肉付きの面
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
一「 祖母の遺したもの」
祖母の四十九日が過ぎた頃、柚月は北陸の古い実家で遺品整理をしていた。
梅雨の走りの湿った空気が、畳の目に染み込んでいる。障子を開け放っても、家の奥からは古い線香と、どこか甘ったるい、熟れすぎた果物のようなにおいが漂ってきて消えなかった。祖母は九十三で亡くなった。最期まで頭はしっかりしていたが、晩年は時折、鏡の前で長い時間、ただ静かに座っていることがあった。何を見ていたのか、柚月にはついぞ分からなかった。
簞笥の一番下、底板を外した奥から出てきたのは、紫の袱紗に包まれた手鏡と、紐で綴じられた和紙の束だった。手鏡は鏡面が深く曇り、裏には蓮の彫刻が施されている。蓮の花芯の部分だけ、指でこすったように艶が出ていた。祖母が生前、「これだけは見るな、映すな」と口癖のように言っていたものだ。幼い柚月が悪戯で触れようとするたび、祖母は普段の穏やかさからは考えられない鋭さで、手首を掴んだ。
和紙を広げると、震える筆跡でこう記されていた。
――肉付きの面は、憎しみが凝って肉となり、剥がれぬ面となる。吉崎にて封じたり。決して、孫に継がせるな。
柚月は民俗学を専攻している。吉崎といえば、あわら市にある蓮如上人ゆかりの吉崎御坊。そこには「肉付きの面」の伝承がある。嫁いびりをした姑が、嫁を驚かそうと般若の面を顔に当てたまま剥がれなくなり、念仏によってようやく肉ごと剥がれ落ちたという、あの古い物語だ。現地の願慶寺には、その面が今も安置されていると聞く。
だが、祖母の手記は、何かが違う。「封じた」「孫に継がせるな」――まるで、祖母自身が、面に関与していたような書きぶりだった。
祖母は、何を怖れていたのか。
柚月はその夜、古い蛍光灯の下で、何気なく手鏡を覗き込んだ。曇った鏡面に、自分の顔は映らなかった。鏡面が曇っているせいだろう、と思った。代わりに、ほんの一瞬――笑っている、知らない女の顔が、見えた気がした。
錯覚だと、柚月は自分に言い聞かせた。疲れているだけだ。袱紗に鏡を戻す指先が、少しだけ震えていた。
二 「吉崎の声」
翌週、柚月は調査と称して吉崎を訪れた。祖母の手記が、どうにも頭から離れなかった。
十一月の北潟湖は鉛色に凪いで、対岸の松林が黒く沈んでいた。御山に登る石段は前日の雨で湿り、苔が滑り、足を踏み出すたびに、湿った布を踏むような、くぐもった音がした。嫁威し肉附面伝説の碑の前に立つと、冬の風が頬を撫でて、どこか肉のにおいがした。獣の肉ではない。人のぬくもりが残ったような、生々しい、それでいて古い、においだった。
「あんた、あの家の子かね」
振り向くと、紺絣の老婆が立っていた。腰が曲がり、顔の皺は木の皮のようだった。いつからそこにいたのか、気配が全くなかった。
「祖母をご存じなんですか」
「ようく似とる。目の縁が、そっくりじゃ」老婆は笑った。歯が一本もなかった。口の奥は、覗き込めば底のない井戸のように暗かった。「あの人も、若い頃ここへ来た。面を返しに来た、と言うてな」
柚月の背筋が冷えた。手記には「封じた」とあった。祖母は、面を持ち出していたというのか。持ち出した上で、返しに来て、そして、封じた――そう読むのが、自然だろうか。
「返せたんかどうか、わしは知らん。けんど、」老婆は柚月の頬に、骨ばった指を這わせた。爪が、少しだけ皮膚に食い込んだ。「顔っちゅうもんは、借り物じゃ。憎しみが強いと、本物の顔の上に、もう一枚、肉がのる。のったら最後、どっちが本物か、自分でも分からんようなる。剥がそうとすれば、下の肉まで一緒に剥げる。だから、誰も剥がさん。そのまま、暮らす」
そう、暮らす、と老婆は繰り返した。
風が鳴った。松の枝が軋み、湖面にさざ波が立った。柚月が瞬きをした、その一瞬で、老婆の姿は、いつの間にか消えていた。石段には、誰の足跡も残っていなかった。
足下の石畳に、湿った木屑のようなものが落ちていた。拾い上げると、それは黒ずんだ、人の皮膚のかけらだった。爪の先くらいの大きさの、薄く、乾いた、けれど確かに、毛穴の名残のある、人間の、皮膚。
柚月はそれを袱紗にくるんで持ち帰った。捨てることが、なぜか、できなかった。
三 「鏡の中の他人」
実家に戻ったのは、日が暮れてからだった。家じゅうの電気をつけても、廊下の隅に澱んだ暗がりだけは、どうしても消えなかった。
洗面所の電灯をつけ、柚月は何気なく鏡を見た。
――自分の顔が、笑っていた。
柚月は、笑っていない。頬はこわばり、口元は固く結んでいるはずだった。けれど鏡の中の女は、口の端を耳まで裂くように吊り上げて、目を細めて、確かに笑っていた。目だけが、柚月自身の目だった。その目は、笑っていなかった。怯えて、見開かれて、ただ、鏡の中の自分を見ていた。
