仮置きの平
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、ぽつんと空いた平ら
その山が「人を一番殺している」と呼ばれていることは、登る前から知っていた。慰霊碑が登山口に並んでいたし、ネットの記録にもそう書いてあった。けれど死者の数というのは、私にとって統計の話でしかなかった。岩がよく滑るらしい、装備はきちんと、計画書はアプリで出した。注意すべきは過去の数字ではなく、今日の足元だ。そう思っていた。
九月の終わりだった。日中はまだ汗ばむのに、日が落ちると一気に冷える。本当は山小屋の予約を取るつもりだったのに、出発が一日ずれて満室になり、結局テント泊に切り替えた。一泊二日、稜線の手前まで上がって、適当な平らを見つけて張る。それくらいの軽い気持ちだった。
問題は、思ったより日没が早かったことだ。樹林帯を抜けたあたりで、空の色が急に薄くなった。スマホの電波はとうに圏外で、画面の左上には斜線の入ったアンテナのマークだけが点いている。地図はオフラインで落としてあったから道に迷いはしないけれど、暗さだけはどうにもならない。ヘッドライトの白い円の中を、一歩ずつ詰めるように歩いた。
その平らは、唐突に現れた。
斜面の途中に、不自然なほどきれいに均された一画があった。畳にして六枚ほどの、まるで誰かがそこだけ膝で押さえつけたような平面。周りはごつごつした岩と笹なのに、そこだけが石を退けて土を踏み固めたように整っている。テントを張るのにこれ以上ない場所だった。なのに、先客の踏み跡がない。これだけの好適地が、なぜぽつんと空いているのか。
考える余裕は、暗闇のほうが先に奪っていった。冷えた風が背中を押すように吹いて、私はその平らに追い込まれるみたいにザックを下ろした。フライシートを張り、ペグを打つ。土は柔らかく、ペグはすうっと深く刺さった。やけに、よく刺さると思った。
夕飯はバーナーで湯を沸かして、フリーズドライのカレーを戻しただけ。風で炎が傾くので、岩を風除けに置いて沸かした。湯気が顔に当たって、束の間だけ頬が温まる。食べ終えるころには指先が冷たくなっていて、私はパックの底に残ったルウを舐め取って、ごみを袋に押し込んだ。
登りの疲れが、考えることを全部押し流していった。歯磨きをして、念のためにスマホで地図を確かめる。画面の左上では、相変わらず斜線入りのアンテナマークが、ぽつんと点いている。圏外。当たり前だ。バッテリーは六割。明日の下りには充分。そう確認して、私は機内モードにして枕元に置いた。LEDランタンを最小に絞ると、テントの中はオレンジの薄明かりだけになって、布の外の闇がぐっと近くなった。
眠りに落ちる直前、ふと、地面に耳が近いことに気づいた。薄いマットの下、踏み固められた土の感触が、背中にぴたりと添っている。土の冷たさが、寝袋越しに少しずつ滲んでくる。妙にやわらかい土だ、と思った。掘り返して、また埋め戻したような。普通、山の地面はこんなにきれいに整えられていない。木の根が張って、石が出っ張って、寝心地が悪いのが当たり前だ。なのにここは、誰かが丹念に手を入れたみたいに、平らで、やわらかい。その考えに蓋をするように、私は寝袋の口を絞って、目を閉じた。
二、囃子が近づく
太鼓の音で目が覚めた。
最初は夢の続きかと思った。腹に響く低い音が、規則正しく地面から伝わってくる。どん、どん、と一定の間隔で。それに金属を打つ高い音が混じる。鉦だ。祭りのときに、撥で打って鳴らすあれ。そして笛。細く長く尾を引く、節のついた音。和太鼓と鉦と笛、まぎれもなく祭囃子だった。
こんな山の上で、と思った瞬間に、おかしいと気づくべきだった。けれど寝起きの頭は、まだその音を「人のいる証拠」として受け取っていた。近くに集落があるのかもしれない。秋祭りの夜なのかもしれない。眠りの浅い意識は、むしろ安心しようとしていた。人がいる。一人ではない。山の夜に、それは何より心強い知らせのはずだった。
寝袋の中で寝返りを打って、もう一度目を閉じる。音は止まなかった。それどころか、リズムを変えずに、少しずつ大きくなっていく。どん、どん、と。最初は谷の向こうから聞こえていたはずの音が、いまは斜面の下から這い上がってくる。近づいている。祭りが、こちらへ移動している。
