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灯し残し

AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。

ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。

https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan

一、空き部屋


 その病室には、誰も入れない。


 私が夜勤に配属された初日、師長は病棟の見取り図を指して、四〇七号室の枠だけを指の腹で隠した。患者を割り振るときは、ここを最初からないものとして数えるのだと、それだけを言った。理由は聞かなかった。聞いてはいけない空気が、その指先の動きにあった。


 この病院は、古い。市の外れの丘の上にあって、もともとは戦後すぐに建った療養所だったと聞いている。何度も建て増しを重ねて、今の鉄筋の建物になった。古い棟の壁を剥がすと、もっと前の、木造の柱が出てくることがあるらしい。配属の説明をしてくれた事務の人が、半ば笑い話のように、この丘にはその昔、村の病人を集めて隔離した小屋があったのだと教えてくれた。重い病にかかった者を、村はずれのその小屋に運んで、戻ってこないことを前提に、家の者が一晩じゅう灯りを絶やさず焚いて見送ったのだという。


 灯りを絶やすのは、迎えを早めることだと、土地の年寄りは言い伝えていたらしい。だから家の者は、灯りが消えそうになると、必死で油を継ぎ足した。逝かせまいとしたのではない。逝くなら、せめて灯りのあるうちに、という願いだったのだと、事務の人は付け加えた。


 四〇七号室は、ちょうどその小屋があったあたりに建っている。それも、事務の人は笑いながら言った。私も、そのときは笑った。


 扉はいつも開け放してある。締め切ると湿気がこもるから、というのが表向きの説明だった。中は四床あるはずの個室で、ベッドはひとつだけ残されている。マットレスには白いシーツがかかったままで、誰かが今しがた立ち去ったような、人肌の名残のようなものが、まだそこにある気がしている。シーツには皺ひとつない。けれど私が通るたびに、その白い面が、わずかに沈んでいるように見える。誰かが、そこに横たわっているような。


 私はその部屋の前を、一晩に何度も通る。ナースステーションから一番奥の病室へ行くには、どうしてもそこを横切らなければならない。通るたびに、廊下の蛍光灯が一拍だけ暗くなる。気のせいだと思っていた。最初の数日は、本当に、そう思っていた。


 夜の病棟は、思っていたよりずっと静かだ。点滴の落ちる音、誰かの寝返り、空調の低いうなり。そういう音の隙間に、四〇七号室はぽっかりと口を開けている。中の暗がりは、廊下の明かりが届いているはずなのに、いつもどこか、墨を流したように黒暗い。


 満床の夜が来るまで、私はその部屋を、ただの古い慣習だと思っていた。



二、満床


 その夜、救急からの転棟が三件重なった。


 どのベッドも埋まった。残るは四〇七号室だけだった。当直の医師が、もうそこしかないだろうと言ったとき、夜勤のリーダーだった先輩の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。けれど患者を廊下に寝かせるわけにもいかない。Aさんという高齢の男性が、その部屋に運び込まれることになった。


 ストレッチャーを押して部屋に入った瞬間、空気が変わった。廊下より、いくらか冷たい。湿気がこもるどころか、乾いて冷えた、井戸の底のような冷たさだった。蛍光灯のスイッチを入れても、天井の灯りは点かなかった。配線の不良ですね、と私は当たり障りのないことを言って、持ってきたスタンドライトを枕元に置いた。


 Aさんは穏やかな人だった。検査の数値も落ち着いていて、夜中に手のかかる容態ではなかった。私はモニターを装着し、点滴の滴下を確認した。ひとつひとつの作業を、いつもより丁寧にこなした。そうしていないと、背中の方が気になって仕方がなかった。誰かに見られている気配が、ベッドの足元のあたりから、ずっと続いていた。


 おやすみなさい、と声をかけた。Aさんは小さくうなずいて、目を閉じた。すぐに、規則正しい寝息が聞こえてきた。私は枕元のスタンドだけを残して、部屋を出た。出るとき、ふと振り返った。スタンドの灯りが、Aさんの顔ではなく、その向こうの、誰も寝ていないはずの隣の床の方を、ぼんやりと照らしている気がした。


