表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/69

落人帳

AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。

ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。

https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan

一、── 名簿にない名


 祖母の四十九日が済んでから、僕は奥祖谷おくいやの家を片づけに通うようになった。

 徳島市の会社からだと、車で三時間はかかる。

 吉野川に沿って西へ走り、途中から南の支流へ折れると、道はみるみる細くなる。

 ガードレールの向こうは、もう谷底まで何もない。

 対向車が来たら、どちらかがバックで譲るしかないような道だ。


 谷の底を縫う細い道を登っていくと、スマホの電波はとうに切れている。

 画面の上のほうに、圏外、という文字だけが残っていた。

 僕は信号も人影もない道を、ただエンジンの音だけを連れて登った。

 両側の杉が高く、昼でも車のなかは薄暗かった。

 たまにすれ違うのは、苔むした地蔵か、朽ちた石垣くらいのものだった。


 家は、急な斜面に張りつくように建っていた。

 平家の落人がこの谷に隠れ住んだという話は、子どもの頃から祖母に聞かされていた。

 源氏の追っ手から逃れて、屋島の戦に敗れた一門が、阿波の山奥まで分け入ったのだという。

 谷に入った者は、二度と外には出なかった。

 出れば、追っ手に見つかって、一族が根絶やしにされるからだ。

 祖母はその末裔だと言っていたけれど、僕はずっと、年寄りのつくり話だと思っていた。


 家のなかは、線香と埃の匂いがした。

 祖母が一人で暮らしていた頃のまま、時間が止まっていた。

 冷蔵庫には、賞味期限の切れた漬物がそのまま入っていた。

 僕は窓を開けて空気を入れ替え、古い新聞や衣類を一つずつ袋に詰めていった。

 畳は湿気で波打ち、踏むと、みしりと低く鳴った。


 祖母とは、生前、それほど親しくなかった。

 父が早くに亡くなってから、母はこの家を遠ざけるようになった。

 だから僕も、年に一度、盆に顔を出すくらいの付き合いだった。

 そして、葬式に来る親類も他にいなかった。

 末裔だの一門だのと言っても、谷に残った血筋は、もう祖母一人だったのだ。

 そして今は、僕一人になってしまった。


 仏間の押入れから、古い帳面が出てきたのは、二日目の昼だった。

 和紙を綴じて、表に墨で「過去帳」と書いてある。

 紙は茶色く乾いて、めくると端が粉になって落ちた。

 中には、亡くなった人の戒名と俗名が、何代にもわたって筆で書き連ねてあった。


 僕は座敷に座り込んで、その帳面を一枚ずつめくっていった。

 知らない名前ばかりだった。

 古い字は読めないものも多く、墨の薄れた頁もあった。

 それでも、何百年ぶんの死者の名が、この薄い紙のなかに眠っていた。

 知らない名前が並ぶ中、最後のほうの一枚に、見覚えのある字があった。

 祖母の名だった。


 戒名のとなりに、祖母が自分で書き足したらしい一行があった。

 細い、震えた字で、こうあった。

「下の家、四人。まだ帳に入れておらず」と。


 下の家、というのが、どこを指すのか僕にはわからなかった。

 この家の下には、もう何もない。

 斜面を二百メートルほど降りたところに、崩れかけた石垣だけが残っている。

 昔は別の家があったのだと、祖母から聞いた気もする。

 だけど、その家に誰が住んでいたのかは、聞いた覚えがなかった。


 思い出そうとすると、子どもの頃の祖母の声がよみがえった。

 下のほうには行ってはいけないよ、と祖母は言っていた。

 あそこには、まだ帳に入っていない人がいるからね、と。

 当時の僕は、その意味がわからなかった。

 今も、わかったとは言えなかった。


 その夜、僕は徳島へは帰らず、家に泊まることにした。

 片づけが終わらなかったし、暗い山道を運転して降りる気にもなれなかった。

 電波の入らない谷で、一人きりの夜だった。

 布団に入って目を閉じると、谷を渡る風の音が、人の声のように聞こえた。

 気のせいだ、と自分に言い聞かせて、僕は眠った。



二、── 数が合わない


 翌朝、台所の土間に、見慣れない履物が四足、揃えてあった。

