石を彫る人
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、帰省の谷
祖父の四十九日のために、私は十年ぶりに故郷へ帰った。
大分の山あいにある集落で、駅から軽自動車で四十分ほど登った先にある。途中に一軒だけコンビニがあったが、夜の九時で灯りは消えていた。スマホの電波は谷へ入るあたりで一本になり、橋を渡ったところで消えて、それきり戻らなかった。
家は祖母がひとりで守っていた。
玄関の引き戸を開けると、線香の匂いが押し寄せてきた。仏間に祖父の遺影が掛けてあって、白黒の祖父がこちらを見ていた。私は私服のまま手を合わせ、それから縁側に座って山を眺めた。
向かいの斜面に、灰色の岩肌が剥き出しになっている。木が一本も生えていない、長方形に削れたような崖だった。子どものころからあったはずなのに、私はその崖を見た記憶がなかった。記憶のどこを探しても、そこだけ抜け落ちているような感じがした。
「あれ、なんだっけ」
台所から茶を運んできた祖母に訊くと、祖母は私の視線を追って、それから少しだけ手の動きを止めた。
「おじいさんのね」
それだけ言って、祖母は茶を置いた。湯呑みの底が盆に触れる音が、やけに高く響いた。
私は崖をもう一度見た。岩肌の中ほどに、人の形をした浅い彫りがあるのが分かった。輪郭だけの、仏のような姿。けれど顔があるべきところは、ただ平らに削られているだけだった。距離があるはずなのに、その平らな部分だけが、妙にこちらを向いている気がした。
「拝んでたのよ、毎朝」
祖母の声は穏やかだった。穏やかすぎて、私はそれ以上訊けなかった。
夕方になって、私は懐中電灯を持って斜面を登った。
登り口に踏み跡があった。誰かが毎日通った跡だ。祖父が死んでもう四十九日になるのに、草が踏まれて道になったまま、まだ消えていなかった。
近くで見ると、彫りは思ったよりも大きかった。私の背丈ほどもある。鑿の跡がまだ生々しくて、苔も生していない。素人が彫ったのだと、見ればわかった。線が震えていて、肩のあたりで一度大きく逸れている。仏というより、仏を真似ようとして失敗した、何か別のものに見えた。
顔のない仏の前に、欠けた湯呑みが一つ置いてあった。中に雨水が溜まって、夕陽を映していた。水面に、自分の顔が映るかと思って覗き込んだ。けれど水は濁っていて、何も映らなかった。
私は手を合わせなかった。なぜだか、合わせてはいけない気がした。指が、勝手に服のポケットの中で握りこまれていた。
帰り際、足元で何かが鳴った。見ると、平たい石が何枚も重ねて積んであった。崩れた賽の河原のように、いくつも、いくつも。数えようとして、私はやめた。数えてはいけない気がした。
私はそれを跨いで、斜面を降りた。背中に、平らな顔の視線をずっと感じていた。
二、決まりごと
その晩、祖母が湯を沸かしながら話してくれた。
台所の蛍光灯が古くて、じじ、と虫の鳴くような音で点滅していた。その明かりの下で、祖母の影が壁で揺れていた。
祖父は退職してから、急に信心深くなったのだという。山を歩いては寺や祠を巡り、ある日とうとう、向かいの崖に自分で仏を彫り始めた。
「彫っちゃいけないものなのよ、ほんとうはね」
祖母は急須に湯を注いだ。湯気が、点滅する明かりの中でゆっくりと立ちのぼった。
摩崖仏というのは、ちゃんとした行者が、決まりごとを踏んで彫るものだと祖母は言った。彫る前に山に断りを入れる。彫っている間は塩で身を清める。彫り終えたら、坊さんを呼んで開眼の供養をして、はじめて仏になる。
「おじいさんは、それをしなかった。坊さんも呼ばなかった。顔をね、彫らなかったの」
顔を彫らなければ、まだ仏ではない。仏でないものを拝むと、別のものが入ってくる。だから途中でやめたのだ、と祖父は言っていたらしい。
「でも、入ってきちゃったのよ」
祖母は湯呑みを私の前に置いた。さっき崖で見たのと、同じ形、同じ欠け方の湯呑みだった。私は口をつけなかった。
