前を行く人
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、霧が出る
那須の山に入ったのは、九月の終わりだった。
旭岳から三本槍岳へ抜ける尾根を、私はひとりで歩いていた。学生のころから山は好きだったが、社会人になってからは年に二度か三度、こうして日帰りで来るのがやっとだ。その日も朝のうちに登りきって、昼前には下山する予定で組んでいた。
天気予報は晴れ。実際、登り始めたときの空は気持ちがいいくらいに青かった。
異変は稜線に出てすぐだった。
足元から、白いものが湧いてきた。最初は谷の底に溜まっていただけの霧が、見ているうちに尾根を這い上がってくる。風の流れが変わったのだと思う。沢からの上昇気流に乗って、霧は数分のうちに私の膝を、腰を、肩を呑んでいった。
携帯を出して地図を確かめた。電波は届いていた。圏外の表示にはなっていない。だが画面の中の青い点は尾根の上で止まったまま、向きさえあやふやに揺れている。GPSは現在地を示しても、霧の中で私がどちらを向いているのかまでは教えてくれない。
引き返すべきだとわかっていた。霧の山で道を外すのが、どれほど危ういか。それくらいの知識は私にもあった。学生のころ、山岳部の先輩から何度も聞かされた。山では、見えなくなった瞬間がいちばん怖い。見えないから人は、見えていたときの記憶を頼りに歩く。その記憶が、いちばんあてにならない。
それでも私は前に進んだ。三本槍岳はもうすぐのはずだった。あと少し、という距離感だけが頼りだった。視界は数メートル。岩の濡れた匂いと、湿った土の冷たさだけが、足元に確かにあった。霧の粒が頬に触れて、まつげに溜まり、視界をさらに滲ませた。手の甲で拭っても、すぐにまた濡れた。
引き返すなら、今だった。だが今を逃すと、もう引き返す方向さえわからなくなる。その焦りが、かえって私を前へ押した。
道標を一つ過ぎた。錆びた金属の標識に、矢印と山名が刻まれていた。三本槍岳まで、あと一キロ。読んで、少し安心した。あと一キロなら歩ける。次の道標が、なかなか来なかった。
来ないはずはない、と思いながら、私は歩いた。歩くほど、足元の登山道はあやしくなった。踏み固められた土の感触が、いつのまにか草の上を踏む柔らかさに変わっていた。立ち止まって足元を探ると、あったはずの踏み跡が消えていた。木の枝に巻かれた赤いテープも、もうどこにも見えなかった。自分の呼吸の音だけが大きく聞こえた。
道を、外したのだ。
そう気づいたとき、霧の向こうに人影が見えた。
二、後ろをついて
人だ、と思った瞬間、体の力が抜けた。
ひとりではなかった。霧の中に、三人、いや四人。前後に少し離れて、同じ方向へ列をなして歩いている。ザックを背負い、しっかりした足取りで、迷う様子もなく進んでいく。登山道を知っている人たちだ。地元の山岳会か、あるいは私と同じ縦走者か。
「すみません」
声をかけた。霧で距離感が狂っていたのか、思ったより遠かったらしく、声は届かないようだった。誰も振り向かない。
「すみません、道がわからなくて」
もう一度、今度は大きく。
それでも、列の誰ひとり振り向かなかった。
聞こえていないのだろう、と思った。霧は音を吸う。風もあった。それに彼らは黙々と歩くことに集中していて、後ろから来る私になど気づいていないのかもしれない。とにかく、ついていけばいい。彼らは道を知っている。その確信だけで、私は足を速めた。
服装は、私と似たようなものだった。色のくすんだ雨具に、登山用のザック。けれど一人だけ、ずいぶん古い格好をしていた。最後尾の男は、いまどき見ない厚手の綿の上着を着て、足には地下足袋のようなものを履いていた。昔の人だ、と頭の隅で思った。地元の、昔からこの山を歩いている人なのだろう。そう納得して、それ以上は考えなかった。
列の最後尾に追いつこうとした。けれど距離は縮まらなかった。
私が速めれば、彼らも速まる。私が緩めれば、彼らも緩む。まるで一定の間隔を保つように、四人の背中は霧の中で同じ大きさのまま、私の前を行き続けた。
