先客
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、前の使用者
フリマアプリの通知が鳴ったのは、深夜の二時過ぎだった。
欲しいものリストに入れて半年が経つ、国産メーカーのソロ用テントだ。新品なら六万を超える。それが二万円で出ていた。説明文は素っ気なかった。「数回使用。前の持ち主が手放したので出します」。前の持ち主、という言い方が少し引っかかった。出品者と所有者が別なのはこのアプリではよくあることだけれど、わざわざ「前の」と書く必要はあっただろうか。写真を拡大すると、フライシートの裾に薄く泥がこびりついていた。一度きりの使用ではない、と泥の濃さが語っていた。それでも値段が値段だ。俺は迷わなかった。
その場で購入ボタンを押した。布団の中で、画面の白い光だけが、しばらく俺の顔を照らしていた。
三日後に届いた段ボールは、思ったより軽かった。開けると、畳まれたテントから森のにおいが立ちのぼった。湿った土と、消えた焚き火の煤。それから何か、雨に濡れた布が乾ききらないまま放置されたような、かすかに饐えたにおいが混じっていた。中古ならこんなものだろう。俺はベランダに広げて、秋の薄い日差しの下で一時間ほど陰干しした。生地は思っていたよりずっと上等で、撥水加工の表面が、光を鈍く弾いた。前の持ち主は、よほど金をかけてこれを揃えたのだ。手放した理由が、よけいに気になった。
においが抜けたのを確かめて、収納袋に戻した。
次の週末、俺は奥多摩の外れにある小さなキャンプ場を予約した。区画は一番奥の、沢に近い一つだけ。秋の平日明けで、ほかに客はいないと管理人がメールで知らせてきた。完ソロだ。誰にも気を遣わず、新しい――いや、新しくはないが、俺にとっては初めての――テントを試せる。仕事の連絡も届かない場所で、一晩、誰の気配もない夜を過ごす。それだけが、この半年の俺のささやかな望みだった。
車に荷物を積みながら、収納袋の口を一度だけ開けて、においを確かめた。土と煤。あの饐えたにおいは、もう薄れている。気のせいだったのだと、そのとき俺は結論づけた。説明文の「前の持ち主」という言葉が、ありもしない不安を勝手に嗅がせていただけだ、と。
二、二人分の寝床
設営は驚くほどスムーズだった。
ポールがしなって、ドーム状の天井が立ち上がる。中古とは思えないほど生地に張りがあり、ペグを打つ手応えも小気味よかった。前の持ち主は、よほど丁寧に扱っていたのだろう。俺は満足して、沢で汲んできた水を七輪にかけ、湯を沸かした。日が落ちると、谷あいの空気が一気に冷えた。吐く息が白い。LEDランタンを天井のフックに吊るすと、テントの内側がやわらかい乳白色に光った。布越しの光は、不思議とぬくもりを感じさせた。
寝袋を広げたとき、最初の違和感があった。
インナーの床に、寝袋を二つ並べたような、長方形の窪みが二つ、うっすら残っていた。生地がそこだけ毛羽立ち、寝た者の重みを覚えている。ソロ用とはいえ、大人二人が肩を寄せれば寝られなくはない幅だ。前の持ち主は、誰かとつかっていたのか。窪みの一つは入口寄り、もう一つはその左、テントの奥の壁際にあった。俺は入口寄りの窪みに自分の寝袋を重ね、奥の一つは空けたまま、温い湯を啜った。
スマホを見ると、電波は一本も立っていなかった。圏外の表示が、画面の隅で小さく固まっている。沢のせせらぎと、遠くで木の葉が擦れる音。それだけが世界の音だった。望んでいたはずのその静けさが、いざ身を浸してみると、耳の奥が痛くなるほど濃かった。
ランタンの光を絞り、横になった。
眠りに落ちる寸前、誰かが奥の窪みに身を横たえる、布の沈む音を聞いた気がした。俺の寝返りだろう、と自分に言い聞かせた。自分が動かした寝袋の音を、距離を測り違えただけだ。けれど、確かに俺の左側――空けておいた、奥の寝床のほうから、その音はした。それも、俺が身じろぎ一つしていない、その瞬間に。
明け方、寒さで目が覚めた。
寝袋の口元が、湿っていた。外気の結露だと思った。秋の沢沿いだ、テント内が露を結ぶのは当たり前だ。けれど指で触れると、それは天井から落ちた冷たい露ではなく、内側から滲んだような、生ぬるい湿り気だった。人の吐いた息が、夜通し布に染み込んで、そこだけ体温を残しているような。
