下らずの村
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、地図
姉の部屋を片付け始めて、もう一年になる。
母は最初の半年で諦めた。父は最初から触らなかった。残されたのは俺だけだった。本もカメラも山道具も、ひとつずつ手に取って、姉の物だと確かめてから箱に入れる。そのことを誰にも頼まれていないのに、続けている。
姉は俺より六つ上だった。大学に入ってから山を始めて、卒業して働き始めても、長い休みのたびに一人で何処かの稜線にいた。連れて行ってもらったことが俺にも一度だけある。中学の夏休みで、姉は俺のザックの肩紐に朱色のテープを足してくれた。「迷子になっても、これで見つけてやれるから」。そう言って笑った顔の輪郭は覚えているのに、声の調子はもう思い出せない。
その日、机の奥の引き出しから、細長いリングノートが出てきた。
姉が大学生のころから付けていた山行記録だった。日付、山名、行動時間、装備、簡単な地形メモ。ところどころに見たことのある山の名前があって、子供のころに連れて行かれた場所を思い出した。ページを繰っていくと、最後の記述の手前で手が止まった。
そこには「下らずの村」と書いてある。
それが地名なのか、何かの符丁なのか、わからなかった。ルートの欄には、二万五千分の一の地形図にしか出ていないと思われる細い破線が、簡単に描き写されている。等高線の谷あいに、ぽつんと「奥椚」とふりがな付きで集落の印。その横に括弧書きで、――地元では下らずと呼ぶ、とだけある。
姉が消息を絶ったのは、その記述の翌日だった。
捜索は一週間続いた。出た場所と帰った場所が確かでなかった。靴跡もザックの色も、結局どの尾根からも見つからなかった。三年経って、家族はそれぞれの場所で、姉を含まない朝を続けている。
ノートを閉じる。閉じた指がまだ熱を持っているような気がする。
俺は古い地図帳を本棚から引き出して、奥椚の位置を確かめた。県北の、いまはもう廃道に近いと書かれた峠の、その更に北。最新の地図には、もう村の印さえない。
ネットで地名を検索した。地元の郷土史に短く触れられている記述がひとつだけ出てきた。明治の中頃に廃された谷あいの集落で、住民は山を下って近隣の村に吸収されたとあった。下らずの呼び名の由来については、伝承の章にだけ一行、――入った者が下ってこないため、と素っ気なく書かれている。それ以外の説明はなかった。
行こうと思った。
理由はなかった。理由がないままに身体が決めていることが、ときどきある。
二、鼻歌
朝早く家を出て、軽自動車で峠の手前まで上がった。
舗装が切れたところに車を置き、そこからは古い林道を歩いた。標識は錆びて、文字の半分が剥げている。空気はぬるく、九月の終わりだというのに蝉の声がまだ薄く残っている。汗が背中を伝うのに、風はやけに冷たい。
途中で道祖神らしき石仏に出会った。風化して顔の輪郭がもうない。供えてある花の茎だけが、不自然に新しい。誰かがつい最近、ここに来ているということになる。
スマホの方位磁針を出してみた。針は、北を指したまま、ふっと右へ滑り、それから戻った。何度確かめても、自分が向いている方向と、地図の方角とが、わずかにずれている。アプリの不具合だろうと思おうとして、そう思いきれない感覚だけが胸の奥に残った。
谷へ下る道に入ると、足音だけがやけに近く聞こえた。
下りきった先に、家屋の屋根が見えた。
廃村だ、と思った。
茅葺きが落ち、棟木がねじれた家が三棟。傾いた地蔵堂の屋根。井戸の縁石が苔に覆われて、輪郭だけがかろうじて残っている。村というより、村だったものの輪郭、と呼ぶ方が近かった。
人の気配はないはずだった。
それなのに、どこからか鼻歌が聞こえている気がした。
低い、女の声だった。
子供のころに、姉がよく口ずさんでいたメロディだった。題名のない、何の曲だかわからない、姉が自分で作ったのかもしれないと俺は勝手に思っていた、あの音。題名がないせいで、姉がいなくなった後、家族の誰の口からも漏れることのなかった音。
