お戻りなさい
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、終電
加賀美が会社のロッカーの灯りを落としたのは、二十三時を回ったところだった。今夜も最終に間に合わなかった。エレベーターのなかで、社用のスマホは圏外を示している。ビルの地下から地上に出るまで、電波は復帰しない。慣れたものだ。
駅の階段を上がるころには、口のなかに鉄の味がにじんでいた。残業のあとに必ず出る、薄い金物のような味。電光掲示板は、加賀美が見たことのない行き先を映していた。「下笠井」と平仮名のふりがなが小さく振ってある。各駅停車。あと二分。
近くの駅員室には、灯りが点いていない。ほかの路線はもう動いていない。タクシーを呼ぶ気力もない。とりあえず乗ってしまえばいいと、階段を駆け上がる。ホームには加賀美のほかに人はいない。けれど、停まった車内には先客が、二、三人見える。みな下を向き、顔を上げない。手元にスマホもなく、開いた本も持っていない。ただ膝を揃えて、車両の床を見ている。
入り口で迷ったが、加賀美は乗り込んだ。ドアが閉まり、車両が動き出すと、窓の向こうの黒さに気づく。トンネルでもないのに、街の灯りが見えない。何も見えない。コンビニも、看板も、自販機の冷たい光もない。
スマホは圏外のまま。画面上部の小さな印が、ぽつんと孤立して光っている。指を画面に滑らせても、地図のアプリは現在地を見失ったまま、青い丸を弱く点滅させている。
車窓に映る自分の像を、加賀美はふと見た。像のなかの加賀美は、目を閉じていた。あわてて目を見開いたが、像の目は閉じたままだ。瞼の縁が、わずかに上下している。寝息にも似た動き。加賀美は瞬きをしないようにして、像を見つめ続けた。やがて目の奥が痛くなり、視線を逸らした。
息が浅くなる。指先が冷たい。視線を逸らした先のつり革が、無人のはずなのに、規則正しくゆっくりと揺れていた。隣のつり革は止まっている。揺れているのはひとつだけ。誰かが摑んで、ゆっくりと放したばかり、というような揺れ方だった。
「次は、しもかさい、しもかさい」
アナウンスは、妙に幼い少女のような声色だった。電車が減速する。ホームの看板に、墨で書かれたような文字でやはり「下笠井」とある。加賀美が立ち上がっても、ほかの乗客は誰も動かなかった。座ったまま、依然として床を見つめている。
二、向こうのほうの家
ドアが開く。外気はぬるく、湿った木と古い畳の匂いがした。降りた瞬間、背後でドアが閉まり、電車は音もなく走り去る。あとには小さな木造のホームと、橙色の裸電球がひとつ。それだけ。
改札はなかった。柵の途切れた先に、土の道がのびている。両側に低い瓦屋根の家並み。どの家にも、玄関灯がほのかに点いている気がする。けれど、人影はない。テレビの音も、犬の声も、自販機のうなりも、何も聞こえない。
歩いていくと、辻の角に、紺の浴衣を着た小柄な老婆が立っていた。年のころは祖母くらいだろうか。加賀美が近づくと、老婆は深く頭を下げた。
「お戻りなさい、ともちゃん」
その呼び名は、加賀美が幼いころに、母方の祖母が使っていたものだ。祖母は十五年前に亡くなっている。それ以来、誰にも呼ばれていない名前だった。なのに、老婆の声には、迷いの気配がなかった。声の高さも、節回しも、近所のひとが孫を呼びとめるときの、ごく自然な調子だった。
老婆はゆっくりと先に立って歩き出す。加賀美は、なぜか自然にそのあとをついていった。足が勝手に動いている気がする。柿の木の見える家の前で、老婆は立ち止まる。
その家を、加賀美は知っていた。十五年前まで、夏休みに泊まりに行っていた祖母の家だ。祖母が亡くなり、家は取り壊されて、いまは更地になっているはずだった。けれど、目の前にはたしかにある。古びた門扉、土壁、軒の風鈴。風はないのに、風鈴は小さく鳴っている。
「お腹空いたでしょう。上がってね」
