潮待ちの家
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。
https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan
一、潮のにおい
東京から車で六時間。東北の、ひと気のない海岸線をたどって、翔太は祖母の家に着いた。
高台のうえに、白い外壁の小さな平屋がぽつんと立っている。二〇一四年に建て直された家だ。震災から三年、祖母が頑として東京には来ないと言い張って、この場所に建てさせた家だった。
車を停めて、玄関先を見る。朝顔の鉢に、水がたっぷり張られていた。鉢の縁にも、まだ濡れた跡がのこっている。鉢のなかの土は、もう種まきを終えたあとのように、ほぐれて柔らかかった。
近所には、家らしい家はもう、いくつも残っていなかった。同じ高台に建ったはずの家は、震災後の十五年で、住む人がいなくなり、ひとつひとつ取り壊されていったのだという。母がいつか言っていた。
残ったのは祖母の家と、垣根を挟んだ隣家。それだけだった。
「だれが来たんだ」
声に出してみる。応える者はない。祖母は二か月前、八十四で亡くなった。母の電話は短かった。「眠るようにね」と。葬式は身内だけで済ませて、東京暮らしの翔太は空き家のこの家に、ひと月以上足を運べないでいた。
今日は遺品整理のために来た。家は来月のはじめに売る話で、片づける時間は週末の二日しかない。
預かっていた鍵で、引き戸を引く。からから、と乾いた音が、思いのほか大きく響いた。
とたんに、潮のにおいがした。
海はもう少し下にある。高台の家の中のほうが、海辺よりも濃く磯臭い気がするのは、なんだろうか。
冷たい板の間に上がると、台所の流しに茶碗がひとつ、伏せられていた。手に取り、指で底に触れる。底はまだ湿っていた。
居間の卓袱台には、湯呑がふたつ並んでいた。ひとつは祖母が長年使っていた、青い染め付けのもの。もうひとつは、子供用の――小さく、赤い椿の絵がついた湯呑。翔太には、まったく覚えがなかった。
窓の外は、薄曇りの春の海。波の音が、遠く聞こえる。
ふと、卓袱台の脚もとに、白いつぶがいくつか落ちているのに気がついた。指でつまむと、紛れもない海の砂だった。
奥の仏間に行く。祖母の遺影が、いつも通りの静かな笑みを浮かべている。線香はとうに燃え尽きて、灰になっていた。けれど、線香立ての灰のうえに、まだ細い指で押したような、新しい指の跡が残っていた。
翔太は、しばらくその跡を見つめていた。それから台所に戻って、空っぽの茶碗を片付けようとして、――やめた。なんとなく、片付けてはいけない気がした。
二、お客さん帳
仏壇の脇の引き出しを開けると、薄い大学ノートが出てきた。
表紙には、祖母の細い字で「お客さん帳」と書かれている。
めくると、最初のページに二〇一一年五月十二日の日付があった。
「田中ゆずさん(六さい)。今夜は雨。お茶を二杯。家の場所をたずねられたので、もう家はないのよ、と教えた」
次のページには、別の名前。
「佐々木健一さん(四十二さい)。漁協の方。船をさがして帰る」
また、別の頁。
「名前のわからない女のひと(おとな)。ずっと黙ってお茶を飲んでいた。ひざに、ぬれた毛布をかけていた」
すべて、訪問の日付は二〇一一年三月十一日より後だった。けれど、時間帯は決まって夜のことばかり。名前のうしろには、たまに(おとな)(おとこのこ)と添え書きがしてある。要件は短い。「波がこわい」「家のばしょをたずねる」「ただ座って、火をみていく」「子供をさがしている」――。
翔太は、手のなかの冷たいページをめくり続けた。記録は十五年分。三百人を超えていた。
なかには、何度も繰り返し来ている名前があった。「ゆずちゃん」は、特に多かった。月に二、三度。雨の夜には必ず。年が経っても、その横の年齢は「(六さい)」のままだった。
ほかにも、しばらくのあいだ続いて、ある時を境にぱたりと記録の途絶える名前がいくつかあった。「藤野たかしさん(二十八さい)」の横には、二〇一七年の春に「もう来ないと思う、と笑って帰っていった」と書き添えられていた。逆に、年に数回、必ず訪れる「篠田さん」という老人の名もあった。最後の記録は祖母が亡くなる二週間前で、「篠田さん、今夜は孫の話を一時間。お土産にきんぴらを持って帰った」とあった。
ページの端には、雨に濡れたような波打った跡が、いくつも残っていた。インクは滲んでいない。湿気のかたちだけが、紙に残っていた。