 ナースステーションに戻って、私はカルテの整理を始めた。


 それからどれくらい経ったろう。四〇七号室のモニターが、突然ぶれ始めた。波形が乱れ、やがてピーという連続音に変わった。心停止の警報だ。私は立ち上がって、廊下を走った。


 部屋に入ると、Aさんはすやすやと眠っていた。


 胸は規則正しく上下している。手首に触れると、脈はしっかりとしていた。呼吸も正常だった。なのにモニターは、まっすぐな線を映したまま、鳴り続けている。私は機械の方を見た。電源が落ちていた。コンセントは、奥までしっかり差さっていた。枕元のスタンドも、いつのまにか消えていた。


 医療機器は、患者が勝手に切れる仕組みにはなっていない。


 廊下を、誰かが走ってくる足音がした。先輩だった。先輩は部屋の入り口で立ち止まり、Aさんの寝顔と、消えたモニターを順に見て、それから小さく息を吐いた。


 まだなの、と先輩は言った。


 何が「まだ」なのか、私には分からなかった。問い返そうとしたとき、先輩は私の腕を取って、部屋の外へ連れ出した。廊下に出た瞬間、手の中の懐中電灯が、ぱっと灯った。さっきまで、つかなかった。私はその懐中電灯を、部屋に入ってからずっと握っていた。握っていたのに、一度も灯らなかった。



三、まだ


 ナースステーションに戻ってから、先輩は古い話をしてくれた。


 ずっと昔、まだこの病棟が今の形になる前の話だという。四〇七号室には、なかなか亡くならない患者がいた。容態は重く、本人も家族も覚悟を決めていた。けれどその人は、いつまでも逝かなかった。


 ナースコールを、押し続けたのだという。五分に一度。来てくれ、来てくれと、そればかりを。来た看護師に何を頼むでもない。ただ、人が来ると安心したように目を閉じ、いなくなるとまた押す。やがて誰も応じなくなった。ある夜、根負けした誰かが、ナースコールの配線そのものを抜いた。一時間ほどして、見回りに行った者が見つけた。その患者は、ナースコールのコードで、首をくくっていた。コードは、抜かれて使えなくなったはずのものだった。それを、どうやってか手繰り寄せて。


 それからだと、先輩は言った。


 その部屋では、電気が死ぬ。ナースコールも、モニターも、懐中電灯も。差さっていても、灯っていても、その部屋の中に入った途端、ふつりと消える。だから患者を入れない。入れた患者は、翌朝までに、かならず逝ってしまうから。


 私は、Aさんのことを思い出していた。すやすやと眠る、あの穏やかな寝顔を。さっき振り返ったとき、スタンドが照らしていた、誰も寝ていないはずの隣の床のことを。


 逝ってしまうって、と私は聞いた。あの人は、生きています。脈もありました。呼吸も。


 先輩は、私の方を見なかった。手元の湯呑みを、両手で包むように持っていた。


 あの部屋は、迎えに来ているのだと先輩は言った。モニターが鳴るのは、もう連れて行っていいかと、確かめているのだ。まだダメだと押し返せば、その夜は越える。けれど次の夜、また鳴る。何度でも、確かめに来る。あの患者が逝けなかったぶんを、今も埋めようとしているみたいに。


 電気が死ぬのは、と先輩は続けた。あの患者が、最後に灯りを絶たれたからかもしれない。だから今度は、向こうが灯りを絶つ。お返しのつもりなのか、それとも、灯りのない場所でしか出てこられないのか。私には分からない。分からないけれど、あの部屋では、灯してはいけないものが、灯らないのよ。


 私は、自分が握っていた懐中電灯を見た。今は、灯っている。



四、灯し残し


 Aさんを別の病棟へ移そうと、私たちは申し送りで掛け合った。けれど空きはどこにもなかった。どの病棟も満床で、転院先も見つからなかった。Aさんは四〇七号室に残された。


 その夜から、モニターは毎晩鳴った。


 私が駆けつけるたび、Aさんは眠っていた。脈も呼吸もある。けれど電源は落ちている。私はそのたびに、まだダメですと、誰にともなく言った。最初は心の中で。やがて、声に出して言うようになっていた。そうしないと、押し返せない気がしていた。Aさんの枕元に立って、暗い隣の床に向かって、まだダメです、と。すると、しばらくしてモニターの線が、何事もなかったように、また波打ち始める。


