「あめふり」に、歌うと濡れた女の子がついてくるという話があったか、と。
返信はすぐだった。
「ある。三番から先はやめたほうがいいってやつ」
「本気?」
「本気じゃないけど、雨の日に検証する人は嫌い」
「録音しただけなら?」
しばらく既読がつかなかった。
十分ほど後、短く返ってきた。
「再生したなら同じ」
美里は続けて、古い掲示板のスクリーンショットを送ってきた。そこには、歌ってはいけない条件が雑にまとめられている。雨の日。柳の近く。三番以降。子どもの声で返事が聞こえたら、右側を空けて歩かないこと。
最後の一文だけ、妙に具体的だった。
「右を空けると、入る」
その夜から、部屋の中に雨音だけが残った。
窓を閉め、換気口を閉じ、エアコンを除湿にしても、机の下で水が落ちる。スマホをスリープにしても、編集ソフトのタイムラインだけが勝手に少し進んでいる。ミュートにした雨音素材の上で、青い再生ヘッドが三番目のマーカーまで滑って止まる。
三、── 傘立て
三日目、宅配ボックスの通知がスマホに届いた。
注文した覚えのない荷物だった。アプリの表示は「傘」。送り主は空欄。配送会社の履歴にも該当番号がない。マンション一階の宅配ボックスを開けると、細長い白い箱が入っていた。箱は雨に濡れたように柔らかく、ガムテープの端から水が滲んでいる。
中身は黄色い子ども用の傘だった。
布地は新しくない。骨の一本が曲がり、透明窓のビニールには細かい爪跡のような曇りがある。持ち手には油性ペンで名前が書いてあったが、滲んで読めない。かろうじて「み」と「こ」だけが残っている。
捨てようとした。だが可燃ごみの袋に入れたはずの傘は、翌朝には玄関の傘立てに戻っていた。水滴を落としながら、私の黒い傘の横で少しだけ低く立っている。
ゴミ捨て場までの防犯カメラを管理人に確認してもらうと、私は確かに袋を出していた。ところが映像の最後で、画面の右端に黄色い線が一本だけ映る。傘の先だ。誰かが拾ったのではない。画面の外から、袋のほうへ傘だけが滑ってきていた。
美里に写真を送ると、すぐ電話が来た。
「それ、開いた?」
「開いてない」
「絶対に差さないで」
「どうすればいい」
「歌に出てくる場所へ返す話が多い。柳の根元とか、橋の下とか」
「都市伝説だろ」
「都市伝説だから場所が必要なの。話は、場所があると歩ける」
美里の声はいつもより低かった。彼女は冗談を言わない。
私は傘をビニール袋に入れ、玄関に置いた。外は小雨。行くなら今しかないと思ったが、足が動かない。部屋の照明は白いLEDなのに、廊下の奥だけ夕方みたいに暗い。
午前二時過ぎ、スマートスピーカーが勝手に起動した。
「すみません、聞き取れませんでした」
私はベッドの上で固まった。誰も話していない。
少し間を置いて、スピーカーがもう一度言う。
「傘を、差しますか」
電源コードを抜いた。
それでもスピーカーの上面に、小さな水滴が一つだけ浮いた。雨漏りではない。水滴は黒い布の網目から滲むように出て、机の上へ落ちる。
ぽた。
四、── 三番の子
翌日の夕方、美里が来てくれた。
彼女は玄関に入る前、スマホで室内を撮った。動画には何も映らない。黄色い傘も、私の黒い傘も、ただ濡れているだけだった。
「本当に雨の音がするね」
「外じゃない」
「うん。部屋の中からしてる」
美里はそう言って、傘立ての前にしゃがんだ。黄色い傘の持ち手には、昨夜より濃く文字が浮いていた。
みいこ。
いや、違う。よく見ると「みぎこ」と読める。右の子。名前ではなく、位置を示す言葉みたいだった。
「歌ったとき、誰かに傘を差してあげる場面まで行った?」
「覚えてない。三番の出だしだけ」
「じゃあまだ、あなたは見つけただけ」
「何を」
「濡れている子を」
「見つけたら、次は?」
「傘を渡す人を探すんだと思う。たぶん、母親の代わりになる人を」
彼女はそこで言葉を切った。言い終える前に、玄関の内側からチャイムが鳴ったからだ。
インターホンの画面には、共用廊下が映っている。誰もいない。だがカメラのレンズに、水滴が一粒ずつ増えていく。マンションの廊下は屋内だ。雨など入らない。
画面の右下に、小さな肩が映った。
濡れた髪が頬に貼りつき、白い手がレンズの下から伸びる。顔は最後まで見えない。ただ、その手が画面の外を指差していた。