不思議だとは思った。だが、そのときの私には、それを怖いと感じる余裕がなかった。前を行く背中があること。それだけで、孤独な霧の中に、頼れるものが生まれた気がしていた。
彼らの足取りは確かだった。
岩場を巻き、ぬかるみを避け、迷いのない線を引いて霧の奥へ消えては、また現れる。私はその線をなぞるように歩いた。一歩ずつ、彼らの踏んだところを踏んだ。
どれくらい歩いただろう。
ふと、列の人数が変わっていることに気づいた。四人だったはずが、五人いる。いつのまにか一人増えていた。数え間違いだろうか。霧の中で背中を数えるのは難しい。それでも目で追えば、確かに五つの影が前を行っていた。
増えた一人は、列の中ほどにいた。前の四人と同じ歩幅で、同じ向きで歩いている。どこから合流したのだろう。脇道などなかったはずだ。霧の中で、私が見落としていただけかもしれない。そう思おうとした。
それより、足が重かった。膝が笑いはじめていた。前を行く背中だけを頼りに、私はただ歩いた。
三、数が合わない
休もう、と思ったのは、足が限界に近づいていたからだ。
ふくらはぎが石のように固まり、一歩踏み出すたびに、太ももの奥が引きつった。喉も渇いていた。水筒を取ろうと肩のストラップに手をかけて、けれど立ち止まるのが怖かった。立ち止まれば、前を行く背中を見失う。見失えば、また独りに戻る。その独りが、今はいちばん恐ろしかった。
時計を見た。山に入ってから、もう四時間が過ぎていた。日帰りの予定なら、とっくに下りていなければならない時間だ。それなのに私はまだ登っているのか下っているのかもわからない斜面を、前を行く背中を追って歩き続けていた。
立ち止まって、彼らに声をかけようとした。今度こそ、休憩しましょうと。
そのとき、列の先頭の一人が、横を向いた。
振り向いたのではない。ただ、歩く先の何かを見るように、横顔をこちらにさらしただけだ。霧の薄れた一瞬、その顔が見えた。
口元から顎にかけて、肌の色が違っていた。生きている人の肌の、血の通った色ではなかった。湿った土に近い、灰がかった色。そして目のあたりに、光がなかった。瞼が閉じているのではなく、見ているのに、そこに何も映していない目だった。
それでも、その横顔には、どこか見覚えがある気がした。誰に似ているのか、思い出せなかった。思い出してはいけない、という感覚のほうが先に立った。記憶の底で何かが浮かびかけて、私はそれを慌てて沈めた。
私は足を止めた。
止めたのに、足元の感触が動き続けていた。立っているはずなのに、地面のほうがゆっくりと後ろへ流れていく。前を行く五つの背中は、止まった私から離れていかなかった。距離が一定のまま、彼らも止まったように見えて、けれど私と一緒に、どこかへ運ばれていた。
数えた。一、二、三、四、五。
もう一度数えた。六。
増えている。私が数えているあいだに、また一人増えていた。新しく加わった影は、列の最後尾――つまり、私のすぐ前にいた。さっきまで縮まらなかったはずの間隔が、その一人とのあいだだけ、いつのまにか詰まっていた。私と先頭の四人とのあいだに、割り込むように立っていた。
その背中が、ゆっくりと向きを変えはじめた。
ほかの誰も振り向かなかったのに、その一人だけが、私のほうを向こうとしていた。横顔が見えた。肩が見えた。私は、それの正面を見たくなかった。なぜ見たくないのか、理由は言葉にならなかった。ただ、向き合ってはいけない、と全身が言っていた。
四、振り向かないこと
私は、背を向けて駆け出した。
来た方向へ――そう思ったが、来た方向などもうわからなかった。とにかく、列から離れる方へ。前を行っていた背中たちから、後ろを向こうとしたあの一人から、遠ざかる方へ。
斜面を下った。木の根に足を取られ、岩で膝を打ち、それでも止まらなかった。背後で、足音が増えていた。一人分ではなかった。私が一歩進むたびに、背後の足音は二歩、三歩と増えていく。追ってきているのではない。私が逃げることで、列が伸びている。私の足音が新しい一人を生み、その一人の足音がまた次を生む。逃げるほど、後ろの列は長くなった。
