赤水
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、錆びた水
その町に越してきたのは、四月の終わりだった。
転勤というほど大層なものではない。勤め先が支社を畳んで、私はひとり、川沿いの古いアパートに移された。窓を開けると、すぐ下に幅の狭い川が流れている。家賃が安かったのは、たぶんこの川のせいだ。
不動産屋は、川のことをほとんど話さなかった。ただ契約のとき、思い出したように言った。雨のあと、たまに水が濁ることがありますが、上流の古い坑道から鉄分が出るだけですので、と。坑道、と私は聞き返した。男はうなずいて、昔この一帯で亜炭を掘っていたのだと答えた。今は塞がれていて、誰も入れません。それきり、その話は終わった。
引っ越しの片づけが一段落したのは、五月の頭だった。荷ほどきの合間に、私は何度かその川を眺めた。水は澄んでいて、底の小石まで透けて見えた。岸にはコンクリートの低い護岸が続き、ところどころ苔がついている。穏やかな、どこにでもある川だった。
夜になると、川の音だけが部屋に残った。テレビを消すと、護岸のあいだを水が流れていく、細い音が聞こえてくる。最初は耳障りだったが、慣れると、存外に心地よかった。知らない町の、知らない部屋で、ただ水の音だけが、変わらずそこにあった。私はその音を聞きながら、よく眠った。
引っ越して三日目の夜、川の音に混じって、何かが岸に当たる、にぶい音を聞いた気がした。ことり、と固いものが石に触れるような音だった。窓を開けて覗いたが、暗くて何も見えなかった。気のせいだと思って、私はまた眠った。
最初の異変に気づいたのは、雨上がりの朝だった。
夜半に強い雨が降って、明け方にやんでいた。私は出勤前にゴミを出そうと外へ出て、何気なく川を見下ろした。水が、赤かった。
護岸のあいだを、錆びた色の水が流れていた。澄んだ赤ではない。泥に血を溶かしたような、にぶく濁った赤だった。ちょうど真下の岸に、上流から流れてきた何かが引っかかっていた。茶色く乾いた葉が一枚、水際の石の上に置かれていた。
私はしばらく、その色を見ていた。坑道の鉄錆だ、と自分に言い聞かせた。不動産屋もそう言っていた。雨のあとに濁るだけだ。実際、夜に帰ってくる頃には、水はもとの透明に戻っていた。何事もなかったように、小石が底で光っていた。
ただ、ひとつだけ妙だった。赤かったのは、私のアパートの真下から、下流のほうだけだった。上流のほうは、朝から澄んでいた。鉄錆が流れ出したのなら、上流のほうが濃いはずではないか。上流まで確かめに行こうと思ったが、その週は仕事が立て込み、結局そのまま忘れた。雨上がりの、ただの濁りだ。そう思うことにした。
二、お返し
赤い水は、それから何度か現れた。
不思議なことに、雨とは関係がなかった。晴れた日の朝に赤くなっていることもあれば、大雨の翌日に澄んでいることもあった。きまって私のアパートの真下から下流だけが染まり、上流は澄んでいる。私はだんだん、その規則のなさが気になりはじめた。
ある夕方、川沿いを歩いていると、護岸の上に老人が腰をおろしていた。痩せた、白髪の男だった。近所でときどき見かける顔だった。私が会釈すると、男はゆっくりこちらを向いた。
あんた、あの赤いアパートのひとかね。
赤いアパート、と私は心のなかで繰り返した。外壁は、くすんだ灰色だ。赤いところなど、どこにもなかった。それでも私は、そうです、と答えた。男は川に目を戻した。水は澄んでいた。
昔はね、と男は言った。この川に、いろんなものを流したんだ。
いろんなもの、と私は聞き返した。男は指で川下を示した。節くれだった、土の染みついた指だった。
要らなくなったものさ。壊れた道具、古い着物、死んだ家畜。みんなここへ流した。上流の坑道から、川がどこへ続いているか、誰も知らなかったからね。流せば、消える。そういう川だった。
男はそこで言葉を切って、私の顔を見た。落ちくぼんだ目だった。瞳の色が、どこか赤みを帯びているように見えた。
けどね、たまに川が、返してくるんだ。
