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数え潮(かぞえじお)

AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。

ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。

https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan

一、海鳴の家


 祖父が死んだのは八月の終わりだった。

 本土の病院で、最後は誰のこともわからなくなっていたという。

 和也が祖父の家のある沖縄の島に渡ったのは、その四十九日を過ぎた頃だった。

 東京の大学の夏期休暇のうちに、家の整理を済ませてしまいたかった。


 祖父はこの島で、十五年ほどを一人で暮らしていた。

 漁師でも農家でもなく、ただ住んでいた。

 何をして日々を過ごしていたのか、家族の誰も詳しくは知らない。


 岬の近くの、低い赤瓦の平屋だった。

 塀には珊瑚の欠片が組まれ、門柱には風化したシーサーが一対乗っている。

 鍵を開けて土間に入ると、線香の匂いが微かに残っていた。

 畳の真ん中に、座布団がひとつ、祖父が座っていたままの形で置かれていた。

 和也は荷物を(かまち)に下ろして、しばらくその座布団を見つめていた。


「あんた、孫かい」

 振り向くと、痩せた老婆が縁側の外に立っていた。

 隣家の人だと、すぐにわかった。

 通夜のあと、家族と二、三度言葉を交わしたことがある。

 和也は会釈をして縁側に出た。


「整理に来てくれたんかね」

「はい。秋には貸し家にするかもしれないと、母が」

 老婆は頷きながら、岬の奥の海を眺めた。

 白く泡立つ波頭が、遠い岩礁の上で割れている。

「あんた、ひとつだけ、気をつけることがある」


 和也は次の言葉を待った。

「海鳴りが聞こえる夜がある」

 老婆の声は乾いていた。

「波の音とは違う。低い、太鼓みたいな音だよ。聞こえたらね、返事をしてはいけない」

「返事、というのは」

「呼ばれた気がしても、答えてはいけない。窓も開けない。海の方も見ない」

 老婆はそれだけ言うと、踵を返した。

 背中が垣根の向こうに消えるまで、和也は何も言えずにいた。


 その日は荷物の整理だけで終わった。

 古い文机、湿った布団、台所の食器。

 押入れの上段には、紐で縛られた古い帳面が幾束も積まれていた。

 和也はそれを後回しにして、台所の片付けに取りかかった。

 冷蔵庫の中は空で、調味料の瓶だけが律儀に並んでいた。


 夕方、西の空が橙色に染まる頃、和也は縁側で煙草を吸った。

 祖父の家には電波が届きにくく、スマホは時々圏外になった。

 波の音だけが、遠くで規則正しく続いていた。


 その夜、十一時を過ぎた頃に、和也はそれを聞いた。

 最初は遠雷かと思った。

 地の底から這い上がってくるような、低い音だった。

 布団の中で耳を澄ますと、波の音とは別の周期で、ぼう……ぼう……と響いている。

 窓は閉めていた。

 和也は老婆の言葉を思い出して、布団を頭まで引き上げた。

 返事をするな、と言われた意味はわからない。

 ただその音は、硬い掌で頭をゆっくり撫でられているような感触で耳に届いた。


 音は、夜明け前まで続いた。



二、数の音


 翌日、和也は岬まで散歩に出た。

 海は穏やかで、昨夜の音が嘘のようだった。

 岩礁の上に小さな祠があり、苔むした石碑には、もう読めない字が彫られている。

 祠の前に塩と米が供えられていたが、ずいぶん古いもののようだった。

 和也はそこで軽く手を合わせて、家に戻った。


 午後、押入れの帳面を下ろしてみた。

 紐を解くと、祖父の細い字でびっしりと書かれた頁が現れた。

 日付と、人の名前。


「昭和二十三年 四月七日 玉城正三」

「昭和二十三年 八月十二日 与那覇トヨ」

「昭和二十六年 一月九日 比嘉勇造」


 延々と続いている。

 ノートは何冊もあった。

 古いほうは祖父の字ではない。

 角張った、別の人物の筆跡だった。

 途中から、見慣れた祖父の字に変わっていた。


 和也は一番新しい一冊を開いた。

 最後の頁の、最後の行に、祖父の名前が書かれていた。


「令和七年 七月二十三日 上原宗助」


