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海鳴り

AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。

ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。

https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan

一、潮鳴り(しおなり)


 夜八時。

 漁港の小屋で網の補修を終えて、外に出た。


 比屋根ひやごんの港は、夜は人気がない。漁師は朝が早いから、夜はみな寝ている。船が三艘、薄い月明かりに浮いていた。コンクリの突堤に、ぽつんと裸電球が一つ。それだけが灯りだった。


 潮の匂いの中に、なにかが混じっていた。


 低い音だった。


 波音の合間に、地の底から響くような重い音が聞こえてくる。最初は遠雷かと思った。けれど空には雲もない。月はあったが、細い三日月で、海面を照らしてはいない。


 腹に響くような、太鼓を遠くで叩いているような音。一度途切れて、また始まる。波音とは明らかに違う。心臓の鼓動に近かった。けれど自分のものでもなく、海のものでもない。


 音は沖から来ていた。聞こえる方向は、はっきりわかる。けれど、どれくらい遠いかはわからない。耳に届くのに、距離の感覚がない音だった。


 俺は煙草を消した。吸い差しを靴で踏み消した。手がわずかに震えていた。


 歩いて家に戻ると、玄関の灯りがついていた。


 祖母が縁側に座っていた。仏壇の方を向いて、なにかを呟いている。


「ばあちゃん。寝てなかったのか」


 祖母は俺を見上げた。皺の中に、いつもより暗い目があった。


「康平。今、聞こえたか」


「海鳴り(うみなり)、だろ」


「そうさ。比屋根じゃ、昔から聞こえる」


 祖母は仏壇に向き直り、手を合わせた。父の位牌に向かって、何度も頭を下げた。三年前、父は沖で行方不明になった。船だけが流れ着いた。遺体は今も上がらない。


「呼ばれたんだよ、誰かが」


 祖母は静かに言った。


「明日、誰か死ぬのか」


 俺は冗談めかして訊いた。祖母は答えなかった。仏壇の蝋燭の火が、風もないのに揺れていた。


二、呼ばれのよばれのいえ


 翌朝、目を覚ますと、外で大きな声がしていた。


 集落の中ほどにある与那覇よなは家の前に、人が集まっていた。婆さんたちが、与那覇のおじいが死んだと話している。八十を越えていた。畳の上で、眠るように冷たくなっていたという。布団の中ではなく、座敷の真ん中で、海の方を向いた格好だったらしい。


 俺は遠巻きに見ていた。婆さんの一人が、別の婆さんに耳打ちしていた。


「あれが、聞こえたんだろう」


「何年ぶりだろうね」


「前は、和田んとこの旦那さんだった」


 和田というのは、俺の家だ。父のことを言っているのだとわかった。


 俺は祖母の顔を見た。祖母は何も言わなかった。


 その日の昼から、集落の老人たちが御嶽うたきに集まり始めた。普段、御嶽は祭りのとき以外、人が入らない場所だ。それが何人もの老人が出入りしている。白い装束を着た者も混じっていた。


 俺は気になって、夕方、御嶽の前を通った。


 奥から、低い読経のような声が聞こえてきた。沖縄の祝詞のりとか、それともユタの呼び方か。俺には聞き取れない言葉だった。ただ、節回しが葬式のそれと似ていた。葬式は終わっているはずなのに、誰かを、まだ送ろうとしているような響きだった。鳥居の奥に、白布を巻いた竿が何本も立てかけられていた。先端には、なにか黒いものが結びつけられていた。


 家に戻ると、祖母が干物を取り込んでいた。


「ばあちゃん。御嶽で、なにやってるんだ」


「お前は知らんでいい」


「俺も比屋根の人間だぞ」


 祖母は手を止めた。干物の竹笊を、縁側にゆっくり置いた。


「お前は本土の大学を出て、戻ってきた。父親が死んでから、たった三年だ。比屋根の話を、全部知ってるわけじゃない」


 俺は黙った。


 子供の頃、父はよく御嶽に行っていた。何をしているのかは知らなかった。母は本土の人で、御嶽に近づこうとしなかった。父が死んだあと、母は本土に戻った。俺は祖母と二人で、この家に残った。


