笑む山
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。
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一、夏の縄文杉
その日の屋久島は、朝から霧と晴れ間が代わるがわるやってきた。
荒川登山口を発ったのは、まだ薄暗い五時前だった。
私は東京の会社員で、夏季休暇を使って一人で島に来ていた。
縄文杉まで往復二十二キロ。十時間以上歩く、と前日に読んだガイドブックに書いてあった。
ツアーには申し込まなかった。
人と歩調を合わせるのが、昔から面倒だったからだ。
一人なら、好きなところで立ち止まって、好きなだけ写真を撮れる。
それだけのことだった。
前夜は、宮之浦の安宿に泊まった。
夕食のとき、宿の主人が、明日はどこへ、と聞いてきた。
縄文杉まで、と答えると、主人は少し黙ってから、一人かい、と聞き返した。
一人です、と言うと、主人は、ガイドをつけたほうがいい、とだけ言った。
道に迷う人が、たまにいるから、と。
それから、手を止めて、付け足した。
山で誰かに会っても、気軽に返事をしないことだ、と。
笑いかけられても――。
そこで主人は、言葉を飲み込んだ。
いや、なんでもない、独り言だから、と首を振って、去っていった。
整備された一本道で、迷いようがあるのだろうかと、私は内心おかしく思った。
それでも、主人の顔は笑っていなかった。
トロッコ道は、思っていたより歩きやすかった。
古い軌道に沿って、苔むした森がどこまでも続いている。
枕木の間隔が、私の歩幅と微妙に合わなくて、一定の間隔で足がつまずきかけた。
水の音が、絶えずどこかで聞こえていた。
近くなったり、遠くなったりしながら、決して途切れることはなかった。
スマホは登山口を過ぎてすぐに圏外になり、画面の隅で電波の表示が灰色のまま固まっていた。
それでも、来た道を戻るだけだ。
迷いようがない、と私は思っていた。
大株歩道入口で携帯トイレ用のブースを横目に休憩を取り、行動食のチョコレートをかじった。
そこから先は、本格的な山道に入った。
岩を掴み、根を踏み、息を切らして登った。
軍手の指先が、苔の湿りで黒く汚れた。
ウィルソン株の空洞をくぐったあたりから、汗が冷えて背中に張りついた。
中は思いのほか広く、見上げると切り口がハートの形に抜けていた。
人気のある場所らしく、何人かが順番に空洞に入っては、上を向いて写真を撮っていた。
縄文杉に着いたのは、昼前だった。
展望デッキの手すりに肘をついて、私はその巨木をしばらく見上げていた。
幹は、想像していたよりもずっと太く、ずっと静かだった。
七千年とも言われる時間が、ただそこに立っていた。
人が数組いた。
みな静かに写真を撮り、静かに去っていった。
誰も、大きな声を出さなかった。
出してはいけない場所のように、私にも感じられた。
私もデッキを離れ、下りにかかった。
そのとき、登山道から少し外れた斜面の奥に、白いものが見えた。
人だった。
道のない、木の根の絡んだ急な斜面の途中に、長い髪の女が立っていた。
こんなところに、どうやって、と思った。
道から、ゆうに十メートルは外れている。
私が立っているデッキの手すりからは、降りられないようになっていた。
それなのに、女は斜面の途中に、平らな地面に立つように、まっすぐ立っていた。
女は、私のほうを見ていた。
二、笑い
女は、若かった。
踵に届くほどの黒い髪が、風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
縦縞の着物を着ていた。
山にはおよそ似合わない、糊のきいた、真新しい着物だった。
泥のひとつも、葉の一枚もついていない。
何キロもの山道を登ってきた者の格好では、なかった。
草履の先が、着物の裾からわずかに覗いていた。
その草履にも、土はついていなかった。
まるで、たった今、この斜面に、置かれたばかりのように。
私は会釈をした。
登山者同士の、軽い挨拶のつもりだった。
女は応えなかった。
ただ、こちらを見ていた。
目だけが、こちらを向いていた。
顔の他の部分は、まだ何の表情も浮かべていなかった。
立ち去ろうとして、私は足を斜面のほうへ向け直した。
そのとき、女が笑った。
声はなかった。
ただ口元が、ゆっくりと横に広がった。