囃子に、人の声が混じり始めた。
大勢の声だ。何十人もいる。だが何を言っているのかはわからない。ぼそぼそと、低く、こもった声。言葉の輪郭がほどけて、意味がどろりと溶けている。それでも一つだけ、はっきりわかることがあった。楽しそうなのだ。声には弾むような抑揚があって、笑い声に似た上ずりがある。祭りの夜の、あの浮き立った調子。
なのに、聞いているとどうしようもなく不安になった。
子供のころの記憶が、ふいに蘇る。どこか遠くで鳴っている祭囃子を、布団の中で聞いていた夜のこと。楽しいはずの音なのに、なぜか胸の奥がしんと冷たくなって、このまま朝が来ないんじゃないかと思った、あの感じ。あれと同じものが、今、地面から這い上がってくる。
私は寝袋に頭まで潜り込んだ。目を瞑って、耳を塞いで、これは風だ、木の擦れる音だと自分に言い聞かせる。それでも囃子は風のリズムでは鳴らない。どん、どん、と几帳面に拍を刻んで、確実に近づいてくる。声の数が増えている気がする。テントの布一枚の向こうに、いつのまにか大勢が集まりつつあるような。
そのとき、地面の感触が変わった。
背中の下、踏み固められた土が、太鼓の拍に合わせて、かすかに上下している。脈打つみたいに。あの妙にやわらかい土が、囃子の音に共鳴して、ゆっくりと、息をしている。
三、目の前に止まる
声が、テントの真上まで来た。
それまで斜面を上ってきていた囃子が、ぴたりと、私のテントを取り囲む位置で止まった。どん、という太鼓の一打が、すぐ耳元で鳴って、内臓まで震わせた。鉦の音が、布の数センチ向こうで弾ける。笛が、頭のすぐ上で長く尾を引く。囃子車が、テントの真ん前に止まったのだ。そうとしか思えない近さだった。
人の声が、ぐるりと私を囲んでいる。ぼそぼそと、無数の口が、何かを唱えている。楽しげな抑揚はそのままに、けれど今は、その楽しさが私に向けられている。歓迎されている、と感じた。祭りの輪の中に、招き入れられようとしている。ここに加われ、と。お前のための場所を空けて待っていた、と。
体が、動かなくなった。
恐怖で、ではない。少なくとも最初は。声に合わせて、自分の指がぴくりと動こうとするのがわかった。起き上がって、ファスナーを開けて、外の輪に加わろうとする衝動。それを止めているのは私自身の意志ではなく、もっと深いところにある、生き物としての拒絶だった。行ってはいけない。あの輪の中に、自分の場所が空いているということ自体が、あってはならない。
なぜここだけ、ぽつんと空いていたのか。
なぜ、これだけの好適地に、先客の踏み跡が一つもなかったのか。
なぜ、土はやわらかく、ペグはあんなに深く刺さったのか。
ばらばらだった違和感が、一つの形に組み上がっていく。ここは、空き地ではない。空けてあったのだ。誰かのために。次に来る誰かのために。整えて、踏み固めて、待っていた場所。
囃子の音が最大になった。声が、布のすぐ向こうで、ひときわ高く弾けた。地面が、私の背中を持ち上げるように、大きく一度、波打った。喉の奥から、自分でも思いがけない声が漏れた。
「助けて」
掠れた、みっともない声だった。一度では止まらなかった。助けて、助けて、と、自分の意志とは関係なく、同じ言葉が喉から繰り返しこぼれ出た。寝言なのか、悲鳴なのか、自分でも区別がつかない。それが合図だったかのように──テントが、外側から、がさりと揺れた。
四、誰もいない外
ファスナーが、外からゆっくりと開けられていく。
ジジ、ジジ、と歯が一つずつ外れていく音。私は寝袋の中で固まったまま、その三角形の隙間から差し込む光を見ていた。白い光。ヘッドライトのような、ライトの光。囃子が、ふっと止んでいた。あれほど耳を満たしていた太鼓も鉦も笛も、声も、いつ消えたのかわからないほど、きれいに無くなっていた。
「大丈夫か」
男の声だった。生身の、低い、現実の声。私が寝袋から頭を出すと、テントの入口に、人が屈み込んでいた。山小屋の主人だった。昼間、稜線の小屋の前で会釈を交わした、あの白髪交じりの人。ライトを手にして、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「うなされとったよ。下の小屋まで聞こえた」
