跡先
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、垣根のそばに
裏戸郷の家に越してまず気づいたのは、垣根のそばに祠があることだった。
垣根は祖父が生きていた頃から朽ちかけていた。家を引き取った拓海が業者を呼ぶことになっていた。垣根の南端、ちょうど田に面したあたりに、苔の生した石組がある。膝より少し低いほどの、屋根のついた小さな祠だった。
祠なのだろう。
そう、おそらくは祠だ。けれども何を祀っているのか、はっきりしない。中には板も札も入っていなかった。ただ、平たい黒い石がひとつ、底に据えてある。それだけだった。
「これ、おじいさんが置いたんですかね」
業者の若い男が屈み込み、屋根の苔を指でなぞっていた。
「いや、もっと前からだと思います。父も知らないと言ってました」
祖父はこの家で生まれ、この家で死んだ。その祖父が「もっと前から」と言うのだから、相当に古い。古いというのは、わからないというのと、ほぼ同じだ。
「垣根を取りかえる時、邪魔ですよね、ここ」
若い男は祠を見ながら言った。
「移してもいいでしょうか」
拓海は迷った。迷ったが、それは決断するための迷いではなく、決断のかたちを整えるための迷いだった。すでに答えはあった。
「お願いします」
塞ノ神でも道祖神でもない、無銘の祠だ。家のものでもない。土地の所有者である自分が許せば、業者は遠慮なく動かす。それでいい。
妻の美穂は縁側で蜜柑を剥いていた。庭の様子に視線をやりはしたが、口を出すことはなかった。
夕方、隣家の藤野が回覧板を持ってきた。
七十をいくつか過ぎた、痩せた老人だった。
「越してきたばっかりで悪いね。ところで」
回覧板を渡しながら、藤野は垣根のほうへ目をやった。視線が止まったのは、ちょうど祠の屋根が見えるあたりだった。
「あれ、動かさん方がええよ」
拓海は微かに笑った。引っ越しの挨拶の流れで出る、世間話の類だと思ったからだ。
「迷信ですか」
「そら、迷信よ」
藤野はあっさり言った。
「迷信やけど、動かさん方がええ」
それだけだった。回覧板を渡して、藤野は帰っていった。
夜、布団に入ってから拓海は藤野の声を思い出した。迷信よ、と言いきったあとで、動かさん方がええ、と言った。あれは、信じていない者の声ではなかった。
それで、何か。
それで、何か、と拓海は思った。
二、ずらす
朝、業者が三人来た。
撤去するわけではない。垣根を取り直すあいだ、数メートルだけ南へずらす。それから戻す。それでいいと拓海は説明した。
祠は思っていたより重かった。屋根と本体は別々の石組で、若い男ふたりが踏ん張ってようやく持ち上がる程度の重さがあった。下には湿った黒い土があった。土はぎゅっと固まっていて、長いあいだそこに何かが乗っていたことが、跡の輪郭でわかった。
「ずいぶん、しっかり据わってますね」
業者の親方が、汗を拭いながら言った。
祠は新しい位置に置きなおされた。数メートル南、田のあぜの手前、垣根があった線からは少し外れる位置だった。仮置きだから、と親方は言った。
「垣根が出来たら、また戻しますんで」
拓海はうなずいた。
親方たちが帰ったあと、拓海は元の位置に立ってみた。
祠があった場所には、長方形に黒くなった土が残っていた。深く凹んでいるわけではない。ただ、周囲の地面と色がちがう。湿り気が違う。雨が降って、しばらくすれば見えなくなる程度の、ささやかな跡だった。
ただ、空いている。
拓海はそう感じた。
祠は数メートル離れたところにある。だから、ここはもう空いている。
当然の話だった。物を移したのだから、移したあとには空白ができる。それを「空いている」と感じるのは、知覚として正しい。けれども別の知覚もあった。
空いている、というより。
空いたことが、向こうにわかっている。
言葉にすると馬鹿げていた。
向こうというのが何を指しているのか、自分でもわからなかった。土地の神、というほどはっきりしたものではない。けれども、空いたということが何かに観測されている気配があった。
午後、藤野が垣根のあたりに立っていた。