 草鞋わらじだった。

 藁を編んだ、古いものだ。

 僕がここに来たとき、土間にあったのは自分のスニーカーだけだった。


 僕は、誰かが夜のうちに入ってきたのかと思った。

 昨夜、玄関の戸はちゃんと内側からかんぬきをかけてあった。

 窓も、すべて掛け金がかかっていた。

 人が出入りできる隙間は、どこにもなかった。


 草鞋は、大人のものが二足と、小さなものが二足だった。

 小さいほうは、子どもの足にしか合わない大きさだった。

 四つとも、つま先が外を向いて、きちんと揃えられていた。

 まるで、今すぐ履いて出かける人がいるように。


 僕は背筋が冷たくなって、それを外へ放り出そうとした。

 けれど、藁に触れた指の感触に、違和感はなかった。

 本物だ、と思った。

 ただの古い草鞋だ。

 そう思おうとして、僕はそれを土間の隅に寄せ、その日も片づけを続けた。

 不思議と、怖いというより、誰かが家に戻ってきたような、妙な懐かしさがあった。


 夕方、僕は下の石垣まで降りてみることにした。

 過去帳の「下の家、四人」が、ずっと頭から離れなかった。

 下には行くなという祖母の声も、頭の隅にあった。

 それでも、確かめずにはいられなかった。

 斜面は急で、落葉が積もって滑りやすかった。

 木の枝や幹をつかみながら、僕はゆっくりと降りていった。

 谷のほうから、湿った土と苔の匂いが立ちのぼってきた。


 石垣の上には、何もなかった。

 家の礎石らしい平たい石が、苔を生したまま並んでいるだけだった。

 柱の跡も、床の跡も、とうに土に還っていた。

 その真ん中に、小さなほこらがあった。

 木の祠で、扉は閉じていた。

 扉には、色の褪せた注連縄しめなわが、半ば朽ちて垂れ下がっていた。


 僕は手を合わせて、扉を開けてみた。

 中には、四つの位牌が立てかけてあった。

 名は読めなかった。

 墨が流れて、ただ黒い染みになっていた。

 位牌の前には、欠けた茶碗が四つ、伏せて置かれていた。

 どの茶碗の底にも、乾いた泥がこびりついていた。

 誰かが、ついこの間まで、ここに水を供えていたように見えた。

 祖母だろうか、と思った。

 あの足の弱った祖母が、この急な斜面を、毎日降りていたのだろうか。


 帰り際、僕はふと振り返った。

 閉めたはずの祠の扉が、いつのまにか開いていた。

 位牌を見た後に、確かに閉めたはずだった。

 風もないのに、ひとりでに開いたのだ。

 僕は見なかったことにして、斜面を登った。


 家に戻ると、日が暮れかけていた。

 谷の底から、青い影がせり上がってくるようだった。

 山の夕暮れは早い。

 ついさっきまで明るかったのに、もう足元が見えなくなっていた。

 土間の草鞋が、減っていた。

 四足あったはずが、三足になっていた。

 僕は数を、何度も数えた。

 やはり三足だった。

 減った一足が、どこへ行ったのか、僕にはわからなかった。

 ただ、土間の三和土たたきに、湿った足跡が一つ、外へ向かって続いていた。



三、── 帳に入る


 その夜のことを、僕はうまく書けない。

 布団に横になっていると、家のなかで、人の歩く気配がした。

 畳を擦るような、裸足の足音だった。

 僕の寝ている座敷の、襖の向こうを、ゆっくりと行き来していた。


 僕は息を止めて、聞いていた。

 足音は四つあった。

 大きいものが二つ、小さいものが二つ。

 土間にあった草鞋の数と、同じだった。

 近づいたり、遠ざかったりしながら、足音は家のなかを巡っていた。


 足音は、仏間のほうで止まった。

 そして、紙をめくる音がした。

 あの過去帳を、誰かがめくっている音だった。

 一枚、また一枚と、めくっている。


 やがて、筆をすずりに浸す音がした。

 墨を磨る、低い音が続いた。

 誰かが、何かを書いている。

 僕には、それが何かわかってしまった。


 下の家の、四人だ。

 まだ帳に入っていない、四人だ。

 彼らは今、自分たちの名を、帳に書き入れている。

 祖母が書けなかった、その続きを。


 僕は動けなかった。

 体が、自分のものでないように重かった。

 襖の向こうの気配は、書き終えると、また廊下を歩きはじめた。

 今度は、僕の寝ている座敷のほうへ、近づいてきていた。



四、── 山は返さない


 僕は朝を待って、逃げるように家を出た。

 ひと晩じゅう、僕は布団のなかで目を開けていた。

 襖は、結局、開かなかった。

