凪の七人
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
一、潮のない浜
祖母の家は、凪という名の、小さな海沿いの町にあった。 三ヶ月前、祖母は庭先の椿を見上げたまま、眠るように逝ったという。九十二であった。私は東京暮らしの忙しさにかまけて長く帰省を怠っており、葬儀にさえ間に合わなかった。 家の片付けをしにと、私は二年ぶりに、この町へ戻ってきた。
梅雨明けの、風の死んだ午後だった。 表札の墨はすっかり薄れ、玄関先の金魚鉢には藻だけが残っていた。玄関の引き戸は、祖母が触れていた頃のまま、わずかに傾いで軋んだ。 縁側の向こうには、遠く鉛色の海が見えた。砂浜は長く、波の音さえ届かぬほど静かだった。町の人はこの入り江を「凪の浜」と呼ぶのだと、祖母は昔、私に話してくれた。一年のうち、波の立たぬ日のほうが多いからだ、と。
夕刻、線香を上げに、隣家のおばばが訪ねてきた。 祖母と同い年の、骨ばった老婆である。祖母の遺影に長く手を合わせてから、おばばは私の手首を、枯れ枝のような指で握った。 「日が落ちたら、渚へ下りるな」 それだけを、おばばは言った。 「おばばさま、それは――」 「ああ、悪いことは言わぬ。下りるな」 皺の奥の目が、夕闇のように凪いでいた。おばばは杖を引き、何も答えぬまま、黙って戸の外へ帰っていった。
二、数えられぬもの
夜、祖母の文机を整理していると、奥の引き出しから、古い日記帳が出てきた。 和綴じの、薄い帳面である。表紙には「昭和三十二年」と、薄墨で書かれていた。祖母が、ちょうど十の年である。
ところどころのページに、同じ言葉が繰り返し、書き記されていた。 ――七人様、また渚を通られた。 ――今日も数えられぬよう、拳に親指を隠した。 ――妹の真砂は、数えられてしもうたのだろうか。
真砂。聞いたことのない名だった。祖母に妹がいたとは、私は知らなかった。 日記の後ろのほうに、鉛筆で描かれた拙い似顔絵があった。おかっぱの小さな女の子が、紙の向こうからこちらに、ぎこちなく笑いかけていた。余白に、「真砂、七つ」と、震える文字で添えられていた。 その、すぐ次のページに、こう書かれていた。 「真砂、渚にて行方知れず。七つであった」
翌日、おばばが夕餉を届けに来てくれた折、私はそれとなく、真砂のことを尋ねてみた。 おばばは湯呑みの縁を、かさかさと指でなぞった。長く黙ってから、ひどく細い声で、ぽつりぽつりと語りはじめた。 「七人様は、な。いつも、七人で組んでおられる。新しい魂が一人加われば、古い一人が解き放たれる。じゃから、数は、いつも七のままなのじゃ」 「なぜ、数えるの」 「数える、というのは、選ぶ、ということでなあ。渚を歩きながら、次の一人を、ゆっくり、ゆっくり、選んでおられる」 「数えられたら、どうなるの」 「熱を出して、寝込んで、三日で逝く。……もしくは」 おばばは湯呑みを、そっと畳に置いた。 「加えられる。七人様の、次の一人にな」
見送ったあと、私は日記の続きを読んだ。 最後のページは、ほとんど白紙だった。 けれど紙を光に透かすと、かすれた鉛筆の跡が、うっすらと浮かんで見えた。 「真砂を、返してもらえるのなら」 そこで、祖母の筆は、止まっていた。
三、拳の中の親指
その夜、私は浜に下りた。 止められていた。それでも、祖母の日記を胸に抱えたまま、裸足で砂を踏んだ。自分でも、なぜそうしたのか、うまく言葉にできなかった。日記の余白に漂う、祖母の、七十年越しの迷いの匂いに、呼ばれてしまったのかもしれない。
月はなかった。波のない海は、黒く磨かれた鏡のようだった。 沖のほうから、細い、歌のような音が、途切れ途切れに聞こえていた。経にも、童謡にも似ていた。
やがて、渚の遠くに、人影が列をなして現れた。 七つ。深く笠を被り、薄く色の褪せた衣をまとい、一定の歩調で、こちらへ歩いてくる。 足音はしなかった。砂に足跡も、残らなかった。ただ、そこを歩いているというだけで、あたりの空気が、芯からしんと冷えていった。
私は両手を、ぎゅっと握りしめた。親指を拳の内側に深く握り込み、顔を伏せ、息を殺して、早足で歩いた。 見てはならぬ、数えられてはならぬ。おばばの声が、耳の奥で、繰り返し鳴っていた。
列は、私のすぐ脇を、通り過ぎていった。 潮の匂いではなかった。冷たい、湿った土の、墓土に似た匂いがした。
通り過ぎた、と思ったその瞬間、列の最後尾が、ふと、足を止めた。 小さな人影だった。子供の背丈の、笠を被った影。 笠の縁が、ゆっくりと、持ち上がった。
下の顔は、祖母の日記の後ろに描かれていた、拙い似顔絵に似ていた。 おかっぱの、小さな女の子。 真砂、だった。
四、六人の影
唇は動かなかった。けれど、声だけが、私の頭の内側に、静かに落ちてきた。 「ねえさま。代わっておくれ」 子供の声でも、老いた声でもなかった。海の底で、永いあいだ水に磨かれて、ようやく形を保てるようになったような、透きとおった声だった。 「七つで止まってしもうた、わたしを、うちへ帰しておくれ」
私は握った拳を、もう一度、強く握り直した。握り直した、つもりだった。 気がつけば、右手の親指が、拳の外側に、静かに出ていた。 いつ解けたのかは、わからなかった。握り込む前から、そうだったような気もした。 祖母の日記の、最後の一行が、胸のなかに、音もなく浮かんでいた。 ――真砂を、返してもらえるのなら。
真砂の影が、列から、一歩、こちらへ踏み出した。 小さな裸足が、砂に残った私の足跡に、ぴたりと重なった。 残り六人の笠が、ゆっくりと、私のほうへ向きを変えた。 笠の下には、顔はなかった。あるのは、ただ、数を数えるための、かすれた声だけだった。
「一つ、二つ、三つ――」
声が、渚を、ゆっくりと、私の輪郭の上を、なぞっていった。
五、七人目
翌朝、日の出と同じ頃に、おばばが家を訪ねてきた。 玄関の引き戸は、開け放されたままだった。 座敷の文机の上に、祖母の古い日記が、ひらかれていた。白紙だった最後のページには、新しい筆跡で、一行だけ、書き足されていた。
「真砂、今朝、縁側にて目覚める。七つのまま」
家のなかは、しんと、静まりかえっていた。 私の姿は、どこにもなかった。
ただ、縁側に、七つくらいの女の子が一人、膝を抱えて座り、鉛色の海を、じっと眺めていた。 おかっぱの髪が、朝の微かな風に揺れていた。 おばばは、女の子の名を呼ばなかった。呼んではならぬことを、長い歳月のなかで知っていた。
女の子は振り向きもせず、小さな声で、数を数えていた。 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ―― 七つ目は、まだ、呼ばれていなかった。
遠く、凪の浜を、笠を被った影の列が、ゆっくりと歩いていた。 一定の歩調で、渚を数えながら。 数は、七つの、ままだった。
新しい一人は、昨夜、たしかに、加わったのに。 それでも七人様の列は、ひとつ増えもせず、減りもせず、ただ、七つのまま、朝の渚を、どこまでも、歩いていった。
(完)