 日付は、本土の病院に入院する前、祖父が亡くなる一月ぐらい前のものだった。


 何の名簿か、和也にはわからなかった。

 ただ、祖父は几帳面な人だった。

 何かの記録なのだろう、とだけ思った。


 その日の夜も、海鳴りは来た。

 昨夜より早く、十時を過ぎる頃に始まった。

 ぼう……ぼう……

 布団の中で耳を塞いでも、骨を伝ってその音は届いた。

 そして和也は、初めて気づいた。

 音と音の間に、わずかな隙間がある。

 等間隔ではなく、一定の周期で繰り返されている。

 ひとつ、ふたつ、と、数を数えているような響きだった。


 朝までに、和也は無意識のうちに数を数えていた。

 百を超え、二百を超えても、音はやまなかった。

 途中で諦めて、いつの間にか眠っていた。


 朝、目が覚めると、家の中は妙に静かだった。

 波の音すら遠かった。

 朝食を済ませて、また帳面を開いた。

 名前の横に、付箋が貼ってある頁があった。

 祖父の字で、こう書かれていた。


「数えられた者には、迎えが来る」


 和也は付箋を剥がして、しばらく指先で転がしていた。


 老婆が縁側に現れたのは、昼を過ぎてからだった。

「夜は、聞こえたかい」

 和也は答えに迷った。

 老婆は和也の顔を見て、眉をひそめた。

「答えなかったろうね」

「答えませんでした。でも」

「でも?」

 和也は言葉を選んだ。

「あれは、数を数えているように、聞こえました」

 老婆は黙った。

 それから、ゆっくりと頷いた。

「あんた、もう、家には居ない方がいい。早く済ませて帰りな」


 老婆が帰ったあとで、和也は文机の引き出しを開けた。

 中から、薄い和紙の折りたたみが出てきた。

 広げると、島の海岸線を描いた古い地図だった。

 岬の沖合に、墨で円が描かれている。

 円の中に、小さな字で「鳴り場」とあった。



三、呼ばう声


 その夜、和也は遅くまで帳面を読んでいた。

 名前の列を遡ると、最も古いのは戦後すぐのものだった。

 祖父はその頃まだ本土に住んでいたはずだ。

 ということは、祖父はどこからかこの記録を引き継いだのだ。


 夜半、また海鳴りが聞こえ始めた。

 ぼう……ぼう……

 和也は帳面を閉じて、布団に潜った。

 窓を閉め、耳を塞ぎ、目を閉じた。

 数えるまい、と決めた。

 けれど音は意志を持って耳に入ってきた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。


 それは数を数えているのではなかった。

 数を数えて、ある数に至るたびに、何かを呼んでいた。

 和也の意識のどこかが、その響きを言葉として聞き取り始めた。

 低い、長い、人の名前のような響き。

 最初は誰のものでもなく、ただ音だった。

 やがてそれは、上原、と聞こえた。

 祖父の名字だった。


 夜が明け切るまで、音は繰り返された。

 明らかに、祖父と和也の名字を、何度も呼んでいた。


 和也は朝になるなり、隣家の老婆を訪ねた。

 老婆は居間に座って、薄い茶を啜っていた。

 和也の顔を見ると、湯のみを置いた。

「聞こえたな」

「名前を、呼ばれました」

「もう数えられている」

 老婆は静かにそう言った。

「海鳴りは、海の底に取り込まれた者を呼ぶ音だよ。底には人が足りない。だから、生きてる側から、数えて足していくんだ」


 和也の指先が冷えていった。

「祖父も、それで」

「あんたの祖父さんは、自分の名を最後に書いて、自分から行った人だ。それまで何十年も、誰の名が呼ばれたかを書き留めてきた。誰かが代わりに書き留めないと、海鳴りが鎮まらない夜があるからね」

 老婆は湯のみをまた持ち上げた。

「書く役は、昔から島に一人だけいた。代が変わるたびに次が来た。前の書き手の頃には、本土から流れてきた若い人が引き継いだ。あんたの祖父さんが、その人だよ」

「祖父は、なんでそんな役を」

「ここに住むうちに、聞こえるようになったんだろうね。海鳴りに名を呼ばれて、書き手の家を訪ねた。前の書き手はもう年寄りで、ちょうど後を譲りたかったんだ」

「だから、自分の名を最後に書いて」

「書いた者は、海に取り込まれる。けれど、書く役を引き継いだ者は、しばらく猶予がもらえる。何十年も。あんたの祖父さんはね、本当は早く行きたかったのを、書き続けることで先延ばしにしていたんだよ」