拝みはじめてから、祖父の体は急に衰えた。半年で別人のように痩せて、背中が曲がって、声まで嗄れていった。畑の作物が一夜で枯れ、飼っていた犬が檻の中で死んだ。水道の水が濁って、しばらく飲めなくなった。
最後の半年は、毎晩うわごとを言っていたという。「順番が違う」「顔から拝め」と。布団の中で、こつ、こつ、と空を打つように手を動かしていた。何もないところを、鑿で彫る真似をしていた。
「止めようとしても、聞かないの。山へ行く、行かなきゃって。足が動かなくなっても、這ってでも行こうとして」
祖母は急須の蓋を、そっと閉じた。
「決まりごとがあるのよ」と祖母は言った。「障りを返すには、決まりごとを、ちゃんと守らないと」
そこまで言って、祖母は黙った。
私は何の決まりごとなのか訊こうとした。けれど祖母は、もう寝るわ、と言って立ち上がった。襖の向こうに消える背中が、今夜はやけに小さく見えた。立ち上がるとき、膝も腰も鳴らなかった。十年前は、よっこいしょ、と必ず言っていたのに。
布団に入っても眠れなかった。
古い家の天井板の木目が、暗がりの中で人の顔のように見えた。目をつぶると、崖の平らな部分が瞼の裏に浮かんだ。
山の方から、こつ、こつ、と音がしていた。石を打つような、規則正しい音だった。風かと思った。けれど風の日に、あんなに正しい間隔で音は鳴らない。誰かが、鑿を打っている音だった。
私は耳をふさいだ。それでも音は、布団を通して、頭の中まで届いてきた。こつ、こつ。一打ちごとに、何かが少しずつ削られていく。それが石なのか、自分なのか、だんだん分からなくなっていった。
三、顔
朝、目が覚めると枕元に湯呑みが置いてあった。
雨水の溜まった、欠けた湯呑み。昨日、崖の前にあったものだった。誰が運んだのか。祖母に訊いても、知らないと首を振るばかりだった。寝ている間に、誰かが私の枕元まで来て、これを置いていった。そう思うと、手が震えた。
私は気味が悪くなって、それを持って斜面を登った。元の場所へ返すつもりだった。朝の山は霧が出ていて、踏み跡の先がぼやけて見えなかった。
崖の前まで来て、私は足を止めた。
仏の顔が、彫られていた。
昨日は平らだったはずの場所に、目と、鼻と、口が刻まれていた。鑿の跡は新しく、白い粉が彫りの溝に残っていた。指で触れると、まだ粉が湿っていた。たった今、彫り終えたばかりのように。けれどこの近くには、もう祖母しか住んでいない。あの小さな祖母に、こんな高さは届かない。
私はその顔を見た。
それは私の顔だった。
眉の形も、左の目尻のほくろも、笑うときに少しだけ歪む口元も、全部が私のものだった。鏡で毎朝見ている、私の顔だった。違うのは、その表情だけだった。石の顔は、笑っていた。私が一度もしたことのない、満ち足りたような笑みで。石の中から、私が私を見ていた。
喉の奥が、ひゅっと鳴った。声を出そうとして、出なかった。
湯呑みが手から落ちた。割れる音がして、雨水が地面に染みていった。染みていく水を、石の顔が見下ろしていた。
逃げようとして、足がもつれた。膝が地面についた。背後で、こつ、と石を打つ音がした。すぐ後ろで。耳のすぐ横で。振り返ると、誰もいなかった。ただ、賽の河原のように積まれた石が、昨日より一段高くなっていた。霧の中で、それだけがはっきりと見えた。
私は転がるように斜面を降りた。何度も滑って、手のひらを擦りむいた。痛みは感じなかった。
家に駆け込むと、祖母が仏間に座っていた。祖父の遺影の前で、こちらに背を向けて手を合わせていた。
「おばあちゃん、あれ、あれ俺の顔が」
祖母は振り返らなかった。
ただ、低い声で、こう言った。
「だから言ったでしょう。顔から拝め、って」
四、返せない
その日のうちに発とうとした。
荷物をまとめて、軽自動車のキーを回した。けれどエンジンはかからなかった。何度回しても、かちりとも鳴らない。バッテリーは去年替えたばかりだと、レンタカー屋で聞いていた。ボンネットを開けても、どこも悪くなかった。ただ、エンジンの上に、平たい石が一枚、載っていた。
