凪の口
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。
https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan
一、凪の坂
風況調査員の嶺岸透が沖縄本島北部の凪間集落に入ったのは、五月の半ばだった。
所属する会社が、海沿いの稜線に風力発電の候補地を絞り込んでいる。透の仕事は、観測ポールを十本ほど立て、二週間にわたって風の出入りを記録することだった。本土から那覇まで飛び、レンタカーで二時間半。集落に近づくにつれて山は深くなり、道はだんだん細くなった。海から吹き上げる東風が、車体を絶えず横から押していて、ハンドルがわずかに持っていかれた。風が強い。風況は、悪くない。透は職業上の感覚で、まずそう判断した。
集落に一軒だけある民宿に荷物を下ろして、すぐに地形図を広げた。
稜線をなぞる細い県道があり、海側へ滑り落ちるように曲がる坂がひとつある。地図上の名前は「迷ノ坂」と読めた。だが、傍にもうひとつ、誰かが鉛筆で小さく書き添えていた。
「凪の口」
透はその文字に鉛筆の先で軽く触れた。前の調査員が書き残したのか、地元の役場の誰かが補ったのか。いずれにせよ印刷ではなく、手書きだった。地名のすぐ脇に、もうひとつ、別の地名が紛れ込んでいる。それだけで、地図の縮尺が少しだけ歪んだような気がした。
民宿の夕食の席で、女将に訊いた。
「明日、迷ノ坂のあたりで観測ポールを立てるんですけど、何かこう、住民の方が気にする決まりごとはありますか」
女将は手を止め、口の端を下げた。
「坂はですね、通ってかまいません。ただ、凪の口は通らないほうがいいです」
「凪の口、というのは、地名ですか」
「ええ、地名です。あの坂の、いちばん風の止まるところ。気象台の人だったら、無風帯っていうんでしょうか」
女将は皿の縁を撫でながら、ゆっくり首を振った。
「あそこは、通り抜けたら、声が戻らんのですよ。お客さんも、計器だけ置いて、すぐ離れてくださいね」
翌朝、透は軽トラを借りて坂に向かった。窓を全開にしたまま走ると、強い東風が車内を吹き抜けて、髪が前から後ろへ流された。坂を降り切る手前で、風が、すうっと止んだ。
まるで誰かが音量を絞ったように。
車を路肩に停め、エンジンを切った。外に出ると、自分の足音が、自分の耳まで届く前にどこかへ吸い取られていく感覚があった。風はまったく無い。すぐ後ろの稜線では椰子の葉が大きく揺れているのに、自分の周囲だけがぴたりと凪いでいる。腕時計の秒針が一拍だけ止まり、また動き出した。
透は地面に視線を落とした。
古い石が、苔の下からひとつだけ覗いている。文字は摩耗していたが、辛うじて一字、「凪」とだけ読み取れた。
息を吐いた。
白くもならない息が、目の前で、行き場もなくほどけて消えた。
二、止む
二週間の予定で、観測ポールを稜線に七本、海沿いに三本立てた。「凪の口」とおぼしき地点は、観測機器の都合上、通り抜けないと反対側まで届かない。透は記録だけ取って、急ぎ足で抜けることにした。
ポールを立てるときは、地面に短い杭を打ち、ステンレスの支柱を起こす。打ち込む音は、稜線の他の場所では岩盤に弾かれて鋭く跳ね返ってきた。だが、凪の口の上でだけは、ハンマーの音が、根元のほうに吸い込まれていく。何度叩き直しても、音は地面の奥に沈んでいくだけで、戻ってこなかった。
初日のデータが、夜になって会社のクラウドに上がった。
異常があった。
凪の口の地点に置いた風速計だけが、一日のうち十数回、ごく短い無風記録を返している。短いものは三秒、長いもので二分十二秒。前後の地点では、同じ時刻にきちんと十メートル以上の風が吹いていた。気象データの上で、その一点だけが、空白の島のように浮かんでいた。
機器の故障を疑った。
翌日、透は予備の風速計と交換し、ボイスレコーダーを胸ポケットに差して坂を降りた。記録のために、自分の手順を独り言で残しておく癖がある。
「五月十六日、午前十時十二分、凪の口、風速計交換」