返す、と私はつぶやいた。男は小さくうなずいた。流したものを、川が気に入らないと、赤くして返す。錆びた水は、お返しなんだよ。あんたの真下から赤くなるなら、もう返されはじめてる。気をつけなさい。返ってきたものに、触れちゃいけない。一度でも受け取れば、それで決まる。あとはもう、流したものと同じだ。
それだけ言うと、男は立ち上がって、川下のほうへ歩いていった。背中が、暮れていく水のなかへ溶けていくようだった。歩き去る足もとを、私はなぜか目で追った。靴が濡れていた。踵のあたりに、赤い泥がついていた。私は護岸に残されて、暗くなる水面を見ていた。迷信だ、と思った。坑道の鉄錆を、昔の人が祟りに見立てただけの、よくある話だ。そう思いたかった。
その夜、私は赤い水のことを調べた。古い亜炭の坑道から地下水が滲み出し、鉄分が空気に触れて酸化する。雨のとき、それが一気に川へ流れ出す。理屈はすべて説明がついた。亡霊も、お返しも、どこにもなかった。私は安心して、画面を閉じた。
翌朝、川はまた赤かった。そして岸の石の上に、茶色く乾いた葉が一枚、置かれていた。前と、同じ場所だった。
三、流したもの
それからしばらく、私は川を見ないようにしていた。
朝はカーテンを開けず、ゴミは別の道から出した。見なければ、赤くても気づかない。気づかなければ、何も始まらない。そう考えていた。だが、川のほうが私を見ていた。
夜、水の音はやまなかった。眠ろうとすると、護岸を流れる音に混じって、ことり、と岸に何かが当たる音がした。引っ越して三日目に聞いた、あの音だった。私は布団をかぶって、耳をふさいだ。それでも音は、夜ごと近づいてくるようだった。
六月のはじめ、私は仕事で使う古い革の手帳を捨てることにした。角が擦り切れて、もう書く場所もなかった。漆を革に塗り込んだ、黒い手帳だった。前の会社で配られたもので、支社が畳まれてからも、なんとなく持っていた。ゴミの日まで間があったので、私はそれを、何の気なしに窓から川へ放った。塞がれた坑道へ続く川なら、流せば消える。男の言葉が、頭の隅にあったのかもしれない。
手帳は、にぶい音を立てて水に落ち、黒い影となって下流へ遠ざかっていった。私はそれを見届けて、窓を閉じた。流せば、消える。そういう川だ。
その夜、雨も降っていないのに、川が赤くなった。
私はカーテンの隙間から、下を覗いた。アパートの真下から下流が、錆びた色に染まっていた。そして真下の岸に、黒いものが引っかかっていた。私の手帳だった。下流へ流れていったはずの手帳が、流れに逆らって、私の窓の真下まで戻ってきていた。
返ってきたものに、触れちゃいけない。
老人の声が、耳の奥でよみがえった。私は手を出さなかった。窓を閉め、鍵をかけ、カーテンを引いた。手帳は、岸に置いておけばいい。やがて誰かが片づけるか、また流れていくだろう。そう思って、私は眠った。眠れたわけではない。夜通し、ことり、ことり、と岸を打つ音が続いていた。
朝、川は澄んでいた。岸に手帳はなかった。流れていったのだ、と私は息をついた。
それから、玄関の戸を開けた。三和土の上に、黒い手帳が置かれていた。漆の塗り込まれた、私が捨てたものだった。表面が、まだ濡れていた。鉄錆の匂いがした。川の匂いだった。
考えるより先に、手が動いていた。こんなものを、と思った瞬間には、もう私はそれを拾い上げていた。濡れた漆が、指に冷たかった。捨てなおさなければ、それだけのつもりだった。手のなかで、手帳は水を吸った革の重み以上に重かった。
触れちゃいけない。
老人の声が遅れて頭をよぎったときには、もう掌に、川の匂いが移っていた。受け取った、という言葉が、なぜか頭に浮かんだ。私は慌てて、手帳を三和土に落とした。けれど、一度移った匂いは、洗っても落ちなかった。
四、戻る
手帳を、私はもう一度捨てた。今度は燃えるゴミに出した。袋の口を固く縛り、ほかのゴミの下に押し込んだ。収集車が袋を持っていくのを、私は窓から見届けた。これでいい。川とは関係のない場所へ、運ばれていった。私はようやく、肩の力を抜いた。
その夜、玄関の三和土に、手帳があった。
濡れた表面に、川の匂いがした。鉄錆の、血のような匂いだった。私は今度こそ、触れなかった。あの朝、思わず拾い上げてしまったことを、私はずっと悔いていた。一度でも受け取れば、それで決まる。老人はそう言った。もう遅いのかもしれない、という考えが、頭の隅から離れなかった。