振り向いてはいけない。
それだけは、はっきりとわかっていた。あの人たちが一人も振り向かなかったのは、礼儀でも無関心でもない。そんな気がした。振り向いた者から、列に組み込まれるのではないか。前を行く背中でいるかぎり、その人はまだ歩いている。けれど一度こちらを向けば、向いた顔のまま、列の前を行く側に立つ。
なぜそう思ったのか、根拠はなかった。ただ、最初に見た四人が、何があっても背中を見せ続けていたこと。中ほどに増えた一人が、最後尾に回り込んだ一人が、こちらを向こうとした途端に、私の前に立つ側へ移ったこと。それを順に並べると、ひとつの規則のようなものが浮かんだ。向くか、向かれるか。もし規則があるなら、それなのだと思った。
私は前だけを見て走った。
霧の濃さは変わらなかった。けれど足元の感触が、また硬くなっていた。草から土へ。土から、踏み固められた登山道へ。背後の足音は、まだ増え続けていた。もう数えられないほどの数が、私の後ろを、同じ歩幅でついてきていた。
息が上がっていた。喉が裂けそうだった。それでも振り向かなかった。後ろから来るものに名前をつけてはいけない気がして、私はただ、前を、前を、と心の中で繰り返した。一度でも振り向けば、私の顔がこちらを向く。そうしたら、私はもう、後ろから来る誰かにとっての、前を行く背中になる。それだけは嫌だった。
足音が、ふいに遠ざかった。
増え続けていた背後の気配が、一斉に後ろへ抜けていく。まるで私を追い越して、私の前へ回り込もうとするように。
そして、霧が晴れた。
五、迎えに来た
目の前に、避難小屋があった。
突然だった。霧の壁が左右に開くように退いて、灰色の三角屋根が、すぐ手の届くところに立っていた。古い無人の避難小屋だった。トタンの壁は錆びて、扉の脇に、消えかけた文字で番号のようなものが書かれていた。窓に明かりはなかったが、確かに人の作ったものだった。私は転がり込むようにして、その扉に手をかけた。
振り返ってはいけない。わかっていた。
それでも、扉を開ける一瞬、視界の端に映ってしまった。
私が下りてきた斜面に、霧はもう薄かった。さっきまで私の後ろにいた、数えきれないほどの背中。あれだけの足音をたてていた列が、そこには一つもいなかった。誰もいない。ただ濡れた草の斜面が、霧の名残のなかで光っているだけだった。
きっと、と私はあとになって思うようにしている。
あの人たちは、迷った私を助けてくれたのだ。道を知らない私のために、先を行って道を示してくれた。最後には自分たちが前に回り込んで、小屋まで導いてくれた。だから振り向かなかった。振り向けば私が彼らの側になってしまうから、それを避けて、背中だけを見せ続けてくれたのだ――
そう思うことにしている。三十年、そう思って生きてきた。山の話をするとき、私はいつもそこで終える。助けてもらったのだ、と。聞いた人はみな、いい話だと言ってくれる。山にはそういう不思議があるのだと、うなずいてくれる。私もそうだと思いたい。
ただ、ひとつだけ、思い出すたびに引っかかることがある。
小屋に入って、息を整えて、しばらくして外を見たとき。霧はすっかり晴れていた。斜面の下のほうに、登山道がはっきりと見えた。そこを、何人かが列をなして登ってくるのが見えた。私のいる小屋のほうへ、まっすぐに。
迎えに来てくれたのだ、と最初は思った。
でも、彼らは小屋には寄らなかった。私のいる前を、横切るように通り過ぎて、また霧のない斜面の上へと消えていった。一人も、こちらを振り向かないまま。古い綿の上着の男も、土の色の横顔の一人も、その中にいた。同じ歩幅で、同じ向きで。
その列の、いちばん後ろ。
少し離れて、私と同じ背格好の誰かが、ついて歩いていた。雨具の色も、ザックの形も、私のものとよく似ていた。その背中は一度も振り向かず、列の最後尾を保ったまま、霧の上へと遠ざかっていった。
私は今でも、年に二度か三度、山に登る。
霧が出ると、いつも数えてしまう。前を行く人の、背中の数を。
前を行く人(完)