 老婆は和也を見た。

「あんたには、その猶予がない。誰も次の書き手を探していないからね」


「島から出れば」

「出たとしても、意味はないさ」

 老婆は薄く笑った。

「海鳴りに名を呼ばれてからは、もう数えられているんだ。どこへ逃げても」

 言葉は途中で切れた。

 老婆は和也を見ていなかった。

 飲み終えた湯のみの底を、じっと見つめていた。



四、止まぬ凪


 家に戻り、和也は鞄に身の回りの物を詰めた。

 祖父の帳面も、最後の一冊だけ詰めた。

 スマホで連絡船の時刻を調べたが、明日の朝までは便がなかった。

 港町の宿に泊まろうとも考えた。

 しかし夕方の空には、太く黒い雲が低く垂れていた。

 台風が近い、と港の小屋の老人が言った。

 明日の便は欠航だろう、と。


 和也は港から戻る道で、もう一度岬の方を見た。

 海は青く凪いでいた。

 風はない。

 それなのに、空だけが暗くなっていく。


 家に戻り、戸を閉めた。

 スマホの電波は、今夜は完全に圏外だった。

 固定電話のジャックを探したが、回線は祖父が解約していたらしく、繋がらなかった。

 和也は文机の前に座り、祖父の最後のノートを開いた。

 最後の行の、祖父の名前の下に、まだ何行かの空白がある。

 そこに、自分の名前を書き込んでおけば、と考えた。

 書けば、自分の代わりに、いつかまた誰かが書き手として呼ばれるのだろうか。


 考えながら、和也は鉛筆を握って、しばらく動けずにいた。

 祖父は自分で自分の名を書いたので、死後は自分から海の底へ行ったのだろう、と老婆は言った。

 書き終えてからの数日間を、本土の病院で、祖父は何を考えて過ごしたのだろう。

 誰かを呼び寄せるために、自分の名を書く。

 そんなことを、和也はまだできなかった。

 鉛筆をノートの上に置いて、結局、頁を閉じた。


 その夜、海鳴りは早くに始まった。

 日が暮れるとすぐに、ぼう……ぼう……と低い音が床を伝った。

 昨夜よりも、音は明らかに近かった。

 和也は布団の中で身を縮めた。

 窓を閉め、耳を塞いだ。

 それでも音は届いた。


 ひとつ、ふたつ。

 上原。

 ひとつ、ふたつ。

 上原、和也。


 名字だけでなく、名前まで、はっきりと呼ばれていた。

 和也は布団の端を強く握った。

 答えるな、と老婆の声が頭の中で繰り返された。

 答えなかった。

 ただ、耳の奥が、音と同じ周期で、ぼう、ぼうと震えていた。

 体の内側にも、同じ音が住み着き始めていた。


 明け方近く、雨が降り出した。

 窓ガラスに大粒の雨がぶつかった。

 台風だ、と思った。

 台風が来れば、今日の朝の便はもう出ない。



五、迎え


 台風だと思えた雨は、一時的なものだったのか、空が明るくなるころには止んでいた。

 わずかに眠れた朝、和也が目を覚ましたとき、家の中は奇妙に静かだった。

 波の音さえ聞こえなかった。

 昨日まであれほど近かった海鳴りも、今は消えていた。


 和也は布団から出て、台所で水を飲んだ。

 スマホは相変わらず圏外だった。

 時計は午前六時を回っていた。

 連絡船は、もし出るなら七時半。

 和也は鞄を背負って、港に向かおうとした。


 玄関の鍵を回そうとしたとき、外で気配がした。

 すぐ近くだった。

 戸のすぐ向こうに、誰かが立っていた。


 和也は手を止めた。

 戸に耳をつけた。

 息遣いも、足音も、何も聞こえない。

 ただ、確かに、何かが立っていた。

 木の戸の向こうに、影のような重さがあった。


 和也は戸から離れて、裏の勝手口に回った。

 裏口に手をかけたとき、玄関の方で物音がした。

 戸が、軋んだ。

 誰かが、外から戸を押していた。


 押すというより、寄りかかっていた。

 立っているのが億劫な何かが、戸に体重を預けている。

 木の戸が、わずかにこちらに撓んだ。


 和也は息を止めた。

 今朝、海鳴りは止んでいた。

 止んだあとに、迎えが来る。


 戸の表面に、内側から見て、ぼんやりと黒い染みが広がりつつあった。

 染みは下のほうに集まり、敷居の手前に水溜まりを作っていた。

 海水の匂いが、隙間から流れ込んでいた。

 潮と、もうひとつ、何かが長く水に浸かったあとの匂い。

 和也は勝手口の取っ手から手を離した。


 裏に回ったところで、同じものが回り込んでくるだけなのだ。

 そう、どこかで気づいていた。

 逃げ場のないことが、体の方で先にわかっていた。


 和也の足が、勝手に玄関の方へ動いた。

 止まれ、と自分に言った。

 足は止まらなかった。

 海鳴りは聞こえないのに、その音は体の中で響いていた。

 ぼう……ぼう……

 ひとつ、ふたつ。

 上原、和也。


 戸の前まで来た。

 膝が震えていた。

 それでも手は動いた。

 帳面に書かれていた人たちも、戸を内側から開けたのだろうか。

 祖父は、こうなることを知っていて、それでも自分の名前を最後に書いたのだろうか。


 和也の手が、内側から、玄関の鍵に伸びていた。


数え潮(完)


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