通り筋
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。
https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan
一、置き飯
祖父が死んで、家を継ぐことになった。
熊本の山あいにある古い木造で、拓海が幼いころに何度か泊まった記憶しかない。葬儀が終わってからしばらく、空き家のままにしておくのも忍びなくて、月に一度は風を通しに通うことにした。仕事の合間を縫って、福岡のアパートから車で二時間。最後の三十分は、舗装の剥げた山道を登る。スマホは途中から圏外になり、カーナビは集落の手前で地図を見失った。
最初に来た日、台所の片隅に欠けた飯茶碗がひとつ伏せて置いてあった。底に黒い染みがこびりついている。家のどの食器とも揃いではなかった。手に取ると、思いのほか冷たくて、長いあいだ誰の手も触れていないものの冷たさだった。
「祖父さんの癖かな」
そう呟いて、拓海はそれを洗わずに元の場所へ戻した。なぜ戻したのかは自分でもわからなかった。洗ってしまうのが、なんとなくためらわれた。指先に残った冷たさが、すぐには消えなかった。
縁側に座ると、裏の杉山がすぐそこまで迫っている。傾いた斜面が、ちょうど家の裏手に向かって細く下りてきていた。そこだけ木が育たず、土が剥き出しになっている。獣道にしては幅が広く、人の道にしては急すぎた。剥き出しの土は、雨も降っていないのに、しっとりと黒く湿って見えた。
夕方、近所の老婆が様子を見に来た。祖父と同年代らしい、腰の曲がった人だった。玄関先に立って、家のなかには上がろうとしない。
「あんた、拓海さんかい」
「はい。祖父がお世話になりました」
老婆は土間から首だけを伸ばして、家のなかをぐるりと見回した。伏せた飯茶碗のところで、その目が止まった。
「茶碗はね、そのまんまにしておくのがいいよ」
理由は言わなかった。拓海も訊かなかった。老婆は裏の斜面のほうをちらと見て、それから「夜は山に向かって窓を開けんことだ」とだけ言って、背中を丸めて帰っていった。集落のほうへ下りていく足音が、思いのほか長く、いつまでも聞こえていた。
その夜、拓海は飯を炊いた。一人前には多すぎたので、余った分を欠けた茶碗によそって、台所の隅に置いておいた。供えるつもりだったのか、ただの気まぐれだったのか、自分でもよくわからなかった。炊きたての湯気が、暗い台所の隅で、ゆっくりと立ちのぼっては消えた。
朝、茶碗は空になっていた。米粒ひとつ残っていなかった。底の黒い染みだけが、前より少しだけ濃くなっている気がした。茶碗の縁に手をあてると、まだほんのりと温かかった。
ついさっきまで、誰かがそこで飯を食べていたような、そんな温もりだった。
二、礼
それから拓海は、来るたびに飯を置くようになった。
茶碗は毎回、翌朝には空になっている。ネズミか、野良猫か。理屈ではそう思おうとした。けれど欠けた茶碗の縁には一度も歯のあとがつかず、米粒の散らばりもなかった。きれいに、底まで舐めたように空になっている。動物なら、こうはいかない。
不思議と、怖いとは思わなかった。むしろ、誰かがこの家に通ってきてくれているのだという、奇妙な安心があった。一人で継いだ空き家の、たった一人の客のような気がした。茶碗を伏せて置くと、それが客への合図のように思えた。
異変が礼として返ってくるようになったのは、三度目に通った週からだ。
割れていた縁側の板が、いつのまにか直っていた。新しく釘で打ち付けたのではなく、古い木をはめ込んで、ぴたりと合わせてある。継ぎ目を指でなぞっても、段差ひとつ感じられない。拓海がやったのではない。大工を呼んだ覚えもない。直された板は、ほかの板よりわずかに黒ずんで、何十年も前からそこにあったような顔をしていた。
次の週は、伸び放題だった裏庭の草が刈ってあった。鎌で刈ったのではなく、根元から引き抜いてある。土に小さなくぼみがいくつも残っていた。子供の足あとのような、丸く浅いくぼみだった。指を入れてみると、くぼみの底はひんやりと湿っていた。
