お先様
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。
https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan
一、町の触書
縁側の柱にもたれて、間瀬樹は、ぬるい麦茶を飲んだ。
座卓の上には、半年かけてようやく半分まで片付いた段ボールが三つ。祖母が遺した本と、半世紀分の手紙の束だ。庭では蝉が鳴いている。八月十四日の昼下がりだった。
東京の制作会社の業務はそのままリモートに切り替えてもらった。月のうち十日は都内に出る約束で、それ以外は、この弓削町の家で寝起きしている。祖母の死から半年。樹はようやく町の朝の気配にも慣れてきたところだった。
「樹くん、いるかな」
裏木戸の方から声がかかる。隣家の松浦のおばあさんだった。樹は急いでサンダルに足を入れた。
「あ、はい。いま行きます」
松浦のおばあさんは、勝手知ったる様子で、勝手口の三和土まで入ってきた。手には大判の和紙が一枚。
「あさってね、お渡りの日だから。これ、貼っといて」
「お渡り、ですか」
「ああ、東京のあなたは知らないか。夏祭りだよ。十六日の夜にね、おやしろから神輿が出るの。町をぐるっと一周してね、明け方にまた戻ってくる」
「はあ」
「これね、家のね、表に貼っとくの。皆そうしているから」
差し出されたのは、墨で何か書かれた古い紙だった。文字は達筆すぎて、樹には半分も読めなかった。
「あの、何が書いてあるんでしょうか」
「触書。お祭りの注意事項。読めなくても、貼っとけばお気に召すの」
「お気に……どなたが」
「お通りになる方が、ね」
松浦のおばあさんは、それでうっすら笑った。それから声を低くして、続けた。
「いっこだけ、覚えとくとよろしいよ。お神輿の前は、お渡りになる前に渡ったらいかんよ。お神輿のあとも、しばらく道に出たらいかん」
「前に渡る、というのは」
「お神輿よりね、先にね、道を渡る。それをするとね」
「すると」
「お先様になられるんだよ」
おさきさま。ひとつひとつ区切るような言い方だった。
「えっと、それはどういう」
「お先様になられた方はね、戻られないの」
松浦のおばあさんは触書を樹に押し付けると、それ以上は説明しなかった。貼っといてね、とだけ言い置いて、裏木戸から自分の家へ帰っていった。
樹は触書を手に、しばらく庭の蝉の声を聞いていた。よく分からない注意事項だったが、町の老人が言うことに逆らうつもりはない。家の表へまわり、玄関脇の壁に画鋲で留めた。
裏返したとき、紙の裏に薄い墨で何か描かれているのに気づいた。
人の形をしていた。
ただ、首から上がない。首の上に、長い棒のようなものが伸びている。あるいはそれは人ではなく、神輿の柄を担いだ姿を簡略化したものかもしれなかった。樹はしばらく見つめた。それから、絵を壁側に向けて、貼り直した。
二、横切る
祭りの当日、樹は東京で打ち合わせがあって、夕方まで都内にいた。新幹線で戻ったのが二十二時過ぎ。最寄り駅から町まではタクシーで二十分。家に着いたのは二十二時半だった。
スマホは新幹線の中でバッテリーが切れていた。
家に入ろうとして、樹は思い出した。冷蔵庫が空だ。明日の朝食もない。コンビニまで歩いて七、八分。田舎のコンビニは24時間営業ではないが、今からならまだ間に合う。
玄関の鍵をかけて、商店街の通りに出たとき、町が異様に静かなことに気づいた。十六日の夜、町中の家がすべて消灯している。街灯だけが、ぽつりぽつりと、青白く道を照らしていた。
そういえば、と樹は思った。今夜は祭りだった。
しかし、祭囃子は聞こえなかった。太鼓の音も笛の音もない。家々の戸は閉まり、人の影もない。お渡りは無音で行われるのか、と樹は思った。
コンビニで弁当とパンと水を買った。ビニール袋を提げて家路を急いだ。腕時計を見る。二十三時十分。
商店街の角を曲がろうとして、樹の足が止まった。
通りの先、五十メートルほど向こうから、提灯の列が近づいてくる。
お渡りだった。