声は、井戸の向こうの、雑木の隙間の方から漏れ続けている。
「姉さん」
声に出して呼んでみた。
鼻歌は止まらなかった。止まらないまま、少しずつ場所を変えていく。家屋の裏手の方へ。俺はザックを下ろさないまま、走り出した。
足元の落ち葉が、誰かが先に踏んで湿らせたあとのように、しっとりと黒ずんでいる。
通りすぎる家のひとつに、戸が一枚だけ立てかけてあった。蝶番は壊れている。それなのに戸の上半分にだけ、いま拭いたばかりのように土埃が落ちている。雑巾の跡らしいものまで残っている。
そのまま雑木の影に視線を移すと、葉の揺れ方が均一でなかった。風が通っているのは葉の上半分だけで、下半分の葉はわずかも動いていない。風の通り道が、人の腰の高さで切れている。誰かの背丈ぶんだけ、空気の流れが避けて通っている、というふうに見えた。
俺は通り過ぎる足を、わずかに速めた。
三、朱の紐
家屋のうちのひとつ、縁側に近い柱の根本に、見覚えのある紐の切れ端が落ちていた。
ザックの肩紐に通す、調整用のテープだった。色は褪せて、ほぼ灰色に近い。それでも、もとが朱に近い赤だったことが、断面の繊維の奥にだけ残っている。
姉のザックの色だった。
中学のあの夏に、姉が俺のザックの肩紐に同じ色のテープを通してくれたことを、もう一度思い出した。色を揃えてあった。迷子にならないように、はぐれても見つけられるように、と姉は言っていた。
俺はしゃがんで、それを拾い上げた。風がなくなった。家屋の中から、薄い、布が擦れるような音がした。
縁側に上がった。土埃に、新しい靴跡があるように見える。判型は俺の足より一回り小さい。
茶の間に入ると、囲炉裏の灰が黒く湿っている。湿っているということは、つい最近、水気がここに置かれたということだ。火を落とすために誰かが水をかけた、というふうにも見える。だがその水気にも、煙の臭いがない。何かが燃えたあとの空気が、この家にはない。
奥の襖が、少しだけ開いている。
開いている隙間から、畳の縁が見えていた。畳の中央あたりに、小さな布の塊が置かれている。色のない、丸めた布。何か包んであるとも、ただ畳まれているともつかない形をしている。光の入り方の加減で、布の端だけが、ぼんやりと白い。
それを開ける前に、縁側のさらに向こうの雑木の中を、何かが歩いていく気配がした。姉の背格好に似た、しかし顔は見えない誰かが、こちらに背を向けて遠ざかっている。
髪の長さも、肩の線も、覚えのある姿だった。
「待って」
俺はザックを縁側に放って、走り出した。
雑木の枝が頬を打った。下草が膝に絡んだ。それでも追えるだけの距離に、その後ろ姿はずっと留まっていた。鼻歌は近くで続いていた。たぶん、その後ろ姿のものではなかった。鼻歌は俺の右からも、左からも、上からも聞こえていた。
走るほどに、後ろ姿の足元から、土の音が消えていた。落ち葉の擦れも、枝を払う音もしない。ただ姿だけが、適切な距離を保ったまま、こちらの呼吸に合わせて遠ざかっていく。
雑木を抜けると、ふいに視界が開けた。
俺はもう一度、林道の入り口に立っていた。
来たときと同じ角度の、同じ標識の前。
後ろ姿はもうどこにもいなかった。
四、戻り道
林道を上り直した。
下りに使った時間と同じだけかけて、上りきった先には、また谷の家屋の屋根が見えた。
引き返した。腰の高さの草を漕いで尾根に出ようとした。藪は深く、棘の枝が腕を裂いた。それでも構わず登った。尾根に出たつもりで足を下ろすと、また井戸の縁石が目の前にあった。
道とは反対の、沢筋を下る方向にも歩いてみた。水の流れる音が聞こえる方へ、しばらく行った。傾斜は確かに下りで、足元の小石は確かに低い方へ転がっていく。そうして十分ほど歩いた先で、また同じ井戸の縁石が、目の前にあった。
スマホを取り出した。圏外を示すマークが表示されている。信号を探すたびに、方位磁石アプリの針が画面の中で位置を変えていた。電池の残量だけが、確かなものとして減っていく。