 その夜は、海鳴りは聞こえなかった。


 俺は港に出て、海を見た。月のない夜だった。波音だけが続いていた。


 それでも、耳の奥でなにかが聞こえている気がした。昨夜の音が、頭の中にこびりついている。何度頭を振っても抜けなかった。


三、絶えたえま


 三日が経った。


 不漁が続いていた。


 俺の船だけではなく、比屋根のどの船も、最近は漁獲量が落ちている。魚群探知機の反応はあるのに、網を入れても入らない。年寄りたちは「海が痩せた」と言う。比屋根の沖は、戦後しばらく、海産物の宝庫だった時期があった。それを覚えている世代から見れば、今の海は確かに痩せていた。


 俺は仏間で祖母と向き合っていた。


「ばあちゃん。教えてくれ。海鳴りって、何なんだ」


 祖母は線香に火をつけた。煙が真っ直ぐに昇り、途中でほどけた。


「昔、比屋根の沖に、海の主がいた」


「主」


「魚を呼ぶもの、嵐を治めるもの。比屋根の漁は、その主の機嫌で決まった」


 祖母は線香の煙を目で追っていた。


「比屋根は毎年、御嶽で祭りをして、海の主に供物を渡した。一番大きな魚を一尾、海に戻すんだよ。海から借りた命を、海に返す」


「それで」


「戦後、祭りが絶えた時期があった。生きるのが精一杯で、誰も供物どころじゃない。米も足りなかった頃さ。供物を出せる家は、なかった。御嶽の前にも、雑草が伸びていた」


 祖母は俺を見た。


「祭りを再開した年、最初の海鳴りが聞こえた。その夜、漁師が一人、家の中で死んだ。畳の上で、口を開けたままで」


 俺は息を呑んだ。


「それから比屋根じゃ、海鳴りが聞こえた夜は、必ず誰かが連れていかれる。供物を絶やした分、海が返してもらう番になったのさ」


「父さんも、そうだったのか」


 祖母は答えなかった。仏壇の上の、父と祖父の遺影を見ていた。


「お前の祖父さんも、そうだった。あの人は船の上から消えた。一緒に乗っていた船員の話じゃ、舵を握ったまま波の方を見ていたかと思ったら、次に振り返ったときには、もういなかったそうだ。お前の父さんも、同じ消え方だった。船だけが流れ着いた。中には、まだ飲みかけの水筒が、こぼれもせずに置いてあった」


 祖母の声が、わずかに震えていた。


「比屋根の者は、海に取られる。順繰りに、取られていく」


 線香が、ぱきりと音を立てて折れた。灰が、座卓の上に落ちた。


 俺は祖母の顔を見られなかった。


四、波のなみのて


 その夜、また海鳴りが聞こえた。


 今度は、近い。


 家の中まで響いてくる。床板がわずかに震えている気がした。仏壇の鈴が、誰も触れていないのに、ちりんと鳴った。一度、二度、三度。やがて止んだ。


 俺は跳ね起きて、祖母の部屋に行った。祖母は布団の上に正座していた。すでに起きていた。


「ばあちゃん。逃げよう」


「逃げて、どこに行くのさ」


「山手の方に。海から離れて」


 祖母は首を振った。


「逃げても、海はどこにでもある。比屋根の者は、海から逃げられん」


 俺は祖母の腕を引いた。だが祖母は動かなかった。痩せた腕なのに、根が生えたように動かない。


「ばあちゃん。来てくれ」


「お前一人で、外に出てみな」


「なんで」


「見えるよ。あれが」


 俺は祖母の顔を見た。祖母の目は、もう俺を見ていなかった。仏壇の方を向いていた。


 俺は玄関を開けた。


 月のない夜だった。けれど、海岸の方がぼんやりと明るんでいた。光ではない。闇よりほんの少し薄い、青白い染みのような明るさだった。


 足が勝手に動いた。


 集落の道を、海岸の方へ歩いている。家々の戸はみな閉まっていた。電気を灯している家もない。誰一人、外を覗こうとしない。海鳴りが聞こえる夜、比屋根の人間は、戸を開けない。


 砂浜に出ると、波打ち際に、なにかが立っていた。


 人の形をしていた。けれど、輪郭が水のように揺れていた。月もないのに、その影だけがなにかの光を浴びているように青白く浮かんでいる。


 影は、こちらを向いていた。


 顔と思しき部分に、目のようなものが二つあった。窪みなのか、影の中の影なのか、判別はできない。けれど、見られているとはっきりわかった。波が影の足元に寄せても、影の輪郭は崩れなかった。水を弾くのではなく、水の側が影を避けているように見えた。