神輿はまだ遠い。だが確実に、こちらへ向かってきている。家までは、この通りを横切るのが最短だった。迂回するとなると商店街をぐるっと回って、住宅地の中を歩いて十五分はかかる。
樹は迂回する気でいた。家まで急ぐ理由はなかった、はずだった。
そのとき、思い出した。
仏壇の蝋燭を消していなかった。
朝、祖母の月命日のお参りをして、それから片付けで段ボールを開けて、すっかり忘れていた。半日以上、燃えていたかもしれない。さっき戻ったときには、特に変わった様子はなかった。
台座の周りに溶けた蝋が広がっているだけならまだいい。
けれど何かで蝋燭が倒れていれば、今頃はもう家が燃えている。
樹は家の方角を見た。
空に炎に照らされたような明るさはない。
しかし…
樹は走り出していた。
提灯の列が思ったより近くにあった。神輿の担ぎ手たちが、無言で、足音だけを揃えて、こちらへ来る。掛け声はなかった。担ぎ手は二十人ほど。皆、白い装束に身を包んで、誰も顔を上げていない。提灯の明かりが、彼らの足元だけを照らしていた。神輿の屋根の鈴が、かすかに鳴っていた。
樹は通りを横切った。
神輿の十数メートル前を。
走り抜けた瞬間、空気の温度がはっきり変わったのが分かった。商店街の生ぬるい夜の空気が、横切った半歩の間だけ、ひやりと冷えた。井戸の中を覗き込んだような冷たさだった。
振り返らなかった。担ぎ手の誰かが何か言ったような気がしたが、それも聞かなかったことにした。家までの坂を駆け上がり、鍵を回し、玄関に駆け込んだ。
三、二つの足音
仏壇の蝋燭は、最後まで燃え尽きていた。台座の銅皿の上に、固まった蝋の塊が小さく残っているだけだった。
火事には、ならなかった。
樹はその場に座り込んで、しばらく動けなかった。背中が汗で冷えていた。ばかなことをした、と思った。神輿の前を横切ったくらいで、何かが起きるはずもない。だが松浦のおばあさんの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
お先様になられるんだよ。
その晩は何も起こらなかった。樹は風呂に入った。弁当を温め直して食べてから、深夜一時過ぎに寝た。
異変は翌日の夕方から始まった。
買い物の帰り、家まであと数十メートルというところで、樹は自分の足音が二つあることに気づいた。
カツン、カツン、カツン。
カツン、カツン、カツン。
樹の足音と、それより一拍早い、別の足音。
振り返った。
誰もいなかった。
歩き出した。
足音は、また二つになった。
家までの数十メートルが、十分以上かかった。家に入って、鍵を閉めて、息を整えた。気のせいだ、と思おうとした。
その夜、樹は自分の影を見た。
廊下の電灯の下、影が二つあった。
ひとつは樹の足元から、廊下の奥へ伸びている。
もうひとつは樹の足元から、玄関の方へ伸びていた。
樹は、動けなかった。
玄関の方へ伸びる影は、樹より少し背が高いように見えた。首から上が、ない。首の上に、長い棒のようなものが、まっすぐ上へ伸びている。神輿の柄に似ていた。
樹はそろりと、足の位置を変えた。
廊下の奥へ伸びる影は、足の動きに合わせて動いた。
玄関の方へ伸びる影は、動かなかった。
そのまま、こちらを向いて、立っていた。
四、お先様
翌朝、樹は玄関脇の壁から触書を剥がした。裏に描かれていた、首のない人の絵を、もう一度見た。
あれは人ではない。人だったものだ。自分より先を歩く影に、首から上を渡してしまった姿だ。
最寄りの神社まで、徒歩で十分。樹は触書を握りしめて、社務所の戸を叩いた。
応対したのは白髪の老人だった。宮司というよりは、町内会の年寄りという風情で、印半纏を羽織っていた。
「お先様、ですか」
触書を見せると、老人はそれだけ言った。樹が口を開く前に、もう全部分かっているような顔だった。
「あの、僕は」
「昨夜、お神輿の前を、お渡りになりましたか」
「……はい」
「ああ」
老人は溜息をついた。怒っているのでも咎めているのでもなく、ただ、こうなってしまったか、というだけの溜息だった。
「お先様になられた方はね、戻られんのです」
「戻る、というのは」