老婆に促されて靴を脱ぐ。框に置かれていた草履が、子供の足の大きさだった。並べ方も、加賀美が幼いころに、いつも祖母に直されていた、踵を内側に向ける置き方をしている。
居間の卓袱台にはコタツ布団がかけられ、その上に、加賀美の名前が書かれた小学生の宿題のノートが、開かれて置いてあった。算数の問題が途中まで解いてある。最後の一問だけが、空欄のままだ。鉛筆は削られて、ノートのうえに置かれている。
加賀美は、老婆の顔をもう一度見つめる。祖母ではない。けれど、見覚えのある顔だ。隣の家に住んでいた、よくお菓子をくれた、たしか名前は——思い出せない。
そのおばあさんも、ずいぶん前に亡くなっていたはずだった。
老婆は奥に消え、ほどなく、薄い湯気の立った湯飲みを持って戻ってくる。卓袱台に置く。湯気はまっすぐには立ちのぼらず、空気のなかで、ためらうように横へ流れた。
三、ぼくのかさ
目を覚ますと、自分の部屋の天井だった。アラームが、いつもの時刻を告げている。加賀美はしばらく動けなかった。
夢。長い、おかしな夢を見た。そういうことにしようとした。けれど、布団から起き上がろうとしたとき、玄関のほうから、なにかが立てかけられる小さな音がした。気のせいだと思おうとした。
玄関に行くと、ドアの内側に、子供用の傘が一本、立てかけてあった。透明なビニール傘で、骨に巻きついたテープに、油性ペンで「かがみ・ともひこ・三年二組」と書いてある。加賀美の字だった。小学三年生のころの字だ。
その傘は、たしか中学に上がったころ、塾の帰りに電車に置き忘れたものだった。十数年前に、もう、ないはずのもの。
加賀美は傘を手に取って、しばらく立ち尽くした。触った指の感触に、まったく違和感がなかった。ビニールの匂いも、骨の冷たさも、子供のころに何度も握ったあの感触のままだった。テープのうえに走らせた油性ペンの跡は、まだうっすらと盛りあがっていて、爪で押すとへこむ。
会社に行かなくては、と思い直して家を出る。傘は、玄関の内側に置いたまま出た。
駅のホームで、加賀美は不意に違和感を覚えた。電光掲示板の駅名の列。普段通りの駅名のあいだに、ひとつ、見覚えのない名前が挟まっている気がする。
「次は、◯◯」「その次は、しもかさい」「その次は、◯◯」
しもかさい——下笠井。
スマホで沿線図を出す。指でなぞる。あるはずのない駅が、いつもの二駅のあいだに、たしかに記されている。地図上のその表示は、いつから増えていたのだろう。気がついていなかっただけだろうか。アプリのバージョンを確認しても、更新の履歴に該当する日付はない。
電車が滑り込んでくる。乗り込み、つり革をつかむ。車内のアナウンスは、いつもどおり、しもかさいの名前を当たり前のように読み上げた。加賀美の隣に立つサラリーマンも、向かいの席の学生も、誰ひとり、その駅名に反応しない。聞こえていないわけではない。聞いて、それで当たり前なのだ。
ホームを見渡すと、ほかの乗客の数人と目が合った。誰もが、ほんの一瞬、加賀美に視線を留めて、すぐに逸らした。なにかを確かめ、納得して、興味を失った——というふうな視線だった。
なにかを間違えている気がする。加賀美の体が、こちら側にあること自体が、間違えている気がする。
四、火を焚く
その晩、加賀美はベランダに古い七輪を引っぱり出した。ものを焼くと向こうへの道が閉じると、昔、祖母が話していたのを思い出していた。何の話だったのかは、もう覚えていない。けれど、祖母は確かに、煙の話をしていた。煙が真っ直ぐに天に昇るうちは、家の入り口は、ちゃんと閉まっているのだと。
子供用の傘を、まずはハサミで切り刻んだ。骨を折り、ビニールを丸めて、皿のうえで火をつける。ビニールはちりちりと音を立て、黒い煙を上げた。
煙は、上にのぼっていかなかった。傘の残骸の上に、もやのように低く溜まったまま、動かない。風はあるのに、煙だけが空気のなかでうずくまっている。火が消えても、煙は薄くなりつつ、その場にとどまり続けた。やがて低いまま、ベランダのほうへ流れていく。手すりの向こうへ、闇のなかへ。下に降りていく。