悲鳴を上げようとして、上がらなかった。喉の奥で、自分のものではない笑い声が、くつくつと湧いた。それは自分の声帯を使って鳴っているはずなのに、柚月の意思は、まるで関与していなかった。誰かが、自分の体を借りて、笑っている。
慌てて頬に手をやる。指先が、皮膚の縁に触れた。こめかみのあたり、耳の上の生え際に近い場所、薄い膜のような、めくれかけの縁が、確かに、ある。指の腹でなぞると、つるりとした本来の皮膚との境目が、はっきりと感じられた。
爪を立てると、ぺりっ、と音がして、少しだけ、剝がれた。
痛みは、なかった。それがかえって恐ろしかった。
その下から覗いたのは、自分の肌ではなかった。もっと白く、もっと冷たい、蠟のような、磨き上げた木肌のような、人のものではない質感の何かだった ―― そして、それもまた、笑っていた。剥がれた皮膚の隙間から覗いた、ほんの一センチほどの範囲で、確かに、口角が、吊り上がって、いた。
祖母の声が蘇る。映すな、見るな。
柚月は、手記の最後の一行を、読み飛ばしていたことに気づいた。慌てて和紙を広げ直すと、末尾に小さな文字で、こう書かれていた。――面は、血筋を伝って、次の器を選ぶ。選ばれたら、逃げられぬ。
鏡の中で、「柚月」の面が、ゆっくりと首を傾けた。柚月自身は、首を傾けていなかった。
四 「継がれるもの」
気がつくと、柚月は祖母の仏壇の前に座っていた。どうやってそこまで歩いたのか、記憶がなかった。
遺影の祖母は、穏やかに微笑んでいた。しかしよく見れば、その微笑みの口角は、不自然なほど吊り上がっていた。生前の祖母は、あまり笑わない人だった。愛想笑いさえ、ほとんどしなかった。なぜ今まで気づかなかったのだろう。なぜ、遺影の中の祖母だけが、生前見たこともない笑顔を浮かべているのだろう。
ああ、と柚月は思った。祖母は、死んで、ようやく、笑うことを許されたのだ。いや、違う。祖母から面が離れた、その瞬間から、面が柚月に渡った、その瞬間から、祖母の顔は、ようやく祖母自身のものに戻り――そして、それは、笑っていた。
柚月の指先は、まだ自分の顔の縁をなぞっていた。剝がそうとしたが、もう、剝がれなかった。剝がれる縁が、どこにも見つからなかった。先ほど剥がれた箇所さえ、指でなぞっても、もう継ぎ目が分からなかった。肉と面は、既に融合している。血管が通い、神経が繋がり、柚月の体の一部として、受け入れられつつあった。
祖母は、封じたのではなかった。預かっていたのだ。自分の代で引き受け、肉の下に隠して、生涯笑わぬように努めていた。笑えば、面が喜ぶ。面が力を得る。だから祖母は、笑わなかった。けれど器は老いる。老いた器から、新しい器へ――孫へ――面は、静かに渡っていた。遺品整理のあの日、鏡を覗いた瞬間に、もう。
いや、もっと前から、なのかもしれなかった。祖母が柚月を抱き上げた、幼い頃のあの温もりの中に、既に、面は手を伸ばしていたのかもしれなかった。
手鏡を、もう一度取り出した。震える指で、袱紗を解いた。
曇った鏡面に、柚月の顔が映った。今度は、はっきりと。
それは、美しい女の顔だった。整った眉、涼やかな目、紅をさしたような唇。自分の顔ではない。けれど、誰か他人の顔でも、ない。どこか、祖母の若い頃の写真に、似ていた。そして、写真で見たことのある、曾祖母にも、似ていた。
これが、肉付きの面。憎しみが凝り固まり、幾代もの女たちの怨みを吸い、肉となって張り付いた、剝がれない仮面。代々、血筋の女たちが、自らの顔の下に隠し続けてきた、家の業のかたち。
柚月は静かに、鏡の中の自分に微笑みかけた。微笑みたくないのに、微笑んでいた。口の端が、耳まで裂けそうに、吊り上がった。
鏡の中の美しい女は、柚月と同じ角度で、同じ速度で、微笑み返した。
五 「嫁ぎゆく」
春になって、柚月は結婚した。
大学を卒業し、ゼミで知り合った穏やかな男性との、ささやかな式だった。義母は少し気難しく、初対面から柚月の学歴や実家の格についてあれこれ詮索したが、柚月はいつも微笑んでいた。どんなに嫌味を言われても、どんなに理不尽な要求をされても、柚月は微笑みを絶やさなかった。
「いい子ね」と、近所の人々は言った。「いつも笑顔で、本当にいい子ね」
柚月自身は、もう、自分が笑っているのかどうか、分からなくなっていた。笑顔は顔に張り付いて、外れなかった。怒ることも、泣くことも、できなかった。頬の筋肉は、微笑みの形で固まっていた。ただ、面の下で、何かが静かに育っていた。憎しみとも違う、もっと冷たく、もっと古い、何か。幾代もの女たちの、呑み込まれた声の、沈殿したもの。