拓海が出ていくと、藤野は祠の新しい位置に目をやり、それから元の位置に目をやった。元の位置に長く、目を留めた。
「もう、ずらしたのかい」
「すみません、勝手に」
「いやいや。あんたの土地や」
藤野は咳をした。痰のからんだ、短い咳だった。
「あんたの土地やけど」
咳のあと、藤野は元の位置の黒い長方形を見ながら言った。
「あすこ、もう、戻せんかもしれんよ」
拓海は何かを問おうとした。けれども藤野はすでに背を向けていた。背中の小ささが、引き止めるのを躊躇わせた。
夜、美穂が玄関で蜘蛛を見つけた。大きな、足の長い蜘蛛だった。
「縁起がいいんでしょう、朝の蜘蛛は」
「夜だよ、今」
美穂は笑った。
蜘蛛は柱を伝って奥へ消えた。
三、空いた所
最初の異変は、足音だった。
畳の上を、誰かが歩いてくる音。けれども室内に拓海と美穂以外はいない。美穂は台所で食器を洗っていて、その水音と、畳の足音は、別の場所から鳴っていた。
聞こえるというほどはっきりしてはいなかった。ただ、畳が踏まれて繊維が擦れる、あの密やかな音だった。
美穂に訊いた。
「いま、何か、踏んだ?」
「踏んでないよ」
美穂は手を止めずに答えた。気にも留めていない様子だった。
拓海は布団に入る前、廊下を一巡した。何もなかった。畳の上に塵すらなかった。
夜中にもう一度、同じ音で目が覚めた。今度はもっと近かった。隣で眠る美穂の寝息のすぐ向こう、襖の手前あたりで畳が擦れていた。三歩ほどの間隔でゆっくり、家の奥のほうへ。
拓海は身体を動かさなかった。
動かさないままで、その足音が遠ざかるのを聞いた。遠ざかる先には、垣根のあるほうの庭があった。
翌朝、垣根の南側に出てみた。
祠は仮の位置で何ごともなく、苔を生したまま据わっていた。屋根の上に蜘蛛の巣がかかっていた。一晩で張られた、新しい蜘蛛の巣だった。
元の位置の、黒い長方形のほうへ拓海は近づいた。
何もない。
何もない、はずだった。
けれども近づいた瞬間、拓海はそこに足を踏み入れることを躊躇した。理由はわからなかった。理由はわからないのに、明確に、ここには立ってはいけないという感覚があった。
端に立った。
端から、長方形の内側を覗き込んだ。土の色は、昨日よりわずかに深く沈んでいるように見えた。雨は降っていない。降っていないのに湿っていた。
なにかがいる。
そう思った。
祠を移した瞬間に空いた場所。その「空き」に別のものが入り込んでいる気配があった。祠は神を祀る器ではなかった。祠そのものではなく、祠が据えられていた「位置」が神の座だった。座が空いて、別のものが座った。
拓海は後ろへ下がった。
家のほうから美穂の声が呼んだ。朝食の用意ができたと。普通の朝の声だった。普通の声が、急にひどく遠かった。
「いま行く」
そう返してから、拓海はもう一度だけ長方形のほうを振り返った。
何も見えなかった。
何も見えなかったけれども、こちらを見ているものが、いた。
日中、拓海は仕事のためにパソコンに向かったが、何度も意識が逸れた。窓の外、垣根のあるあたりへ意識が引かれた。
夕方、美穂が頭痛を訴えた。
「引っ越し疲れだよ」
拓海はそう言った。
美穂はうなずいて、寝室で横になった。
拓海は布団のそばで美穂を見ていた。妻の額に汗が浮いていた。秋のはじめで、家の中は涼しかった。涼しいのに、汗をかいていた。
タオルを当ててやろうとして、拓海はためらった。
ためらった理由がわからなかった。けれども手が、美穂の額に届く寸前で止まった。届けることが、なにかを家の中に通すことになる気がした。
拓海は静かに手を引いて、タオルを枕元に置いた。
四、戻せない
翌日、垣根の工事が終わった。
新しい垣根は綺麗で、よそよそしく、家を引き立てるはずだった。けれども拓海の目には、家が一段、外の世界から遠くなったように見えた。
「では祠、戻しますか」
親方が言った。
拓海は祠の前に立った。
若い男ふたりが祠を持ち上げた。仮置きの位置から、元の位置のほうへ運んだ。長方形の凹みの上で、屋根を合わせるように、慎重に据えなおした。
親方が手のひらで屋根を押して、座りを確かめた。
「あれ」
親方が言った。
「平らじゃないですね」
祠は、わずかに傾いていた。