言い終わると同時に、首の後ろにあった風が、ぴたりと止んだ。空気の壁を一歩越えたような感覚があった。
ボイスレコーダーは回し続けた。
「機器の高度はゼロ点八メートル、地面の状態は乾燥、苔、石碑あり」
声は出しているのに、その声が、自分から十センチほど前で、薄い膜のように張り付くのが分かった。前に進むと、その声を置いていく感じがする。耳を澄ますと、後ろで小さく、自分の声が、もう一度「凪の口」と呟いた。
透は手を止めた。
振り返っても、誰もいない。県道の白線、苔の生えた石。それだけだ。汗が首筋を流れ落ちたが、その湿り気だけが、ちゃんと自分のものとして肌に残った。
ボイスレコーダーを早送りで再生した。
「五月十六日、午前十時十二分、凪の口、風速計交換――凪の口」
最後の三文字が、自分の声と、もうひとつ別の間で、被さっている。録音の終端にある雑音ではない。明確にもう一人の声――しかし、紛れもなく、自分の声だった。
イヤホンを外して、もう一度、その場所で肉声を発した。
風はない。
風がないのではなく、風が、ここで終わっていた。
三、声の置き場
その夜、透は民宿の部屋で何度もデータを聴き返した。
最初の独り言から、最後の「凪の口」までの間に、自分の声が、三秒に一度、半拍遅れて重なっている。重なっているのに、波形は完全には一致しない。ほんのわずかに、自分の発音より、ゆっくり、丁寧に、地面の方へ話しかけるような声だった。
遅れた声は、最後にひとことだけ、はっきりとこう発した。
「ここに、置いていけ」
透は再生を止めた。
窓の外で、椰子が大きくしなる音がした。風は、ここではちゃんとあった。
翌朝、女将は玄関先で透の靴を揃えながら、目を合わさずに言った。
「お客さん、あの坂を、何回通りましたか」
「昨日と一昨日、一往復ずつ、四回です」
「あぁ」
女将は、白くなった髪を撫でつけた。
「あの坂は一度通るたびに、ひとつ、声を置いてしまうんですよ。みんな知らずに、置いていく。それで終わる人もいます、それだけで済む人もいるんです。ただ、お客さんはもう四回も置いて、それから取りに戻ろうとしてる。それは良くない」
透は息を呑んだ。
「取りに戻る、って、どうやって」
女将は首を横に振った。
「あなたはもう、戻り方を知っています」
その通りだった。透は、もう一度、あの場所に立ちたかった。自分の声が、地面のどこに、どんなふうに置かれているのか、確かめずにはいられなかった。
女将は、玄関の引き戸を背中で押さえながら、もうひとことだけ加えた。
「お客さん、行くなら、何も発さんで行きなさい。声も、息も、向こうにくれてやらんでね」
昼前、軽トラで坂を降りた。
風はあった。途中までは。
凪の口の手前で、強い風がぴたりと止まり、エンジン音が遠のき、自分の鼓動だけが聞こえた。
ボイスレコーダーは胸ポケットに入れたままだ。回した覚えはない。それでも、内蔵スピーカーから、低く、自分の声が漏れていた。
「凪の口」
「凪の口」
「凪の口」
昨日までに置いた、四つの自分の声が、地面のどこからか、空気の隙間に並んで呼びかけてくる。さらにその奥、ずっと深いところから、もうひとつ別の声が混じった。
若い、男の声だった。透の声ではない。透よりも、もっと擦れた、もっと若い、ずっと昔を生きていたであろう声だった。
「凪――」
その声は、それきり、続かなかった。
四、置き続ける
民宿に戻った透は、自分の喉が枯れていることに気づいた。
「あの、すみません」と女将に声をかけようとしたが、出てきたのは掠れた半音にもならない呼気だった。胸ポケットのレコーダーは、ボタンに触れた覚えもないのに、ずっと録音を続けていた。再生すると、自分のかすれた声と女将の会話が録音されているはずだった。声が入っていなかった。声を交わしたはずなのに、声だけが、どこにも、いない。
女将は厨房から出てきて、湯呑みを差し出してきた。透の指がそれを受け取るとき、女将の指のほうが、湯呑みの底をなぞるようにして、しばらく離れなかった。