拓海は飯の量を増やした。茶碗ひとつでは足りないかもしれないと思って、握り飯にして、皿に三つ並べて置いた。塩を多めに振った。山仕事の手伝いには、塩気の効いたほうがいいだろうと、なぜかそう思った。
その晩、裏の斜面のほうで、木の倒れる音がした。
地響きのような、太い幹が裂けて倒れる音だった。拓海は飛び起きて懐中電灯を持って外に出たが、倒れた木はどこにもなかった。斜面の杉は一本も欠けず、土はただ黒々と剥き出しのまま、家のほうへ細く下りてきているだけだった。
懐中電灯の光の先で、剥き出しの土の上に、点々と足あとが並んでいた。
家のほうへ向かって、登ってくる向きについていた。ひとつ、ふたつと数えていくうちに、足あとは縁側の下で、ふっと消えていた。土の上で消えているのに、その先に、誰かが立っている気配だけが、暗がりのなかに残っていた。
翌朝、握り飯の皿は空だった。塩の粒だけが、皿の隅に、白く残っていた。
三、通り筋
老婆をつかまえて訊いたのは、その翌日だ。集落の井戸端で水を汲んでいた老婆を見つけて、拓海のほうから声をかけた。
「あの斜面は、なんですか」
老婆はしばらく黙っていた。それから、両手で桶の縁を包んだまま、ぽつりと言った。
「通り筋だよ」
山から下りてくる道だという。山の子らが、季節の変わり目に山と川を行き来する。秋の彼岸に山へ入り、春の彼岸に川へ戻る。その行き来の道筋を、この土地では通り筋と呼ぶのだと。
「川にいるあいだは、川の子だ。山にいるあいだは、山の子だ。同じものが、季節で名を変える」
老婆は桶を地面に置いて、井戸のほうを指さした。
「あの井戸も、もとは通り筋の上にあった。だからいまでも、水が涸れない。涸れたら、家を建てたほうが悪いのさ」
「あの道の上に家を建てちゃならんかった。あんたの祖父さんは、それを承知で建てたんだ」
承知で、と拓海は繰り返した。
「祖父は、なぜ」
「先に礼をしたからさ」
老婆の言葉は、最初うまく呑み込めなかった。礼を先に渡すと、山の子は食い逃げをする。約束した礼でなければ怒る。だから本当なら、仕事をしてもらってから礼を渡すのが筋なのだと。
「でもあんたの祖父さんは、逆をやった。先に飯を置いて、家を建てさせてもらった。通り筋の上に、住まわせてもらったんだよ」
つまり、と拓海は思った。あの家は、最初から借りものだったのだ。あの斜面を行き来する者たちから、飯と引き換えに、通り道の上を借りているにすぎない。先に礼を渡したぶん、祖父はずっと、返しきれない借りを抱えていたことになる。
「祖父さんが死んで、飯が途切れた。途切れたところに、あんたが来て、また置きはじめた」
老婆はそこで初めて、まっすぐに拓海を見た。井戸の水を映した目が、底のほうで暗く沈んでいた。
「あんた、最初に置いた飯。あれは祖父さんの分の、滞った礼だよ。死んだ者の借りを、あんたが肩代わりしたんだ」
拓海は、底の黒い染みを思い出した。来るたびに、少しずつ濃くなっていく、あの染みを。あれは、滞った礼の、溜まっていく量なのだと、ふいに理解した。
「肩代わりした借りは、どうすれば返し終わるんですか」
老婆は答えなかった。桶を持ち上げて、背中を向けた。腰の曲がった背中が、井戸端の石の上で、ゆっくりと揺れた。
「あんたの祖父さんもね、最初はそうやって訊いたよ。返し終わる方法はないかってね」
「祖父には、なんと」
「返し終わるころには、もう帰り方を忘れてるって、笑ってやった」
それから、去り際に一度だけ、振り返らずに言った。
「もう、やめられんよ」
四、向かい火
その日から、拓海は飯を置くのをやめてみた。
老婆の言葉が頭から離れなかったが、それでも一度、確かめたかった。借りものだというなら、返せばいい。出ていけばいい。ただそれだけのことだと、自分に言い聞かせた。借りた覚えのない借りを、なぜ自分が返さなければならないのか。その理不尽さだけが、拓海を意地にさせた。