平らな土地のはずだった。先日まで据わっていた長方形と、同じ位置、同じ向きだった。それなのに、据えなおすと何かが下に挟まっているように、屋根の角度が斜めになる。
若い男が祠を持ち上げ、土を均しなおした。土はもともと平らだった。平らなまま、もう一度祠を据えた。
傾いた。
「妙だな」
親方が唸った。
何度据え直しても、祠は傾いた。最後に親方は首をかしげながら、それでもまあ大体、と言って手を引いた。垣根の工事代金を受け取って、業者は帰った。
夜、拓海はひとりで懐中電灯を持ち、垣根の南へ出た。
祠を覗き込んだ。
わずかに傾いている。
それから、暗がりの中で拓海は気づいた。
位置が、ちがう。
昼間、業者が据えなおしたあのとき、確かにもとの黒い長方形の凹みに合わせたはずだった。けれども、いまの祠は、長方形のほんの少し外側にあった。指一本ぶんか、二本ぶんか、それだけずれていた。
ずれは業者の不手際ではない。拓海は据えなおすところを見ていた。確かに合わせた。合わせて、置いた。
押し出されている。
そう感じた。
祠は、もとの位置に戻ろうとして戻れずにいる。もとの位置には、すでに、何か別のものがいて祠を受け入れない。だから、わずかに外へ押し出される。
拓海は祠を、両手で持ち上げようとした。
動かなかった。
若い男ふたりが息を切らせて運んだものだった。一人では当然、動かない。拓海一人が頑張ったところで、押しても引いてもまったくびくともしない。仮置きの場所からここへ運ばれたあとの祠は、もう人が動かせるものではないようだった。
拓海は両手を地面に着いて、ズレた祠の下から覗く、黒い土のほうへ手を伸ばした。
指先が、何かに触れた。
土ではなかった。土でもなく、空気でもなく、何か、薄く湿った、滑らかなものだった。
反射的に拓海は手を引いた。
それから息を整えて、もう一度同じ位置に手を伸ばした。
何もなかった。
土だった。冷たい、湿った、ふつうの土だった。
五、跡先
家に戻ったあと、拓海は美穂を起こした。
「ちょっと、出かけないか」
深夜だった。美穂は不機嫌そうに目を覚ました。
「どこへ」
「実家。少しのあいだだけ」
美穂は黙って起き上がり、そのまま支度を始めた。理由を訊かなかった。訊かれないことが、拓海にはありがたかった。
車に荷物を詰めて深夜の集落を出るとき、垣根のあたりに誰かが立っている気がした。確かめなかった。確かめずに、拓海はアクセルを踏んだ。
親の家に転がり込んで、一週間。
美穂の頭痛はすこし軽くなった。けれども拓海は毎日、家のほうが気になった。気になるというより、家のほうから引かれている感覚があった。
電話で藤野に確かめた。
「あの祠、どうなってますか」
「あんたの土地のもんやろ」
藤野の声は、いつもどおりの咳混じりだった。
「あすこにあるよ。前と、おんなじとこに」
拓海は黙った。前と、おんなじとこ。それは、業者がはじめに据えた長方形の上ということなのか。それとも、わずかにずれていたあの夜の位置なのか。
「いっぺん、戻ってきな」
藤野は言った。
「戻ってきて、住み直しな。なに、なれるよ」
電話のあと、拓海は藤野のその言葉の意味を長く考えた。
なれる。
慣れるのか、馴れるのか。神に馴致される、あの「馴れる」なのか。
戻れば、祠はあるだろう。前と同じ位置にわずかに傾いて、あるいは傾かずに据わっているだろう。長方形の上には、もう別のものはいないかもしれない。あるいは別のものは、もうそこから家の中まで及んできているかもしれない。
拓海は、まだ決めかねている。
祖父の家には戻らなければならない。仕事の郵便物はあちらに届く。けれども戻れば、藤野の言う「なれる」が始まる。
なれて、どうなるんですか。
そう、藤野に訊くことはできなかった。
訊かなかったのは、答えがすでにわかっているからだ。
祠を動かしたから、座が空いた。空いた座には、別のものが入った。祠は元の位置に戻れないまま、わずかに外へずれている。家もまた、同じだ。家は、もとの「家」ではない。何かに位置を奪われた、跡先の家だ。
跡先の家に戻って、住み直す。
そのとき、住むのは、誰なのか。
拓海はまだ、車のキーを握ったまま、決めかねている。
跡先(完)




