お山が来る
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、留守の家
啓介が祖父の家に着いたのは、平日の昼下がりだった。
最寄り駅からバスに揺られて四十分。終点で降り、舗装の途切れた坂を三十分ほど登ると、山の中腹に古い木造の家が現れる。祖父は二週間前にここで息を引き取った。九十四だった。葬儀は本家の親戚に任せ、啓介は東京から仕事の合間を縫って遅れて来た。家の整理を引き受けるのは孫である啓介の役目だと、親族の集まりで決まっていた。
引き戸を開けると、線香と古い畳の匂いがした。誰もいない家は、人が住んでいたときよりも生活の気配が濃い。流しに伏せた湯呑、卓袱台の上の老眼鏡、壁の日めくりは祖父が亡くなった日のままだった。台所の窓を開けると、湿った木の匂いと、谷向こうの稲の匂いがいっしょに入ってきた。
縁側に出ると、目の前の山がいっぺんに視界を埋めた。
子供のころから「お山」と呼んできた山だ。麓の家からだと、稜線の落ち込みのあたりに祠のような形の窪みがあって、祖父はそれを指して、「あすこは入ってはならん」と言った。理由は教えてくれなかった。盆暮れに祖父の家に来るたびに、啓介は縁側からその窪みを眺めた。窪みのなかは昼でも暗かった。
縁側の板の上に、古い丸盆が置かれていた。
漆の剥げた、両手で持つくらいの大きさの盆。その中央に拳ほどの黒い石がひとつ。まわりに塩の白い粒が円を描くように散らされていて、その傍らに、すでに茶色く乾いた椿の葉が一枚置かれていた。盆の隅には新聞紙でくるんだ握り飯が置かれている。半月は前のものらしく、紙の隙間から黴の青がのぞいていた。
祖父は熱心な信心家ではなかった。仏壇は別の部屋にある。神棚もちゃんとした位置に据えてある。それなのに縁側のこんなところに、こんな乱雑なものを並べていた。供えにしては不格好で、忘れ物にしては手間がかかっていた。
啓介は盆の上のものを片付けた。握り飯は新聞紙ごと台所のゴミ袋へ。塩は布巾で掃き、葉は庭へ捨てた。石だけは捨てるわけにもいかず、書斎の机の引き出しに仕舞った。引き出しを閉めるとき、石が乾いた音をたてて板に当たった。鉱物というより、骨に近い音だった。
その夜、稜線のあたりで木が軋むような低い音がした。風が吹いていない夜だった。啓介はしばらく耳を澄ましてから、布団をかぶり直して目を閉じた。
二、声と倒木
朝、台所の窓を開けると、稜線のいちばん高いところに杉の大木が一本、横倒しになっていた。
倒木の向きが、こちらを向いていた。
啓介はしばらくその木を眺めていた。前夜、風はなかった。けれど夜中、何かが折れる音はたしかにした。山仕事の人が伐ったにしては時間が早すぎる。雪の重みでもない。倒れた根元の土が、まだ朝日に湿った色を見せていた。
朝食を済ませて庭に出ていると、坂の下から自転車を引いた老人が上がってきた。隣家の里おじいさんだ。子供のころに何度か祖父の家で顔を合わせた覚えがある。前歯が一本欠けて、笑うと隙間風のような音がする人だった。
「啓介か。よう来た」
里おじいさんはそう言って、視線を縁側の盆に動かした。そこで急に止まった。盆には何も載っていない。漆の凹みだけが、わずかな塩の名残を残していた。
「啓ちゃん」里おじいさんの声が一段下がった。「あれは、誰が片付けた」
「俺です。汚れていたから」
里おじいさんは数秒、口を結んでいた。それから自転車を一歩下がらせた。前歯の隙間からは、もう笑い声は出ていなかった。
「あれは……あれは、祖父さんが毎朝続けてた供えだ」
「神棚は別にあるのに」
「ありゃ神棚に上げるもんじゃない」里おじいさんはもう一歩下がった。「本家のもんが養うんだ。よそ者が触っちゃいけねえ」
啓介は反論しようとして、止めた。よそ者という言葉が孫である自分に向けて使われたのが妙に響いた。
「養うって何をです」
里おじいさんは答えなかった。「啓ちゃん、夕方までに戻しとけ」とだけ言って、自転車を引いて坂を下りていった。途中で一度、振り返って山の稜線を仰いだ。仰いだまましばらく止まって、それから足を急がせた。