陽が傾き始めていた。傾いている、と思ったときには、もう陰の長さが体の倍ほどあった。山の谷あいだから、暗くなるのは早い。
縁側に戻った。ザックがそのままの位置に転がっていた。俺はそれを抱えた。
その夜、囲炉裏のそばで膝を抱えて過ごした。
ライターの火を試しに点けてみた。火は点いた。だが、囲炉裏の薪に近づけても、薪は乾いて見えるのに燃えなかった。火が薪の表面で迷い、しばらく揺れて、それから自分から細く煙を上げて消えた。
鼻歌は止まなかった。声の位置は、こちらが瞬きするたびにほんの少しずつ近づいている気がする。家の梁の上にもいるような気がした。屋根裏に何かが歩いている軽い音もする。あちこちに散らばっているのに、ひとつの曲としては乱れない。
夜の山にいるはずの音は、ひとつも聞こえなかった。鳥も、虫も、獣の足音も。耳を澄ますほどに、鼻歌だけが、世界のすべての音を吸い上げていた。
拾ったザックの紐の切れ端を、ポケットから出して、両手で握っていた。色のなくなった布だった。握っていると、てのひらの中に細い熱が伝わってくる。
夜中、何度か襖の向こうで、誰かが立っているような気配がした。気配だけだった。襖が開くことは、最後までなかった。襖の向こうから誰も、こちら側を呼びはしなかった。呼ばれないことの方が、こたえた。
朝が来る前に、ふと気づいた。
鼻歌が、自分の口からも漏れている、そのことに。
止めようとして、止まらなかった。
止めなくていいと、どこか深いところが言っているのがわかった。
五、迎える側
朝の光は、雑木の隙間から細く差し込んできた。
俺は縁側を降り、ザックは置いたまま、村の奥へ歩いていく。
道を探してはいない。鼻歌の聞こえる方へ歩いている。鼻歌は俺の足元からも聞こえていて、左右からも、上の枝先からも聞こえていて、それでもどこか一点に向かって束ねられている感覚がある。
雑木が切れて、もう一段下の小さな平場に出た。
そこには、家とも呼べない小屋がひとつあった。
縁石の上に、見覚えのある朱色のザックが置かれている。色は新しい。風雨にさらされた様子もない。三年間、野ざらしであったものとは思えないほど、布の表面が乾いている。
傍に、誰かが置いたばかりのように、登山靴がきれいに揃えてある。
その靴の中には、落ち葉一つ入っていない。
近づいて靴の隣にしゃがんだ。靴ひもの結び方が、姉の癖と同じだった。蝶結びの輪が片方だけ大きくなる、あの結び方。直してやろうかと思って手を伸ばし、伸ばした靴の上に、自分のてのひらが影として落ちた。影はいつもより薄い気がした。
俺は、置かれたザックの隣に、自分のザックを下ろしてもよいような気がしている。靴を脱いでもよいような気がしている。それが姉の隣に座るということと、どこかで同じだということを、誰に教わったわけでもないのに、わかってしまった。
そのとき、林道の上の方から、別の足音がかすかに響いてきた。
時間をかけて、慎重に下りてくる足音だった。古い地形図を片手に持っているような、迷いながらの足取りだった。背負っているザックの色までは見えない。けれど、こちらに来ようとしている、ということだけが伝わってくる。
姉のときも、誰かがこうしてこの村のどこかから、その足音を聞いていたはずだった。
姉の鼻歌が、俺の家まで届いていた、ということだった。
俺は小屋の縁に座って、そちらの方を見上げる。
口の中でいつのまにか、同じメロディを繰り返している。
俺は、待っている側にいる。
下ってくる足音が、もうすぐ、雑木の隙間からこちらの村を見つけるだろう。
そのとき俺は、姉がそうしたように自分の鼻歌だけが、相手の耳に届くところまで、ほんの少し近づいているのだろう。
それが姉から俺へ、俺からその人へ届いていく音だということを、今になってようやく身体で知った。
迎え方を、ここで教わっている。
下らずの村(完)