「無理に話さんでください。あの坂は、いっぺん声を置いたら、取りに行くたびに、もうひとつ置いていくんです。三回も四回も取りに行こうとする人は、最後には、自分の名前まで、置いてくることになります」
透は、ノートに鉛筆で書いた。
〈取り返す方法はないんですか〉
女将はそれを読み、ゆっくり首を振った。
「いいえ。あの坂で凪ぐのは、風ではありません。あれは、息を返さん場所です。昔の、岩の穴に隠れた人たちが、最後に吐いた息だけが、そこに溜まってる。ずっと、誰かが取りに来るのを待ってるんですよ。新しい息を、欲しがって」
透は鉛筆を握り直して、もう一文を足した。
〈その人たちは、どうなったんですか〉
女将は、ノートに視線を落とすこともせず、つぶやくように言った。
「みんな、声だけになって、坂の途中に置かれてる。風に乗りたいんでしょうね。けれど、あそこの風はね、もう、戻らないから」
透は、机に置いたレコーダーを見つめた。
画面が、勝手に再生に入っていた。
女将の声でも、透の声でもない、若い男の声が、再生バーの中で、ひとことだけ、繰り返している。
「凪――凪――凪――」
その下に、もうひとつ、もっと薄い声があった。
今朝、坂を降りる前に、自分が独り言で言った台詞だった。
「最後にもう一度だけ、確認に行こう」
もうひとつ下にも、声があった。
〈取り返す方法はないんですか〉
書いたはずの、書いただけのその一文が、誰かの声で、再生バーの底に沈んでいた。
透の喉は、本当に音を発さなくなっていた。指先で確かめると、喉の奥が冷たく、湿った布を巻きつけたように固くなりかけていた。手のひらを当てると、空気の通る場所が、ひと回り狭くなっていた。
窓の外で、夕方の風が椰子を大きく揺らしていた。風はあった。ここでは、風は、まだある。
五、凪に残る
翌朝、透は最後の機器回収のために、再び坂を降りていった。
会社には、データの一部に欠損があったので調査時間を延長する、とメールだけを送った。電話はかけられなかった。声が、もう、出なかったからだ。
軽トラのエンジンを坂の手前で止めた。あとは、徒歩で。
風は、坂の上では強かった。椰子の葉が、海から来た風で大きくしなり、岩肌に当たって低く唸っていた。
数十歩、坂を降りた。
風が、すうっと止んだ。
空気の壁を、また一歩越えていた。
ここで何も発さなければ、何も置いていかない。透は息を浅く、浅く保った。胸ポケットのレコーダーは、すでに電池を抜いてきた。喉は使わない。足音だけが、自分の耳の少し前で、ぼんやり遠のいていく。
数歩進んだとき、後ろから、声が呼んだ。
「嶺岸さん」
自分の声だった。
息を呑みかけた。喉の奥で、声にならない音が、ほんの少しだけ、鳴った。
返事をすれば、その返事を、また置いていく。沈黙すれば、息ごと取り残される。坂の終わりは、まだ十数メートル先で、そのあいだは、まったくの凪の中だ。
もう一度、後ろから声がした。
「嶺岸さん、置いていって」
今度は、自分の声ではなかった。あの、若い男の声に、自分の声がうっすら重なった、もうひとつ奥の声だった。
透は前を向いたまま、目だけを少し、動かした。
地面の苔の上に、薄い影が、何枚も重なって、置かれていた。一枚は、昨日の自分。一枚は、一昨日の自分。さらに薄く、ずっと古い、半透明の影が、坂の奥のほうへ、何十枚も、何百枚も、整然と並んでいた。
ひとつひとつが、誰かの最後のひと息を、行儀よく折り畳んで置いた形だった。誰の影も、こちらに向かって、わずかに頭を傾けていた。耳を澄まして、次の声を待っているのだと、透にはすぐに分かった。
一番手前の影が、ゆっくり、顔を上げた。
透の顔だった。
影は、声を持っていた。
「凪、いってきます」
その言葉は、たしかに、透が今朝、民宿を出るときに、口の中だけで呟いた挨拶だった。
透は、坂を降り続けている。
風は止んだままで、吹かない。
透が坂の端にたどり着くのか、それとも、影の列のいちばん奥に、もうひとつ並ぶのか。
誰もそれを、確かめには来ない。
凪の口は、いまも、息を返さないままだ。
凪の口(完)