書斎で祖父の遺品を確かめると、漆を革に塗り込んだ古い手帳が出てきた。表紙に墨で「山控え」とある。中ほどの頁を開くと、墨書のあいだに、紙の継ぎ目のあるところへ稜線の図が描かれていた。山の形を写した略図だ。山頂のすこし下、ちょうど祠の窪みのあたりに、丸い印がついていて、その横に細い字で「磐座」とだけ記されていた。
啓介は午後、用事の郵便を出すために集落の郵便局まで歩いた。三キロほどの道だ。途中、すれ違った村人がふたり、いずれも啓介の顔を見たあと、続けて家の方を見て、それから足を早めた。帰り道、坂を上りながら山を仰ぐと、山の形が朝より少し近く見えた。気のせいだろうと思った。距離を測るものは何もない。
その夜、稜線のあたりでまた木の軋む音がした。今度は二度、それから三度、続けて聞こえた。啓介は布団のなかで天井を見ていた。天井の節目が、暗がりのなかで眼球に似ていた。
朝、稜線の倒木は三本に増えていた。三本ともこちらを向いて寝ていた。
三、戻る
啓介は祖父の机を引き、底の浅い引き出しから革張りの古い帳面を見つけた。手帳よりもさらに古い、和紙を綴じた帳面で、字は墨筆だった。曾祖父の手記かもしれない。表紙の隅に虫食いの穴があって、なかから乾いた木屑がこぼれた。
頁をめくると、最初のところにこう書かれていた。
「石はお山にあるべきもの。だが、戻すことはかなわぬ。お山から下した石を、戻したことのある者はおらん。よって、家にて養う。塩、米、椿の葉。日に一度、欠かさず替えること」
下に小さな付記がある。「養いを絶ったとき、お山が来る」
啓介は息を浅くした。次の頁にも、同じ字でこう書かれていた。
「養いは引き継がねばならぬ。代の絶える前に、子に教えること」
祖父はそれを、教えていなかった。
啓介は帳面を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。子供のころ、盆に祖父の家へ来るたびに、縁側の隅に塩が撒かれていた覚えがある。当時は、虫除けか何かだろうと思っていた。塩のまわりに白い葉のようなものがあった気もする。記憶のなかでそれはぼやけて輪郭がなく、ぼやけたままに今日まで残っていた。あれを毎朝替えていたのが祖父だった。一日も欠かさず替えていたのだと、今になって理解できた。
啓介は引き出しを開けた。石は仕舞ったところにある。手のひらに乗せてみる。重い。昨日よりもたしかに重い気がした。手のひらで石を計ろうとして、計りようがないことに気づいた。比べる昨日の感触が、もう啓介の手にない。
机の上に石を置き、いったん部屋を出て、また戻った。戻って手のひらに乗せた。やはり重かった。けれども、それが本当に重くなったのか、自分の手の感覚が変わったのか、啓介には区別がつかなかった。
台所の窓の外に目をやった。
山が、近い。
朝に見たときよりも、稜線の縁が窓枠に近づいていた。距離を間違えるはずがない。子供のころから何度も眺めた山だ。窓枠の右端のすぐ向こうに、いつもは杉の梢が三段くらいあって、その上に空が広がっていた。空が、ない。稜線が、空のあるべきところまで上がってきている。
啓介は窓を閉めた。閉めたあとで、それが何の役にも立たないことに気がついた。
石を上着のポケットに入れて、家を出た。
四、戻せぬ石
裏の杉林を抜けて、山道に出る。子供のころに祖父について何度か登ったことのある道だ。途中に分かれ道が一箇所だけある。右が祠の窪みへの道で、左は薪を切る作業場へ抜ける。
啓介は右へ進んだ。すこし行くと、また分かれ道があった。
そんなものはなかったはずだった。
戸惑いながら、稜線が見える方を選ぶ。歩く。また分かれ道。今度は三つに割れている。どれも稜線の方を向いている。地面に踏み跡はあるが、新しいものではない。けれども枯れ葉のあいだに、いま誰かが歩いたばかりのような筋目が、点々と続いていた。
