骨唄(ほねうた)
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
一「記録者」
梅雨が明けたばかりの空気は、まだ水の記憶を纏っていた。
桐生奏は旧市街のバス停でひとり降り、湿った夜風に目を細めた。スマートフォンの地図アプリが示す目的地まで、徒歩十二分。画面の青い点滅が、自分の存在だけがこの時間帯にここにあることを無言で告げている。
民俗学ゼミの夏期レポートには、まだ白紙の頁が残っていた。教授が求めているのは文献の引き写しではなく、足で拾った「生きた声」だ。奏がこの地方都市を選んだのは、祖母の言葉がずっと耳の奥に刺さっていたからだった。
――骨が唄うとな、聞いた者の内側に棲みつくんよ。
幼い頃、祖母の膝の上で聞いた怪異譚。各地に点在する「歌い骸骨」の伝承。骸の霊が夜に唄い、その旋律を耳にした者には不幸が訪れるという。奏はそれを迷信だと笑い、同時に記録すべき民俗資料だとも思っていた。
旧商店街を抜けると、街灯が途切れた。取り壊しを翌日に控えた木造長屋が、闇の中に歯列のように並んでいる。窓という窓に板が打ちつけられ、入口には立入禁止のテープが風に揺れていた。
奏はポケットからICレコーダーを取り出し、録音ボタンを押した。赤い点灯が、小さな眼のように瞬く。
「フィールドワーク記録。七月十九日、午後十一時四十分。旧丸山町長屋群にて、環境音の採取を開始する」
自分の声がやけにはっきりと聞こえた。それは、周囲があまりにも静かだったからだ。虫の声すらない。梅雨明けの夜に、蝉も蛙も沈黙している。その不自然さに気づいた瞬間、奏の鼓膜が微かな振動を拾った。
低く、細く、途切れ途切れの――旋律。
それは長屋の奥から、地面を這うようにして滲んできた。
二「旋律」
歌、だった。
人の声のようでいて、人の声ではない。喉ではなく、もっと乾いた場所から絞り出されるような、軋んだ音程。子守唄のようでもあり、誰かを呼んでいるようでもあった。歌詞があるのかないのか、日本語なのかすら判然としない。ただ旋律だけが、空気の襞に染みるように広がっていく。
奏はICレコーダーを長屋のほうへ向け、息を殺した。録れている。波形がちゃんと動いている。それだけで理性が勝った気になれた。記録できるということは、物理現象だということだ。風の通り道が偶然つくった共鳴か、配管の残響か。
そう自分に言い聞かせながら、奏は立入禁止のテープを跨いだ。
長屋の敷地に足を踏み入れた途端、空気の質が変わった。外の蒸し暑さが嘘のように、肌に触れる空気が冷たい。湿気ではない、もっと底のほうから立ち上る、土と朽ちた木の匂いを含んだ冷気。
旋律が近い。
奏は長屋の裏手に回った。板塀の隙間から覗くと、中庭のような空間があった。かつては住人が洗濯物を干したであろうその場所に、月明かりが白く落ちている。
そこに、何かが座っていた。
最初は古い人形だと思った。関節がおかしな角度に折れ曲がり、首が傾いでいる。だが人形にしては大きすぎたし、何より、動いていた。
微かに、揺れている。前後に、拍子をとるように。
そして――唄っている。
顎の骨が上下するたびに、乾いた旋律が漏れ出していた。目の窪みには何もないはずなのに、奏はそこから視線を感じた。見られている。こちらの存在を、とうに知られている。
足が竦んだ。逃げなければという本能と、見届けなければという衝動が拮抗して、奏の身体を板塀の前に縫いとめた。
唄が、少しだけ高くなった。まるで聴衆を得て嬉しがるように。
三「共鳴」
逃げようとした。
足を動かし、背を向け、テープの外へ戻ろうとした。だが三歩目で奏の身体は止まった。止まったのではない。止められたのだ。
旋律が、耳の奥ではなく頭蓋の内側で鳴っていた。
外から聞こえる音ではなくなっていた。骨伝導のように、自分の骨格そのものが振動し、あの軋んだ音程を再生している。歯が鳴る。顎が鳴る。鎖骨から肋骨へ、背骨から骨盤へ、旋律が全身の骨を伝って降りていく。
奏は自分の腕を見た。月明かりの下で、皮膚の内側に骨の輪郭がうっすらと浮かんでいるように見えた。手首の二本の骨が、ほんの僅かに、拍子をとるように震えている。
「やめ……」
声が出ない。喉ではなく、声帯そのものが旋律に同調して、言葉の生成を拒否していた。代わりに唇からこぼれたのは、あの唄の断片だった。自分でも聞いたことのない音階が、自分の口から漏れている。
振り返った。中庭の骸は、もう座ってはいなかった。
板塀の隙間から、こちら側へ伸びてくる指の影があった。指というには長すぎ、細すぎ、関節が多すぎる。それが板塀の木目に沿って這い、テープを越え、奏の足元に向かって伸びていく。影なのに、地面に触れた箇所の土が白く乾いていくのが見えた。