頬が持ち上がり、白い歯が覗いた。
目は笑っていなかった。
それでも、つられて、私の頬も動いた。
笑い返してしまった。
そう気づいたのは、女の姿がもうそこになかったからだった。
斜面には、誰もいなかった。
木の根と、苔と、垂れ下がった枝が、何ごともなかったように並んでいるだけだった。
さっきまで人が立っていた場所に、踏まれた草の跡もなかった。
妙だ、と思いながら、私は下山を続けた。
道はわかっていた。
来た道を、ただ戻ればいい。
トロッコ道まで下りれば、あとは平坦な軌道が登山口まで続いている。
迷う要素は、どこにもなかった。
さっきの女のことは、疲れた目が見せた幻だったのだろう、と私は片づけようとした。
霧が出てきた。
最初は谷の底から薄く湧くだけだったのが、見る間に濃くなった。
五メートル先が白く溶けて、足元の岩しか見えなくなった。
こういうこともあるだろう、と思った。
山の天気は変わりやすいと、ガイドブックにも書いてあった。
無理に進んで道を外すより、待つほうがいい。
私は手近な岩に腰を下ろし、霧が薄れるのを待った。
湿った空気が、口の中まで入ってきて、苔の匂いがした。
霧の中で、水の音だけが、相変わらず近くなったり遠くなったりしていた。
じっとしていると、その音が、誰かの呼吸のように聞こえた。
私は、宿の主人の言葉を思い出していた。
道に迷う人が、たまにいる。
こんな一本道で、と、もう一度思った。
それから、さっきの女のことを、もう一度思い出した。
思い出さないようにしようと思うほど、はっきりと、あの口元が浮かんだ。
三、戻ってくる
霧が晴れたとき、私はウィルソン株の前に立っていた。
さっき通ったはずの、あの大きな切り株だった。
中の空洞が、ぽっかりと黒く口を開けていた。
腰を下ろした岩から、私は一歩も動いていないつもりだった。
それなのに、いつの間にか立ち上がって、ここまで歩いてきていた。
登山靴の底には、来たときより泥が増えていた。
息も、少し上がっていた。
眠ったのでも、気を失ったのでもない。
歩いた疲れだけが、たしかに体に残っていた。
ただ、その記憶だけが、すっぽりと抜け落ちていた。
おかしい。
私は確かに、ウィルソン株を過ぎて、下っていた。
縄文杉のほうから、夫婦杉、大王杉と下りてきたのだ。
それなのに、また同じ株の前にいる。
下ったのに、来た道の上のほうに、戻っている。
時間をかけて、確かに標高を下げたはずだった。
膝が、下りの衝撃を覚えていた。
踵の鈍い痛みが、何度も坂を下りたことを、私の体に教えていた。
それなのに、私はまた、登山道の上のほうにいた。
地図を確かめようと、スマホを握った。
圏外の表示は、変わらず灰色のまま固まっていた。
画面の時刻は、昼の十二時を示したきり、一分も進んでいなかった。
バッテリーの表示は、満タンのままだった。
電池が切れたわけではない。
それなのに、時計の数字だけが、止まっていた。
私はもう一度、下りはじめた。
今度は、慎重に、道標を一つずつ確認しながら歩いた。
小杉谷バイオトイレ。
トロッコ道終点。
順番は、合っている。
登りで見たのと、逆の順に過ぎていく。
合っている、はずだった。
ふいに、背後で笑い声がした。
ほっ、ほっ、ほっ、と。
楽しげな、機嫌のいい笑い方だった。
振り返らなかった。
振り返れば、また顔を見て、笑い返してしまう気がした。
歩く速度を上げた。
笑い声は、同じ距離を保って、ついてきた。
私が速く歩けば、向こうも速くなった。
私が止まれば、笑い声も、ぴたりと止まった。
試しに、わざと歩調を乱してみた。
速く、遅く、また速く。
笑い声は、寸分の狂いもなく、私の歩幅についてきた。
まるで、私の足の裏が地面を蹴る音を、聞いているかのように。
道が、また登りに変わった。
下っているはずの足が、いつのまにか登っている。
踏み出すたびに、爪先より踵のほうが低くなる。
そして霧の向こうに、見覚えのある黒い口が見えた。
ウィルソン株だった。
三度目だった。
空洞の黒い口が、私を待っていたように、こちらを向いていた。
四、いくら下りても
私はその場に座り込んだ。
水を飲んだ。
ペットボトルの残りは、半分を切っていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。
道は間違えていない。
ただ、下ると、登りになる。
それだけのことだ。
それだけ、で済むはずがなかった。