 けれど、夜が明けるまで、足音は家のどこかで続いていた。


 車に乗り込んで、来た道を引き返した。

 過去帳は、座敷に置いてきた。

 あんなものを、持って帰る気にはなれなかった。

 バックミラーに映る家が、だんだん小さくなっていくのを、僕は何度も確かめた。


 谷を降りていく途中で、僕はカーナビを見た。

 画面の地図には、僕の通っている道が表示されていなかった。

 谷ごと、白い空白になっていた。

 ナビは、目的地までの経路を表示できません、と繰り返した。


 僕は構わず、道なりに車を走らせた。

 一時間ほど走ったはずだった。

 谷の出口は、もうすぐのはずだった。

 けれど、カーブを曲がった先に現れたのは、あの家だった。

 斜面に張りついた、祖母の家だった。


 僕は、道を間違えたのだと思った。

 分かれ道などなかったはずだが、見落としたのだろうと思った。

 もう一度、車を出した。

 谷を降りた。

 そして、また同じ家の前に出た。


 何度くだっても、家に戻された。

 道は一本きりで、引き返しているつもりはなかった。

 それでも、降りた先には、いつもあの家があった。

 カーナビの画面には、あいかわらず白い空白が広がっていた。

 スマホは、圏外のままだった。

 ガソリンの針だけが、確実に減っていった。

 僕は、この谷から出られないのだと、ようやく理解した。


 源氏の追っ手から逃げてきた一門は、この谷に隠れた。

 隠れて、外には出なかった。

 出られなかったのか、出なかったのか。

 帳に名を書かれた者は、谷に留まる。

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 僕には、もうどちらでもよかった。


 祖母も、この谷から、一度も出なかった。

 母は、祖母を頑固な年寄りだと言っていた。

 町の病院にも、最後まで行こうとしなかった。

 今になって、僕にはわかる気がした。

 祖母は、出なかったのではない。

 出られなかったのだ。

 帳に名を入れずに、四人を谷に縛りつけたまま、自分だけ外へ出ることが、できなかったのだ。


 日が暮れて、僕は家に戻るしかなかった。

 ガソリンはもう、底をついていた。

 土間に、草鞋が四足、また揃えてあった。

 そのとなりに、僕のスニーカーを並べて脱いだ。

 つま先を外へ向けて、きちんと揃えて。

 誰かが並べて置いた草鞋に、僕は自分のスニーカーを加えた。

 外へ向けられたつま先が、出口を教えているようで、僕はしばらくそれを見つめた。



五、── 下の家、五人


 僕はもう、徳島へ帰ることを考えなくなっている。

 朝になると、谷を降りようとする。

 そして夕方には、必ずこの家に戻っている。

 それを、毎日くりかえしている。


 不思議と、空腹は感じない。

 冷蔵庫の漬物は、捨てても、いつのまにか戻っている。

 時間の感覚は、だんだん薄れてきている。

 今日が何日なのか、もう数えていない。

 谷の外に、自分の暮らしがあったことも、遠い昔のことのように思える。


 過去帳は、座敷に置いたままだ。

 ときどき、僕はそれをめくってみる。

 最後の一枚に、四人の名が、新しく書き加えられていた。

 墨はまだ、乾いていないように黒かった。

 読めなかったはずのその字が、今では少しずつ、読めるようになっている。


 その下に、もう一行ぶんの余白がある。

 僕の名を書くための余白だ。

 夜になると、誰かが硯を磨る音が聞こえる。

 コリコリと低い音が、一定のリズムで繰り返される。

 その音を、僕はもう、怖いとは思わなくなっている。


 下の家は、もう五人になるのだろう。

 草鞋も、いつか五足に増えるのだろう。

 僕は、それを待っている自分に気づいている。

 谷を渡る風が、僕の名を呼んでいる気がする。


 ときどき、土間の足跡が増えている。

 僕の知らない、裸足の足跡だ。

 それが家のなかを行き来して、また外へ出ていく。

 僕はもう、その音を聞きながら、当たり前のように眠れるようになった。

 夜が来るたび、谷は少しずつ、僕を内側へ受け入れていく。


 スマホの画面は、今も圏外のままだ。

 時刻だけが、律儀に進んでいく。

 誰かに、ここにいると伝えたい。

 けれど、僕の名は、もう外の帳には、どこにも残っていない。


落人帳(完)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