理屈で考えようとした。収集車は確かに来た。袋は確かに持っていかれた。だとすれば、これは私が捨てたものとは別の、よく似た手帳ではないか。そう思おうとした。表紙の角の、私が爪で削ってしまった傷まで、同じだった。これは、私の手帳だった。
私は老人を探した。だが、あの白髪の男は、どこにもいなかった。近所の誰に聞いても、そんな人は知らないと言った。ただ、ひとりの女が、声をひそめて言った。あの川沿いのアパートは、人が居つかないのだと。越してきても、みんなひと夏で出ていくのだと。なぜ、と私が聞くと、女は答えずに行ってしまった。
それでも、私は川へ行った。護岸の上に立って、川下を見た。水は澄んでいた。見ているうちに、ふちのほうから、にぶい赤が滲んできた。錆びた色が、上流ではなく、私のいる場所から下流へ、ゆっくりと広がっていった。私が立っている、足もとの石から、赤は始まっていた。
通りかかった学生が、ふたり、川を見もせずに笑いながら橋を渡っていった。足もとの水が、こんなにも赤いのに。見えないのか、と声をかけそうになって、やめた。彼らにとって、川はきっと澄んだままなのだろう。
そのとき、気づいた。赤い水が、いつも私のアパートの真下から始まっていた理由に。流したものを、川は返す。けれど、川が返したいのは、ものではなかった。
私は、この町へ流されてきた者だった。支社が畳まれ、要らなくなって、川がどこへ続くかも知らないまま、この川沿いへ移された。そして川は、私を気に入らなかった。真下から赤くなりはじめた朝、私はもう、返されはじめていたのだ。錆びた水は、その兆候だった。
触れてはいけない。一度でも受け取れば、それで決まる。──私は、あの朝、拾い上げてしまった。濡れた漆を、この手で握ってしまった。あれで、決まったのだ。
手帳は、合図にすぎなかった。捨てても戻ってくる黒い手帳は、お前も同じだと、川が教えていた。流れ着いた先で要らないと言われたものは、もとの場所へ返される。だが私には、もとの場所がなかった。畳まれた支社も、前の町も、もうどこにもなかった。私を返す先は、どこにもなかった。
老人のことを思い出した。濡れた靴。踵についた、赤い泥。あの男も、ずっと昔にこの川へ流れ着いた者だったのだろう。受け取って、決まって、返す先がなくて。川と岸のあいだに、留め置かれている。だから私にだけ見えて、忠告したのだ。手遅れになる前に、と。
五、赤水
それから、川はずっと赤い。
雨が降っても、晴れても、水は錆びた色のまま流れている。下流だけではない。今は上流も、私の窓の真下も、すべてが血を溶いたように濁っている。澄んでいた頃の、底の小石は、もう見えない。岸の苔まで、赤く染まってきた気がする。
玄関の手帳は、捨てても捨てても、毎朝そこにある。私はもう、触れることをためらわなくなった。とうに決まってしまった身には、いまさら触れても、何も変わらない。手帳はただ濡れて、そこにある。漆の表面に、川の匂いが染みついている。鉄錆の、血のような匂い。それは今では、部屋じゅうに広がっている。私の服も、髪も、その匂いがする。
近所の人は、川が赤いことに、気づいていないようだった。私が赤いと言っても、澄んでいるじゃないか、と妙な顔をされた。赤いのは、私の目にだけ映る色だった。流された者は、流された者にしか見えない。そういう色なのかもしれなかった。
夜、窓を開けると、川の音がする。錆びた水が、護岸のあいだを流れていく音だ。その音に混じって、ことりことりと、何かが岸に打ち上げられる、にぶい音がする。覗いてみると、私の手帳が、また真下に戻ってきている。流したはずのものが、流れに逆らって、私のもとへ。引っ越して三日目の夜に聞いた、あの音だった。あの夜から、川はもう、私を返しはじめていた。
川は、まだ私を返そうとしている。けれど、もう流す先がない。支社は畳まれ、川の行き着く場所は、誰も知らない。だから私は、ここにいる。赤い水のほとりで、毎朝戻ってくる手帳を眺めながら、川が私を受け取る日を、待っている。
ことり、と音がする。岸で、何かが戻ってくる。
水は、今日も赤い。
赤水(完)