笑い声は、もう距離を保たなくなっていた。
霧の中の、すぐ近くから聞こえた。
ほっ、ほっ、ほっ。
私の耳のすぐ後ろで、機嫌よく笑っていた。
私が笑い返すのを、待っている。
待たれている、とはっきりわかった。
サカキの枝を振れば難を逃れられる、と、どこかで聞いた気がした。
にらみつけるか、草鞋の鼻緒を切って、唾を吐きかけて投げつければいい、とも。
山姫。
笑い返せば、血を吸われて、殺される。
その言葉が、頭の底から浮かび上がってきた。
笑う女を見ても、笑い返すな。
昨夜、宿の主人が言いかけて、飲み込んだ言葉だ。
あれは、これのことだったのだ。
島の者なら、誰でも知っている話なのだろう。
それを、私は笑っておかしく思っていた。
ただ、ひとつだけ、はっきりと浮かんだことがあった。
一度でも笑いを返せば、山は、その者の顔を覚える。
だが、最後まで笑い返さなければ、戻ってこられる。
そんな言い伝えだった気が、する。
私は、斜面で、それを返してしまっていた。
山は、私の顔を覚えた。
それでも、まだ。
これ以上、笑い返さなければ、まだ。
そう、自分に言い聞かせるしかなかった。
サカキなど、どれがその木かもわからない。
草鞋など履いていない。
私の足にあるのは、滑り止めのついた登山靴だった。
鼻緒もなければ、唾を吐きかけて投げるものも、何ひとつなかった。
にらみつけようにも、霧で、女の顔がどこにあるのかわからない。
笑い声だけが、近くにあった。
私は立ち上がり、また下った。
今度は、道を外れた。
道が私を戻すなら、道を捨てればいい。
そう考えた。
斜面を、沢の音のするほうへ、下りていった。
木をつかみ、苔で滑り、膝を岩に打ちつけた。
ズボンが破れ、血がにじんだ。
それでも下った。
膝の痛みも、もう感じなくなっていた。
沢の音は、近づいているはずだった。
下れば、必ず水場に出る。
水場に出れば、それは下流につながっている。
下流をたどれば、人里に出る。
山では、そういうことになっている。
迷ったら沢を下れと、誰かが言っていた。
本当は、沢を下るのは危ないのかもしれない。
そんな知識も、頭の隅にはあった。
だが、同じ株の前に戻されつづけるくらいなら――。
私は、危ないほうを選んだ。
下って、下って、木立がふいにひらけて、平らな場所に出た。
ウィルソン株の、黒い空洞が、目の前にあった。
沢の音は、もう聞こえなくなっていた。
五、笑む
霧の中に、女が立っていた。
縦縞の着物。
踵までの髪。
さっき斜面で見た、あの女だった。
近くで見ると、肌が木の皮のように乾いて、細かくひび割れていた。
髪の生え際から、青白い苔のようなものが、薄く広がっていた。
女が、口元を横に広げた。
ゆっくりと、しかし今度ははっきりと、笑った。
私は、唇を噛んだ。
笑うものか。
笑い返さなければ、まだ助かる。
そう信じて、奥歯を食いしばった。
頬に力を込めて、口を固く結んだ。
女は笑い続けた。
ほっ、ほっ、ほっ。
楽しそうに、いつまでも、私の顔を覗き込んで。
頬の筋肉が、勝手にひくついた。
笑ってはいけない、と思うほど、口の端が引きつれて持ち上がった。
歯を食いしばっているのに、唇だけが、女の笑みをなぞるように動いていく。
私の意思とは関わりなく、頬が、女のそれと同じかたちを作ろうとしていた。
止めようとして、手で口元を押さえた。
手のひらの下で、口の端が、なおも持ち上がろうとしていた。
霧が、いっそう濃くなる。
女の髪が、足元の苔の上を這って、こちらへ伸びてくる。
冷たいものが、首筋に触れた。
触れた指の感触に、違和感がなかった。
痛くもなく、熱くもなく、ただ、ずっと前からそこにあったような。
首の血が、ゆっくりと、温度を失っていくのがわかった。
私はいま、ウィルソン株の前にいる。
スマホの時計は、昼の十二時を示したまま、動かない。
水はとうに、なくなっている。
霧の向こうから、また足音が近づいてくる。
人だ。
縄文杉のほうから下山してくる、別の登山者だ。
道のない斜面に立った私を、その人が見つける。
向こうは、軽く会釈をするだろう。
登山者同士の、軽い挨拶のつもりで。
私は、その人のほうを見る。
そして、私の口元が、ゆっくりと、横に広がっていく。
笑い返してくれるな、と、声にならない声で願いながら。
首筋の冷たさは、もう、私自身の体温と区別がつかない。
笑む山(完)