啓介は中央の道を選んだ。歩いた。さらに分かれ道があった。今度は道の下から、ごく細い水の音が聞こえてくる。沢の音だった。子供のころ、祖父について登ったときには、この高さに沢はなかった。沢があるとすれば、もっとずっと下のはずだった。
引き返そうとした。来た道を戻る。後ろを振り返ると、稜線がすぐそこにあった。
家が、見えない。
頭上の梢のすきまから空が見える。空のかたちが変だった。雲が動いていない。風がないわけではない、頬には風があたっている。風があるのに雲が動かない。
啓介は石を強く握って、無理やり下りた。下りるあいだ、足元の道はかたちを変えなかった。下りだけは家に通じていた。家の屋根が見えてきたとき、啓介は走った。
家に戻り、庭の隅で枯れ枝を集めて火を熾した。炎のなかに石を置いた。火は鈍く照った。覗き込むと、石は燠の上に乗っていて、火は石のまわりだけ消えていた。輪のかたちに、黒い穴があいたように消えていた。
啓介は石を取り出した。冷たかった。火のなかにあったとは思えない冷たさだった。
裏の井戸に持っていき、釣瓶を外して、石を落とした。重い水音がして、波紋がしばらく揺れた。水面の暗さがゆっくり戻り、底はもう見えなかった。井戸のへりに手をかけたまま、啓介は底のあたりを見下ろした。井戸は祖父が物心ついた前からあるものだと聞いたことがある。それ以前は誰が掘ったかも知れない。底に何があるのか、たぶん祖父も知らなかった。
夜、外で物音がした。布団のなかで耳を澄ますと、井戸の方からではなく、縁側の方から乾いた音がことりと聞こえた。続けて、もう一度。塩を撒くような、紙をひろげるような音が、しばらく続いた。
朝、縁側に出ると、漆の盆が出ていた。盆の中央に石が乗っていた。塩が円を描いている。椿の葉が一枚、まだ青いままで添えられていた。盆の隅に、新聞紙にくるまれた握り飯。
啓介は新聞紙の日付を見た。
明日の日付だった。
五、養う
啓介は台所に戻った。米を研ぎ、湯気の立つ炊飯器の蓋を見つめながら、しばらく動かなかった。
戻すことはかなわぬ、と手記にあった。
捨てることもかなわぬ、と石が言っていた。
養うことだけが、残っていた。
炊き上がった米を、ちいさく握った。指の腹に湯気が立つ。塩が一粒、米のあいだに沈んでいくのを、目で追った。台所の引き出しから塩をひとつまみ取った。庭に出て、椿の木から葉を一枚もいだ。葉の付け根がぷつ、と切れる音が、やけに大きく聞こえた気がした。用意した新しいものを、盆の上の石の周りに並べた。
並べ終えて、稜線を見上げた。
稜線はその日、それ以上、近づかなかった。
啓介は東京の職場に電話を入れた。家族の整理にもうしばらくかかると言った。具体的な日数を訊かれて、答えられなかった。事情はうまく説明できなかった。電話を切ったあとで、自分が嘘をついたわけではないことに気がついた。
次の朝、また米を握り、塩をふり、葉を添えた。稜線は昨日と同じだった。
その次の朝も、同じだった。
ただ、家の窓から見える山の向こうに、もうひとつ別の山があったはずだった。祖母の実家のある、遠い山だ。啓介は子供のころ、祖父の縁側からその山影をかすかに見た覚えがある。子供のころに、祖父はその山影を指して、「あれは別のお山だ」と言った。それだけ覚えていた。
その山影が、いま、見えない。
養いを欠かさなければ、お山は今日のところは止まっている。けれども、止まっているだけだった。退いては、いなかった。窓枠のなかで、稜線は啓介が来た日の位置よりも、たしかに高い。
啓介は明日の朝も米を炊くことを考える。明後日も考えている。
手記にあった、養いは引き継がねばならぬ、という一文を考えないようにしている。啓介には妻も子もいない。父はすでに亡くなっていた。代の絶える前に教えること、と手記には書いてあったが、教える相手が啓介にはいなかった。
それでも今朝のところは、稜線は同じだった。
明日のところは、わからない。
啓介はそれでも米を炊く。湯気の上がる釜のなかの白い粒を見つめている。指の腹がまだ熱い。
いつか養えなくなる日がくることを、考えないようにしている。
お山が来る(完)