その夜、加賀美は電車に乗らないことを決めた。明日は歩いて出社する。何時間かかってもいい。電車に乗らなければ、線路の向こうへは行かない。あの老婆のいるほうへは、行かないですむ。
朝になり、スーツのまま、いつも使う駅とは反対の方角へ歩き出した。十分も歩かないうちに、見覚えのない路地にぶつかった。両側にせまい瓦屋根の家並み。突き当たりに、小さな木造のホームが見える。橙色の裸電球。電光掲示板のうえに、「下笠井」とある。
加賀美は引き返した。別の道を選ぶ。十分後、同じ駅前に出た。三度目に向きを変えても、同じだった。四度目に大通りに出ようとしたとき、目のまえのコンビニの自動ドアの奥に、木造のホームの段差が透けて見えた。店員はレジに立ったまま、加賀美のほうを見ない。
道はもう、向こうにつながっている気がする。
歩道のベンチに座り込んだ加賀美のとなりに、誰の足音もなく、紺の浴衣の老婆が腰かけていた。膝のうえに、漆の弁当箱を置く。蓋を開けると、白い飯と煮物。湯気がしずかに立っている。煙とは違って、湯気はちゃんと、まっすぐ天に向かって昇っていった。
「冷めるまえに、ね」
加賀美は弁当箱を見つめた。お腹は空いていない。喉も渇いていない。食べなくても、もう、平気な気がする。空腹も、渇きも、なにかが、自分のなかから少しずつ抜けていっている。
五、お戻りなさい
何日経ったのか、加賀美にはわからなくなっていた。アパートの自分の部屋は、いつもどおりに見える。けれど、机のうえの大学の卒業写真を見ると、加賀美の隣で笑っているはずの友人の顔が、もう思い出せなくなっていた。写真のなかの自分の顔も、どこか、見慣れた他人の顔のように見える。
冷蔵庫を開けても、何も腐っていない。買った覚えのない卵が、新しいまま並んでいる。歯ブラシも、いつのまにか替えられているような気がする。郵便受けには、ダイレクトメールが一通もない。電気の検針票も、何ヶ月分か、抜け落ちているように思える。それでも電灯は点くし、水道も出る。誰かが、そういうふうに整えてくれている気がする。
朝、加賀美は何も持たずに家を出る。鍵もかけなかった。駅まで歩く道で、紺の浴衣の老婆とすれ違う。老婆は会釈をしただけで、立ち止まらなかった。表情の柔らかさだけが、しずかに伝わってくる。
ホームに上がる。電車が来る。乗る。座る。窓の外は、もう夜のように真っ暗だった。
「次は、しもかさい、しもかさい」
電車が止まる。ドアが開く。加賀美は降りる。
ホームには、あの老婆が立っていた。深々と頭を下げる。
「お戻りなさい、ともちゃん」
加賀美は会釈を返し、老婆のあとに従って歩く。柿の木の家まで、もう道に迷うことはない。門扉を開け、靴を脱ぐ。框に置かれた子供の草履に、足を入れる。なぜか、ぴったりとあった。
居間に上がる。コタツ布団の下に、足を差し込む。冬でもないのに、コタツのなかは、ちょうどよく温かい。卓袱台のうえの宿題のノートは、いつかの算数の、最後の一問のところで止まっている。鉛筆が、ちゃんと削られて置かれている。
家のどこかから、誰かの呼ぶ声が聞こえている気がする。子供の声のような気もするし、祖母の声のような気もする。けれど、加賀美はもう、振り向かない。
加賀美は鉛筆を取り、ノートを引き寄せる。鉛筆の重さが、子供の手にちょうどよい重さに感じられる。
東京のアパートのほうでは、いま、ドアが開かれているところだ。新しく入る誰かが、玄関に立てかけられた子供の傘を、不思議そうに見ている。骨に巻かれたテープに書かれた名前は、その人にとって、まったく知らない誰かの名前だ。
向こう側のことは、もう、加賀美には遠い。
ノートのいちばん上の行に、加賀美は鉛筆で、ゆっくりと自分の名前を書きはじめる。子供のころの、書き慣れた筆跡で。鉛筆が紙を擦る音だけが、家のなかにしずかに響いている。
お戻りなさい(完)