私は石を払い落として、歩いて山を降りようとした。谷の道を、ひたすら下った。スマホは圏外のまま、地図も開けなかった。それでも一本道だった。下っていけば、いつかは麓に出るはずだった。
一時間ほど歩いて、見覚えのある木があった。幹が二つに裂けた杉。さっき家を出てすぐに通ったところだった。私は道を間違えていない。曲がり角などなかった。それなのに、私は同じ場所に戻っていた。
もう一度下った。今度は道の脇に石を置いて、目印にしながら歩いた。一時間後、裂けた杉の根元に、私が置いたはずの石が、きれいに積み上げられていた。賽の河原のように。
何度試しても、同じだった。下っているはずなのに、いつのまにか家の前に立っている。
日が暮れた。山の影が谷を呑んで、あたりが急に冷えた。
祖母が縁側に座って、私を待っていた。湯呑みを膝の上に置いて、穏やかな顔で。
「返さないと、出られないのよ」と祖母は言った。
障りを返すには、決まりごとがある。彫った者が、彫られたものに、顔を返す。祖父はそれをする前に死んでしまった。途中で力尽きた。だから障りは、返されないまま、次の血へ移った。
「あんたが拝めば、済むのよ」と祖母は言った。「毎朝、顔を拝んで、湯呑みの水を換えて。そうすれば、もう誰も連れていかれない」
「拝んだら、俺はどうなるの」
祖母は答えなかった。
代わりに、欠けた湯呑みを私に差し出した。崖で割れたはずのそれは、もとの形に戻っていた。継いだ跡もなかった。
私はそれを受け取らなかった。後ずさって、家の奥へ逃げた。仏間の襖を閉めて、息を殺して、暗がりにうずくまった。
襖の向こうから、こつ、こつ、と音が近づいてきた。
石を打つ音は、もう山の方からではなかった。家の中から聞こえていた。床を、こつ、こつ、と打ちながら、何かがこちらへ近づいてくる。私は膝を抱えて、ただ顔だけを伏せていた。顔さえ見られなければ、と思った。顔さえ、彫られなければ。
五、毎朝のこと
私は今、毎朝、斜面を登っている。
欠けた湯呑みに新しい水を入れて、崖の前に置く。雨水ではいけない。澄んだ井戸の水でなくてはいけない。それから手を合わせて、石の顔を拝む。
拝む顔は、もう私の顔ではない。
日に日に薄くなっていく。目尻のほくろが消え、口元の歪みが消え、少しずつ、輪郭だけののっぺりとした、もとの平らな石に戻りつつある。石から私の顔が消えていくぶんだけ、私の顔も、洗面所の鏡の中で薄くなっていく気がする。朝、髭を剃ろうとして、自分の顔の輪郭が思い出せないことがある。
祖母はもう拝まない。役目は私に移った。長いあいだ、祖母がひとりで拝みつづけて、堰き止めていたのだ。私が来るまで。
祖母は朝になると縁側に座って、私が斜面を登っていくのを見ている。穏やかな顔で。十年前と、まったく同じ顔で。皺の数も、白髪の具合も、十年前から一つも変わっていない。
ときどき思う。あの穏やかな顔も、いつか誰かが拝んで、石へ返した顔なのではないか、と。だから歳を取らないのではないか、と。
電波は、相変わらず通じない。
車も動かない。道も繋がらない。麓の世界が、まだあるのかどうかも、もう分からない。けれど不思議と、もう降りたいとは思わなくなった。毎朝、水を換えて、顔を拝む。そうすれば誰も連れていかれない。それだけのことだ。それだけのことなのだと、自分に言い聞かせている。
井戸で湯呑に水を汲むとき、たまに水面に自分の顔が映る。けれど近ごろは、誰の顔だったか、思い出せないまま覗き込んでいる。
今朝も、崖の前に立った。
石の中の私の顔は、もうほとんど消えていた。あと数日で、平らに戻るだろう。
平らになりかけた石の隅に、新しい彫りが一つ、増えていた。
小さな顔だった。
眉の形に、見覚えがあった。私の眉に、よく似ていた。
まだ生まれてもいない、私の子どもの顔だと思った。
石を彫る人(完)