顔を横に向けて、奥の窪みを見た。
毛羽立った長方形が、人ひとり分、はっきりと沈んでいた。昨夜よりも深く。寝た者の輪郭に沿って、生地の繊維が一方向に倒れていた。誰かが今しがたまで横たわり、起き上がったばかりのように。
帰ろうか、と一瞬思った。けれどこの区画は二泊で予約していて、管理人から「キャンセルでも料金は返らない」と念を押されていた。ここまでの林道はすれ違いもできない細さで、明るいうちでなければ下りる気にもならない。中古テントの生地の癖と、寝ぼけた指の感覚。そう片づけて、俺はもう一晩泊まることにした。
三、外す遊び
二日目の夜、俺は焚き火のそばで、管理人から借りた古いノートを読んでいた。区画ごとに利用者が感想を書き残す、自由帳のようなものだ。受付の棚に無造作に積まれていた中から、奥の区画の番号が記された一冊を、なんとなく借りてきた。昼間、テントの中で二度寝をしようとして、できなかった。横になるたび、空けてある奥の窪みのほうに、誰かが先に寝そべっている気がして、背を向けることができなかった。だから夜の焚き火が、よけいに有難かった。前の頁を遡ると、半年ほど前の日付で、こんな書き込みがあった。
「奥の区画、夜中に子どもの笑い声。気のせいだと思う」。
筆圧の弱い、女の字に見えた。その次の頁、明らかに別の筆跡の客が、こう続けていた。
「友人と二人で来た。寝るとき、片方が相手の顔に濡らしたタオルをかぶせて、苦しくて動かなくなる前に外す、という子どもじみた遊びをした。妙に盛り上がった。翌朝、片方が起きてこなかった」。
起きてこなかった、で書き込みは途切れていた。次の頁は、根元から破り取られていた。破った者は、続きを読ませたくなかったのか、それとも続きを書いてしまった者が、自分の手で消したのか。受付でノートを渡すとき、管理人は奥の区画の番号を見て、一瞬、手を止めていた。
俺はノートを閉じた。焚き火が、理由もなく一度、大きく爆ぜて、火の粉が夜空へ昇った。
その夜、テントに入って寝袋にくるまったとき、奥の窪みが、また深くなっているのに気づいた。沈み方が、もう生地の癖などではなかった。横たわった人間の輪郭そのものだった。肩の丸み、腰のくびれ、軽く折り曲げた膝。誰もいないのに、誰かがそこにいる。いた痕ではなく、いる気配として、それはあった。
俺は理屈で考えようとした。前の持ち主は二人で来て、片方が事故か病気で亡くなった。だからテントはフリマに出された。窪みは重みの癖で、ノートのタオルの話は別の客の悪ふざけだ。同じキャンプ場というだけで、このテントとは関係がない。電波の届かないこの谷で、頼れるのは自分の頭の筋道だけだった。頭の中でそこまで筋を通しかけたとき、奥の窪みのほうから音がした。濡れた布を絞るような、ぴちゃ、という音だった。
そして俺の顔の上に、冷たく濡れたものが、そっと、被さってきた。
四、返せない
反射的に俺はそれを払いのけた。腕を振った手のひらに、布の感触が確かに残った。冷たく、たっぷりと水を含んだタオルの質感。けれどランタンを点けて見回しても、テントの中に濡れたタオルなどどこにもなかった。俺の寝袋も、顔も、乾いていた。手のひらだけが、まだ濡れた記憶を握っている。ただ、奥の窪みだけが、さっきまで人が横たわっていたように、ほのかに温かかった。
俺は撤収を決めた。夜が明けるのを待たず、ヘッドランプの光だけを頼りに荷物をまとめ、車に運んだ。最後にテントを畳もうとして、グランドシートに手をかけた。
外れなかった。
昨夜までの異変は、音や湿りや窪みといった、見ないふりのできる程度のものだった。けれど俺がはっきり「持ち帰る」と決めた途端、それははじめて、目に見える力として抵抗してきた。ペグはすべて抜いてある。ポールも引き抜いた。なのに、生地そのものが地面に貼りついて、めくれない。両手で力いっぱい引っぱると、めりめりと、肉から皮を剥がすような音を立てて、ようやく一部が浮いた。その下の地面に、人ひとりが仰向けに寝ていたような、平らに均された跡があった。露に濡れているはずの土が、その輪郭の内側だけ、体温で乾いていた。