奏は叫ぼうとした。だが身体が唄を止めない。唇が勝手に動き、喉が勝手に震え、骸の旋律を正確にトレースしていく。まるで何百回も練習した歌のように、淀みなく。
ようやく理解した。
これは聴くものではなく、棲みつくものだ。祖母の言葉は比喩ではなかった。旋律は耳から入って骨に刻まれ、その身体を新しい楽器に仕立てる。歌い骸骨とは、元々は人だったのだ。唄を聞き、唄に蝕まれ、最後には唄そのものになった者たちの成れの果て。
指の影が足首に触れた。氷を当てたような冷たさではない。もっと根源的な、体温という概念を忘れさせるような感覚。触れられた場所から、自分の足が自分のものではなくなっていく。
四「剥落」
どれだけの時間が過ぎたのか、わからなかった。
気がつくと奏は旧商店街のアスファルトの上に座り込んでいた。長屋からは百メートルほど離れている。いつ、どうやってここまで来たのか、記憶がない。ただ手の中にICレコーダーだけが残っていた。録音はまだ続いていて、赤い点灯が規則正しく明滅している。
身体を確認した。足首に異常はない。指も動く。骨が震える感覚も、もう消えていた。あれは幻覚だったのか。熱帯夜と緊張が生んだ一時的な錯覚だったのか。
奏は深く息を吐き、ICレコーダーの録音を止めた。巻き戻して再生する。
自分の声。環境音の記録開始を告げる、落ち着いた口調。そのあと数分の沈黙。風の音。自分の足音。そして――
何もない。
旋律が、録れていなかった。
あれだけはっきりと聞こえた唄が、波形の上では完全な無音だった。あの長い時間の記録がまるごと欠落している。自分の足音と呼吸音だけが、何事もなかったかのように続いているだけ。
奏は再生を止め、画面を見つめた。録音時間は四十七分。自分の感覚では十分程度だったはずの体験に、四十七分が費やされていた。
始発のバスまであと三時間。奏はバス停のベンチに座り、膝の上でICレコーダーを握りしめた。眠気はなかった。ただ、奇妙なことにひとつだけ気づいていた。
周囲の音が妙に遠い。空調の室外機、遠くの車のエンジン音、自分の呼吸。全ての音が薄い膜一枚を隔てたように届く。その膜の内側で、かすかに、あの旋律の残響だけが鮮明に響き続けている。
消えない。
奏は耳を塞いだ。無意味だった。音は外からではなく、自分の内側から鳴っているのだから。
五「骨唄」
大学に戻って三日が経った。
日常は何事もなく再開した。講義に出て、図書館で資料を読み、コンビニで弁当を買って帰る。ゼミのレポートには、長屋群の建築様式と地域伝承の関連について淡々とまとめた。あの夜の体験は書かなかった。書けなかったのではない。書く言葉が見つからなかったのだ。
ただ、ひとつだけ変化があった。
奏の周囲で、小さな不運が続いていた。ゼミの同期が階段で足を滑らせた。隣室の住人が原因不明の高熱を出した。バイト先の店長が帰り道に接触事故を起こした。どれも致命的ではないが、どれも奏と言葉を交わした直後に起きていた。
偶然だ、と奏は思おうとした。
だが気づいてしまった。彼らと話しているとき、自分の喉が微かに震えていることに。声に混じって、聞き取れないほど小さな旋律が漏れていることに。あの唄の断片が、自分の声帯に棲みついて、会話のたびに滲み出している。
奏は人と話すのをやめた。ゼミを休み、バイトを休み、部屋に籠もった。スマートフォンの電源を切り、カーテンを閉め、布団を頭まで被った。
静寂の中で、旋律はいっそう鮮明になった。
あの軋んだ音程が、もう奏自身の骨格から生まれていた。呼吸をするたびに肋骨が共鳴し、寝返りを打つたびに脊椎が旋律を刻む。自分の身体が、少しずつ楽器に変わっていく感覚。
四日目の深夜、奏はふと気づいた。
唄の歌詞が、聞き取れるようになっていた。
意味のある言葉ではなかった。それは名前だった。何十、何百という名前の羅列。聞いたことのない古い名前もあれば、現代的な響きの名前もある。唄を聞いてしまった者たちの名前を、骸は一人ずつ唄い継いでいるのだ。
そしてその長い名前の列の、いちばん最後に、聞き覚えのある音が繋がった。
きりゅう、かなで。
奏は布団から手を出し、ICレコーダーを手に取った。録音ボタンを押す。赤い点灯が瞬いた。
今度は、録れるだろうか。
自分の骨から溢れる旋律を、この小さな機械は記録できるだろうか。そしてこの録音を誰かが再生したとき、その人の骨もまた、共鳴を始めるのだろうか。
奏は口を開いた。
唄が、自然にこぼれた。
窓の外では、取り壊されたはずの長屋があった場所から、かすかに、もうひとつの旋律が重なるように響いていた。
――骨が唄うとな、聞いた者の内側に棲みつくんよ。
その声の中にはな、骨になったみんなの名前が入っとるんよ。
だからな、絶対に聞いたらいかんよ――
【完】