 回数を重ねるごとに、押し返すのに、時間がかかるようになった。一夜目はひと言で済んだ。二夜目は三度繰り返した。三夜目には、何度言っても、線はまっすぐなままだった。


 その三日目の夜、私は休憩室で仮眠を取ろうとしていた。


 午前三時。カーテンで仕切られた仮眠用のベッドに横になって、目を閉じた。すると、カーテンの向こうから、声が聞こえてきた。


 ねえねえ、どうする、と。


 幼い声だった。女の子の。この病棟に、子どもの患者はいない。足音が、カーテンのまわりをぐるぐると回っている。小さな、裸足のような足音だった。先日Aさんを受け持ってから、この声を聞くのは初めてではなかった。けれど、こんなにはっきりと声が聞こえたのは、初めてだった。やがて足音が止まり、カーテンの裾が、外側から引かれる気配がした。誰かが、開けようとしている。


 開けてもいいよ、と私は言ってしまった。


 なぜそう言ったのか、自分でも分からない。言葉が、勝手に口から出ていた。Aさんに毎晩、まだダメですと言い続けるうちに、押し返す言葉と、招き入れる言葉の、境目が分からなくなっていたのかもしれない。次の瞬間、耳のすぐ横で、男の声がした。低い、落ち着いた、丁寧な声だった。


 死んでもらっていいですか、と。


 私は飛び起きた。カーテンは閉じたままだった。誰もいなかった。けれど枕の上に、私の頭のかたちとは別に、もうひとつ残っていた。私が今まで寝ていた、そのすぐ隣に。へこんだその跡は、まだほんのり温かかった。誰かが、ついさっきまで、私のとなりで眠っていたように。



五、夜ごとに


 Aさんは、その朝に亡くなった。


 容態の急変ではなかった。眠ったまま、静かに呼吸が止まっていた。死亡確認をした医師は、老衰に近い自然な経過だと言った。苦しんだ様子はどこにもなかった。むしろ穏やかな、迎えられて逝ったような顔をしていた。誰も、あの部屋のことは口にしなかった。四〇七号室は、また空き部屋に戻った。扉は開け放たれ、ベッドにはシーツがかかり直された。


 私は今も、夜勤のたびにその前を通る。


 通るたびに、廊下の蛍光灯が、一拍だけ暗くなる。私はもう、気のせいだとは思っていない。あれは、確かめているのだ。今夜も誰か連れて行っていいかと、暗くなるその一拍で、聞いている。あの丘で、家の者が灯りを絶やさず病人を見送ったように。灯りが絶えれば、迎えが来る。それを、この部屋は今でも知っている。


 だから私は、ナースステーションの隅に、小さな電気スタンドをひとつ、置くようになった。夜のあいだ、それだけは消さずにおく。点けっぱなしにしてある。迎えに来たものが、空き部屋ではなく、その灯りの方を見てくれるように。連れて行くなら、患者ではなく、その灯りを連れて行ってくれるように。


 師長は、それを見て何も言わない。代わりにある夜、私の隣を通りすぎながら、小さくつぶやいた。あなたも灯すのね、と。


 あなたも、という言葉を、私はそのとき初めて聞いた。聞き返す前に、師長はもう、廊下の奥へ歩いていってしまった。その背中を見送りながら、私はステーションの隅々を見回した。古い書類棚の上に、私のものではない、煤けた燭台がひとつ、置いてあった。前から、そこにあったのだろうか。


 電気スタンドは、今夜も点いている。私が消し忘れたわけではない。消さずにおいてあるのだ。廊下の奥で、蛍光灯が一拍、暗くなる。私はステーションの灯りを見つめたまま、まだダメですと、声に出さずに言う。


 けれど、声に出さずに言うのは、招き入れるときの言い方だったかもしれない。私はもう、どちらの言い方だったか、思い出せなくなっている。


 明日の夜も、たぶん私は、それを消さない。



灯し残し(完)


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