俺はテントを、半ば破るようにして地面から引き剥がし、丸めて袋に押し込んだ。生地は、引き剥がしている間じゅう、生き物の皮膚のように指に吸いついた。家に持ち帰り、燃えるゴミの日に出すつもりだった。けれど指定の朝、玄関の外に置いたはずの袋が、いつの間にか部屋の真ん中に戻っていた。鍵はかけてあった。試しに、縁もゆかりもない別の町の集積所まで運んで捨ててみた。家に帰ると、三和土に、あの泥のついた袋が先回りして置いてあった。
フリマアプリで、再出品しようと試みた。出品ボタンを押すたびに、アプリが落ちた。何度やり直しても、写真のアップロードの途中で画像が黒く潰れ、入力欄に、俺が打っていない一文が勝手に表示された。
「前の持ち主が手放したので出します」。
削除しても、削除しても、その一文だけが戻ってくる。打ち消した文字の跡から、同じ言葉がにじみ出してくるように。
そこで、ようやく順序が見えた。隣の窪みが毎晩深くなり、濡れた布が顔の上で間合いを計っているのは、俺を「起きてこない側」にするためだ。だが、それで終わりではない。起きてこない者が出れば、テントは窪みをもう一つ空けて、次の寝床の主のもとへ移る。布をかぶせることと、手放させることは、別々の出来事ではなかった。一つの流れの前半と後半だ。ここで眠り続ければ、俺は窪みの片方になる。逃げて手放せば、俺は「前の持ち主」になり、連鎖の運び手になる。どちらを選んでも、テントの望みは叶う。あの破られたノートの頁の、続きを書く者として。
五、先客
今、テントは部屋の隅に立っている。
どうしても畳めなかったから、仕方なく、フローリングの上に組み立てた。ペグの打てない床では妙な格好だが、そうして立てておくと、不思議と部屋全体が静まった。夜、明かりを消して布団に入ると、部屋の隅のテントの内側で、寝袋の沈むあの音がする。二人分。片方の重みは、俺ではない。
明け方になると、布団の口元が湿っている。生ぬるい、誰かの吐息のような湿り気で。最初はあれほど怖かったその気配に、俺は少しずつ慣れてきている。慣れる、というより、馴らされているのかもしれない。隣で眠る気配は、もう俺の顔を覗こうとはしないただ毎晩、確かめるように、俺の顔のすぐ上で、濡れた布の重さがゆらりとゆらめいている。いつ被せてもいいように、間合いを計りながら。
昨日、フリマアプリにもう一度ログインしてみた。
あのテントの再出品ページが、勝手に完成していた。写真も、説明文も、俺が打った覚えのないまま、きれいに整っていた。価格は二万円。状態は「数回使用」。最後の一行に、こうあった。
「前の持ち主が手放したので出します」。
俺は、その出品を取り消さなかった。
誰かが買えば、このテントは俺の部屋を出ていく。次の使用者のもとへ。窪みは二つのまま、片方を空けて。新しい持ち主が、初めての夜に、隣で誰かの身を横たえる音を聞くのだろう。そして明け方、口元の湿りに気づき、いつか濡れた布の重さに、ゆっくりと馴らされていくのだろう。俺がそうされたように。前の持ち主が、そうされたように。
ふと、思った。あの説明文を最初に書いたのは、本当に「出品者」という人間だったのか。購入のとき、俺は相手の顔も名前も気に留めなかった。今になって取引履歴を遡ると、出品者のアカウントは消えていた。退会したのか、最初から無かったのか、画面はただ「ユーザーが見つかりません」と返すだけだ。
前の持ち主も、たぶん同じだった。自分の手で文章を打った覚えはなく、アプリが勝手に整えた一行を取り消せないまま、次へ送り出しただけ。出品者などという第三者は、はじめからいなかったのかもしれない。テントは、持ち主の名前だけを書き換えながら、空いた寝床を埋める者を、自分で募り続けてきたのだ。説明文は、出品者の言葉ではない。テントの言葉だった。
通知が鳴った。
「いいね」が、一件。
俺は、それが購入に変わる瞬間を、待っている。誰かが買えば、俺は連鎖の運び手として役目を終える。誰も買わなければ、俺は今夜も、窪みのもう一つになる手前で眠る。どちらでもいい。テントはどちらでも構わない。布団の隣で、誰かの吐息が、今夜も俺の口元を湿らせる。部屋の隅の窪みが、もう一つ分、深くなる。
先客(完)