私は半身を起こして、外を見渡した。
誰もいない。
囃子車も、大勢の人も、祭りの気配も、何一つない。月明かりに照らされた斜面に、岩と笹があるだけ。風が木々を揺らして、葉の擦れる音だけが、さらさらと低く鳴っている。それだけだった。人の声に聞こえたのは、これか。太鼓に聞こえたのは。──そう思おうとして、できなかった。風は、拍を刻まない。
主人は何も言わずに、ライトの光をゆっくりと動かした。テントのすぐ前。私がフライシートを張った、その平らの縁。光の円が、そこに立てられた一枚の板を照らし出した。
杭に打ちつけられた、古い木の立て札。
そこに書かれた文字を読むのに、少し時間がかかった。雨と風に晒されて、墨が滲んでいたから。けれど読めた。読めてしまった。
「使用禁止」
それだけだった。何の使用を禁じているのか、書いていない。書く必要がなかったのだろう。知っている者には、それで充分だった。
「ここはな」主人は、私と目を合わせずに、立て札を見たまま言った。「昔から、使うとらん」
声が、少し低くなった。
「事故の人をな。下ろすまで、一旦、寝かせとく場所だったんだ。冷たくて、平らで、運びやすい。だから、こう、ならしてある」
主人の長靴のつま先が、踏み固められた土を、とん、と軽く叩いた。それから、少しためらうように間を置いて、付け足した。
「昔はな、山で人が落ちると、里で太鼓を鳴らしたそうだ。仏さんを迎えに行く合図だと。鉦も笛も出して、賑やかにな。そうしてやらんと、迷うからと」
主人は、立て札の向こうの暗闇に、ちらと目をやった。
「俺は信じとらんよ。けどな、この平らで一晩越した連中は、みんな同じことを言う。夜中に、祭りの音が聞こえた、と。何が鳴っとるのかは、俺にもわからん。わからんから、使うなと札を立てとるだけだ」
「あんた、その上で寝とったんだよ」
五、空いている場所
それから先のことは、あまり覚えていない。
主人に支えられて小屋まで下り、残りの夜を、薪ストーブの前で過ごした。震えが止まらなかった。あの囃子が私を輪へ招いていたこと、土が拍に合わせて脈打っていたことは、言えなかった。主人は「みんな同じことを言う」と言ったのに、私が聞いたのは、ただの音ではなかった。あれは、私のための音だった。ただ「うなされて、すみません」とだけ繰り返した。主人も、それ以上は聞かなかった。聞かないことに慣れているようだった。何度も、こういう登山者を、小屋に連れ帰ってきたのだろう。
朝になって、私は山を下りた。
来た道を引き返して、樹林帯に入ったあたりで、足を滑らせた。なんでもない、濡れた岩の一歩だった。体が傾いて、視界が空を映して、それから谷側へ落ちた。声を上げる間もなかった。落ちながら、最後に頭をよぎったのは、あの平らのことだった。冷たくて、平らで、運びやすい。
幸い、その日は登山者が多かった。すぐに何人もが駆けつけて、私は引き上げられた。打撲だけで、骨も折れていなかった。運がよかったね、と誰かが言った。本当に運がよかった。あの山で滑落して、命に別状がなかったのだから。
それきり、私は山に登れなくなった。
理由を聞かれると、滑落が怖くて、と答える。嘘ではない。あの一歩の、足の裏が宙に浮く感覚は、今でも夢に出る。でも本当のところは、別にある。
あの夜、囃子は私を歓迎していた。輪の中に、私の場所を空けて、待っていた。けれど私は「助けて」と叫んで、主人に引き戻された。輪に加わらなかった。空けてあった場所を、埋めずに帰ってきてしまった。
帰り道で足を滑らせたのは、たぶん偶然ではない。あれは、もう一度あの平らへ運ばれるための、最初の一手だったのだと思う。冷たくて、平らで、運びやすい。誰かが下ろすのを、待つための場所へ。たまたま登山者が多くて、私は埋まらずに済んだ。だが未遂は、終わりではない。
場所は、まだ空いている。
埋まるまで、待っている。冷たくて、平らで、よくならされた、あの場所が。だから今でも、夜中にふと目が覚めることがある。布団の下、背中のあたりの床が、とん、とん、と、几帳面な拍で、かすかに脈打っている気がして。耳を澄ますと、遠くで、笛のような音が細く尾を引いている気がして。
近づいてくる。少しずつ、大きくなって。
仮置きの平(完)