「もとの、ただのお人にね。戻られんのですよ」
樹は黙った。
「あの、お神輿の中に、なにか」
「ありませんよ」
老人は静かに答えた。
「お神輿はね、もとから、空のままお渡りするんです。神様はね、お先様の中に、おられるのです」
「先、というのは」
「お神輿のね、先を歩いてくださる方がね、いる。その方がいるから、神様は、町に出てこられるのです。お神輿はね、ただ、お先様の後ろを、ついていくだけです」
樹は、玄関で見た影を思い出した。首がなく、その上に長い棒の伸びていた、樹より少し背の高い、もうひとつの影。
「どうしたら、いいんですか」
老人の顔から、表情がほとんど消えた。
「どうも、できんのです。お先様は、お先様としてね、お渡りになるのが、お役目ですから」
「お役目」
「お神輿の前をね、ずっとね、お渡りになる。それが、お役目です。来年も、再来年も、ずっと先まで」
「僕、来年もここに、いるんですか」
「ここに、いるかどうかは、樹さんが決めることでね」
老人は、樹が名乗ってもいないのに、樹の名前を口にした。
「お役目はね、樹さんの体が、どこにいようと、続きます」
樹は社務所を出た。
背中で、老人の声が追いかけてきた。
「お神輿よりね、先を、お歩きください。決して、後ろから、ついて来ようと、なさらないように」
樹は振り返らずに、神社の鳥居をくぐった。
家に向かう道で、樹は自分の足音が、いつのまにか先を行っているのに気づいた。背後で、シャランと、神輿の鈴が鳴った気がした。
五、渡り続けて
それから樹は、夜ごと、家を出て歩くようになった。
正確には、出ているつもりはない。寝ているはずだった。だが、朝になると、玄関の靴に夜露と泥が乾いてこびりついている。シャツの背中が汗で湿っている。歩いた覚えはない。だが、歩いてきたことは間違いがなかった。
それだけではなかった。
ある朝、玄関を開けると、戸口の前に小さな白い包みが置かれていた。中には、米と、塩と、まだ温い赤飯。
別の朝には、半紙に包んだ小判型の餅。
また別の朝には、青菜と、酒の徳利が一本。
近所の誰かが置いていく。誰が置いているのかは分からない。樹は何度か朝早く起きて、玄関先を見張ったことがあった。だが、戸を開けるたびに、もう、包みは置かれていた。誰も見たことがない。それでも、毎朝、何かが置かれている。
近所の人々は、樹に目を合わせなくなった。
道で会っても、頭だけ深く下げて、すぐに通り過ぎる。子供たちは樹を見るとすぐに家に駆け込んだ。コンビニの店員は、レジに立つときだけは普通だったが、釣り銭を樹の手のひらに直接置くのを避けるようになった。釣銭皿に銭を置いて、樹が取るのを待ってから、皿を引いていた。
夜の歩行は止まらなかった。
東京の打ち合わせの日、樹は新幹線で都内へ出た。東京で一泊することにして、ホテルを取った。一晩、町から離れれば止まるはずだった。
その晩、樹はホテルの部屋で寝た。
朝、起きると、靴の裏が泥だらけになっていた。
シャツの背中が汗で冷たくなっていた。
窓の外は都心のビルだった。
だが、靴の泥は、間違いなく弓削町のあの商店街の、あの通りの土だった。
樹は分かってしまった。
体がどこにあろうと、お役目は続く。
弓削町に戻った夜、樹は仏壇の前に座り、祖母の遺影に手を合わせた。蝋燭は消した。
二十三時を過ぎた頃、樹の足が、勝手に立ち上がった。
玄関の戸が、ひとりでに開いた。
樹は、自分の意志ではなく、自分の足が、家を出ていくのを見ていた。商店街の方向へ、ゆっくりと、確かな足取りで、歩いていく。
樹の足は、町を一周する。
その背後を、見えない神輿がついてくる。担ぎ手のいない神輿が、樹の歩く速さに合わせて、ちりん、ちりん、と鈴を鳴らしている。
樹はもう振り返らない。
振り返れば、目が合うものがあると、知っているからだ。
来年の十六日にも、樹は歩いている。
再来年も、その先も、誰かが神輿の前を横切る日まで、樹は、お先を歩き続ける。
夜の弓削町を、樹の影がひとり、先を渡り続ける。
その後ろに、空の神輿が、ちりん、ちりん、と鈴を鳴らして、ついてくる。
お先様(完)