 俺は動けなかった。逃げようと思うのに、足が砂に縛られている気がした。


 影の頭の部分が、わずかに傾いた。


 招くように。


 そのとき、家の方から、祖母の声が聞こえた。


「康平。戻りなさい」


 足が動いた。


 俺は転びそうになりながら、家まで走った。途中で一度だけ、振り返った。影は、まだ波打ち際に立っていた。けれど、最初に見たときよりも、ほんの少し陸に近づいていた。


 玄関を閉めて、鍵をかけた。


 居間に戻ると、祖母はもういなかった。


 布団は敷かれたままだった。襖は開いていた。座っていたはずの場所に、わずかなくぼみだけが残っていた。


 俺は祖母の名を呼んだ。家中を探した。納戸も、風呂場も、便所も、縁側の下まで覗いた。台所の戸を開け、押し入れを開けた。仏壇の前を通ったとき、線香の煙が、まだ細く昇っていた。誰かが、ついさっき足したように。


 祖母はどこにもいなかった。


 外では、海鳴りが続いていた。


五、もう聞こえぬもうきこえぬよ


 祖母の葬儀には、集落のほとんどが集まった。


 御嶽の前で、簡素な儀式が行われた。遺体はなかった。比屋根では、海に呼ばれた者の葬儀は遺体なしでやる、と老人たちは言った。父のときも、そうだった。祖父のときも、おそらくそうだった。


 葬儀のあと、集落の長老が俺の肩に手を置いた。


「康平。お前も、いずれ呼ばれるときがくる」


「比屋根を出る」


「無駄さ」


「それでも、出る」


 長老は黙って頷いた。哀れむような、すでに弔うような目だった。


 俺は荷物をまとめて、車に乗った。


 那覇まで出れば、本土行きの便がある。比屋根から離れれば、海鳴りも聞こえなくなるはずだ。そう思いたかった。


 県道に出て、ラジオをつけた。


 ニュースの最中だった。アナウンサーの声が途切れた。


 ザ、と雑音が走った。


 そして、低い音が聞こえてきた。


 腹に響くような、太鼓を遠くで叩いているような音。一度途切れて、また始まる。


 ラジオから、海鳴りが流れていた。


 俺はラジオを消した。


 エンジンの音だけになった車内で、それでもまだ、耳の奥で同じ音が続いていた。窓を開けると、潮の匂いが入ってきた。比屋根から数十キロ離れた、海も見えない山道だった。


 ***


 本土に戻った。


 東京の、海から遠いアパートを借りた。中央線沿いの内陸寄りの町だった。会社員に戻った。漁の話はしなかった。比屋根の話もしなかった。同僚には、沖縄に祖母を残していたが亡くなった、それだけを伝えた。


 数ヶ月、何事もなかった。


 仕事には順調に慣れた。残業して、終電で帰り、ベッドに倒れ込む。そういう生活だった。海から離れたはずなのに、夢の中でだけ、波音を聞いていた。朝、目覚めると、布団の中に砂が落ちていることがあった。すぐに、引っ越し前の埃だと思い直した。それ以外に、説明のしようがなかった。


 ある夜、目が覚めた。


 窓を開けていた覚えはなかった。けれど、風が入ってきていた。


 風の中に、低い音が混じっていた。


 東京の真ん中で、海もない場所で、海鳴りが聞こえた。


 俺は耳を塞いだ。


 しばらくして、手を離した。


 まだ聞こえていた。


 ***


 何度目かの夜、俺は海鳴りに慣れ始めていた。


 最初は耳障りだった音が、次第に背景に溶けていく。エアコンのうなりや、冷蔵庫の作動音と、同じように聞こえるようになった。気にならない。気にしなくなった。


 それでも、夜中に目が覚める癖はついた。同僚に、最近痩せたなと言われた。鏡を見ると、目の下に、見たことのない影ができていた。


 ある夜、ふと気がついた。


 波音が混じっている。


 東京のアパートで、波音がしていた。


 俺は窓を開けた。ベランダから外を見た。


 向かいのビルの隙間に、なにかが立っていた。


 人の形をしていた。輪郭は、水のように揺れていた。


 俺はベランダから動けなかった。比屋根の砂浜で見たものと、同じ形だった。違うのは、距離だけだった。あのときよりも、ずっと近かった。


 足が、ゆっくりと、玄関の方へ向きを変えていた。


 俺の意志ではなく、足が玄関へ歩き始めている。


 海鳴りは、もう聞こえなかった。


海鳴り(完)

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