右側。
玄関の、傘立てのほう。
美里が息を飲んだ。
「出ないで」
「でも、ここにいる」
「開けたら入る」
その瞬間、玄関ドアの鍵が内側から回った。
スマートロックではない。古いシリンダー錠だ。金属のつまみが、ゆっくり右へ倒れていく。私は反射的に手で押さえた。冷たい。つまみそのものが雨水に浸したみたいに冷たい。
美里が黄色い傘を掴んだ。
「橋へ持っていく。今すぐ」
「差すなって言っただろ」
「差さなければいい。返すだけ」
私たちは傘を開かないまま、ビニール袋に包んで外へ出た。共用廊下は乾いている。エレベーターの床も乾いている。けれど私たちの足跡だけが濡れていた。二人分の足跡の右側に、もう一列、小さな足跡が並んでいる。
一階へ着くまで、エレベーターの鏡を見ないようにした。見なくても分かる。鏡の右端にだけ、照明とは別の薄い影が揺れていた。美里がずっと左腕を掴んでいる。だから私は、右側の空白を塞げない。
五、── 止まない
柳木橋に着く頃、雨は本降りになっていた。
美里は自分の傘を差し、私はフードだけで歩いた。黄色い傘はビニール袋の中にある。開いていない。橋の下の歩道には水が浅く溜まり、柳の根元だけが黒暗い。
「置いて帰ろう」
美里が言った。
私はうなずき、ビニール袋から黄色い傘を出した。布地は濡れていない。むしろ私の手から水を吸うように乾いている。持ち手の文字は、もう「みぎ」でも「みこ」でもなかった。
おかあさん
そう読めた瞬間、柳の向こうで誰かが鼻歌を歌った。
あの童謡の三番。歌詞ではなく、節だけ。雨に混じって、幼い声が揺れている。
美里が私の袖を引いた。
「振り返らないで」
「見えてるのか」
「見ないで。右に立ってる」
私は見なかった。見なかったのに、右手が勝手に傘の持ち手へ伸びた。開いてあげないといけない。そんな考えが、知らない記憶のように頭へ入ってくる。雨の中で泣いている子には、傘を差してあげるものだ。母親なら、そうするものだ。
私は母ではない。
その言葉が喉まで出たとき、黄色い傘が開いた。
手は動かしていない。金具が跳ねる音だけがした。黄色い布が雨を受け、私の右側に小さな影を作る。影の中へ、濡れた肩がすっと入った。体温はない。ただ傘の重さだけが変わった。片側に、確かに誰かがいる重さ。
美里が悲鳴を上げ、私の腕を引いた。
次の瞬間、雨の音が全部消えた。
橋の下には、私と美里だけが立っていた。黄色い傘は閉じて、柳の根元に落ちている。水たまりの上には、子どもの足跡が一つもない。
美里はそれ以上何も言わなかった。帰り道、彼女は私の右側を絶対に歩かなかった。
それから一週間、部屋の雨音は止んでいる。
編集ソフトにも、余計な波形は出ない。スマートスピーカーは買い替え、玄関の傘立ても洗った。黄色い傘は橋に置いたまま戻ってこない。たぶん、それで終わったのだと思う。
ただ、雨の日に動画を書き出すと、音量メーターの右チャンネルだけが少し揺れる。
無音のはずの場所に、短い字幕が一つ出る。
「となりにいる」
私はその字幕を毎回削除する。削除して、書き出して、確認してから投稿する。
コメント欄で誰かが「三番のところで、女の子の声が聞こえる」と書いても、聞き間違いだと返す。雨音素材のせいだ、と。
一度だけ、美里が電話で「右側には返事をしないで」と言った。意味を訊くと、彼女は黙った後、「右側から呼ばれると、自分の声で答えたことになる」とだけ説明した。私は笑おうとして、失敗した。通話の向こうで、美里が「今、そっち雨降ってる?」と訊いたからだ。
外は晴れていた。だが通話音声の背景には、私の部屋と同じ雨音が入っていた。
最近は、オンライン会議の画面でも右端だけが暗い。背景ぼかしを強くしても、そこだけ雨粒の輪郭が残る。誰も気づかないふりをしているが、会議の終わりに一人だけ「傘、置いてありますか」と訊いた。私は即座に退出した。
今夜も雨が降っている。
玄関には私の黒い傘が一本だけある。隣に黄色い傘はない。水たまりもない。だから大丈夫だと、私は自分に言い聞かせる。
けれど、部屋の右側だけが少し寒い。
机に向かっていると、右耳のすぐそばで、濡れた袖が擦れる音がする。
そしてスマホの録音アプリが、触っていないのに起動している。
録音時間は、三番目のマーカーで止まっていた。
雨音の三番(完)