飯を置かなかった最初の朝、欠けた茶碗は伏せたまま、底の染みが乾いてひび割れていた。乾いた染みは、ひび割れの隙間から、めくれて剥がれかけていた。
二日目の夜、裏の斜面で、また木の倒れる音がした。一度ではなかった。何本も、何本も、太い幹が次々に裂けて倒れていく音が、夜どおし続いた。家の壁を、外から誰かが拳で叩くような音も混じった。拓海は布団をかぶって耐えた。窓は開けなかった。山に向かって窓を開けんことだ、という老婆の声だけが、暗がりのなかで繰り返し響いた。
三日目、台所に戻ると、欠けた茶碗が伏せたまま、ひとりでに少しずつ動いていた。すり、すり、と畳をこする乾いた音をたてて、台所の隅から、拓海の足もとへ向かって、にじり寄ってくる。誰も触れていないのに、茶碗は確かに、拓海のほうを目指して進んでいた。
拓海は茶碗をつかんで、外へ放り投げた。
茶碗は剥き出しの斜面に転がって、それきり動かなくなった。けれど割れもせず、欠けもせず、ただ伏せたまま、斜面の途中で、こちらを向いて止まっていた。
その晩、拓海は荷物をまとめた。もうこの家にはいられない。山を下りて、二度と来なければいい。車のキーを握って、玄関を開けた。
外は、土の匂いがした。雨あがりのような、濃い、湿った土の匂いだった。鼻の奥に、じかに土を詰め込まれたような匂いだった。
斜面の剥き出しの土が、家のすぐ前まで、せり上がってきていた。一晩のうちに、通り筋が、玄関の三和土のところまで下りてきていた。放り投げたはずの欠けた茶碗が、三和土の真ん中に、伏せて戻っていた。
土の上に、点々と足あとが並んでいた。拓海を待つように、玄関のほうを向いて、いくつも、いくつも。どれも、子供の足くらいの大きさだった。
火を焚こうと思った。向かい火を焚いて、追い返せばいい。台所でマッチを探した。けれど手が震えて、何度こすっても、火がつかなかった。マッチの先だけが、湿った土の匂いのなかで、しめって燃えなかった。何本擦っても、青い火花が一瞬散るだけで、そのたびに、足あとが玄関に一歩ずつ近づいてくる気がした。
五、置き飯
いまも、拓海はあの家にいる。
毎朝、飯を炊いて、欠けた茶碗によそって、台所の隅に置く。茶碗は外へ放り投げたはずなのに、いつのまにか元の場所に戻っていた。底の黒い染みは、もう茶碗の縁まで広がっている。広がりきって、もう濃くなる余地もないほど、黒い。
下りる道は、ない。
車は動かなくなった。ボンネットを開けると、エンジンのなかにまで、しっとりと黒い土が詰まっていた。山を越える道は、通うたびに、少しずつ短くなっていく気がする。集落へ続く一本道が、朝起きるたびに、家のほうへ向かって縮んでいる。やがて道は、玄関の前で途切れるだろう。
老婆は、もう来ない。集落のほうを見下ろしても、煮炊きの煙ひとつ、上がっていない。
縁側に座ると、裏の斜面が、すぐそこまで迫っている。剥き出しの土が、家を半分ほど呑み込んで、いまは縁側のすぐ下まで来ている。その土の上を、季節の変わり目になると、何かが行き来する。
ときどき、土のなかから、欠けた縁側の板を直したときのような、木をはめ込む音がする。家が、すこしずつ、土のなかへ作りかえられていく音だ。拓海はもう、それを止めようとは思わない。借りものの家は、いずれ貸し主の手で、貸し主の好きなように直されていく。それだけのことだ。
拓海には、姿は見えない。
ただ、季節の変わり目になると、欠けた茶碗の中身が、朝には空になっている。秋の彼岸には、山へ登る向きに足あとがつき、春の彼岸には、川へ下る向きに足あとがつく。そのあいだじゅう、拓海は飯を炊きつづける。塩を多めに振った握り飯を、三つ、皿に並べる。
借りものの家で、滞った礼を、ひとりで返しつづけている。返しても返しても、染みは消えない。祖父が抱えていた借りが、いったいどれだけのものだったのか、拓海はもう、考えないことにした。
ときどき、台所の隅で、誰かが飯を食う音がする。ぴちゃ、ぴちゃ、と茶碗の底を舐める音が、夜のなかで聞こえる。
その音がするあいだだけ、拓海は、ひとりではない気がしている。
通り筋(完)