最後のページは、二か月前の日付だった。祖母が亡くなる前夜のものだ。
「今夜もゆずちゃんが来た。あの子はずっと六さいのまま。元気そうで何より。
もうわたしも体がきかない。次の方がいるなら、よろしくお伝えしてね。」
翔太は、ノートをそっと閉じた。
縁側で、かすかに鼻歌が聞こえていた。子供の、たどたどしい節回しだった。知らない歌だった。けれど、なぜか、聞き覚えがあるような気もした。
縁側に出ると、誰もいない。代わりに、戸口の下に、砂のついた赤い小さなサンダルが、片方だけ、揃えて置かれていた。
昨日家に入ったときには、なかったはずだった。
翔太はサンダルに触れずに、しばらくそれを見つめていた。波の音が、いつの間にか近くなった気がした。
仏壇の柱時計に目をやる。針が進んでいない。電池が切れたのではない。秒針が、二秒進んで、一秒戻る、を繰り返していた。
三、潮待ちの家
夜になって、雨が降りだした。海鳴りの音にまじって、屋根を打つ細い雨の音が、部屋を満たしていく。
翔太は布団に潜って、ともかく眠ろうとした。明日の朝には荷物の半分は整理して、夕方には不動産屋に電話を入れて、――そう自分に言い聞かせていた。
その時、玄関の引き戸が、からから、と鳴った。
息を止めた。
誰かが、家に入ってくる。湿った木の床を踏む、小さな軽い足音。廊下を進み、居間に入っていく。
「おばあちゃん。お茶ちょうだい」
幼い声だった。けれど、声には水気が含まれていて、まるで浴室のなかで響くようにこもっていた。
翔太は襖の隙間から、そっと覗いた。
卓袱台の前に、小さな影が座っていた。髪のさきから、絶え間なく水が滴っている。畳に黒い染みが、ゆっくりと広がっていく。
影は、湯呑を覗き込んで、つまらなそうに首をかたむけた。
「おばあちゃん、いない」
声が、寂しそうに揺れた。
影が、ゆっくりとこちらを向いた。顔は、暗がりに沈んでいて見えない。それでも、目があった、と肌でわかった。
「あたらしい、おばあちゃん?」
その声に、翔太は答えることができなかった。
返事をすれば、なにかが決まってしまう気がした。返事をしなくとも、もう、決まっているのかもしれなかった。
影は、しばらく翔太を見つめていた。それから、また卓袱台のほうに向き直り、空の湯呑のふちを、小さな指でなぞった。
「おちゃが、ぬるい」
ぽつりと、影が言った。
翔太の頬を、冷たいものが、ひとすじ伝った。涙ではなかった。家のなかの空気が、いつの間にか、海の底のように湿っていた。
影の背中の向こう、玄関の引き戸がまた、からから、と鳴った。
もうひとり、入ってくる気配があった。それから、もうひとり。
翔太には、もう、襖を閉じる勇気もなかった。
四、帳場の引き継ぎ
朝、台所に下りると、卓袱台の湯呑はふたつとも、空になっていた。畳の染みは乾いて消え、赤いサンダルもなくなっていた。
翔太は「お客さん帳」を抱えて、縁側に座りこんだ。
祖母はあの日、海から逃げ遅れた人を大勢知っていた。隣家の子。漁協の知り合い。いつも野菜を分け合っていた夫婦。学校で学んでいた小さな子たち。
高台に家を建て直してからも、東京の母が何度誘っても、祖母は首を振り続けた。
「ここには、待ってる人がいるから」
幼いころにそれを聞いたとき、翔太は気にも止めなかった。庭の朝顔のことか、留守番の犬のことだと思っていた。
いまその言葉が、ようやく意味を持って耳に戻ってくる。
縁側で座っていると、隣家のおばあさんが、垣根のむこうから声をかけてきた。
「あんた、君代さんのお孫さんね。優しい人だったよ、君代さん。毎晩、玄関の灯りをつけっぱなしでね。迷った人が、家を見つけられるようにって、よく言ってた」
翔太は、うまく返事ができなかった。曖昧に頷いて、礼を言うのが精一杯だった。
「あの人もね、震災のあと、しばらく独りで泣いてたんだよ。けど、ある夜から、急に元気になってね。誰かと話してるみたいに、台所でひとりごとを言うようになった。気味が悪いとは思わなかったよ。あの人にとっては、それで救われたんだろう、って」
おばあさんは、ふと垣根の向こうで遠くを見やった。
「うちもね、ゆずを、あの日になくしたの。田中のゆずって、知ってる?君代さんとは、垣根越しに、よくお互いの孫の話をしたよ。元気だね、よく食べる子だね、って。あの人が亡くなって、もう、誰ともそんな話、できなくなったから――」
声が、ふと、震えた。
翔太は、机の奥にしまったノートのことを、思い出していた。最初のページ。二〇一一年五月十二日。田中ゆず(六さい)、と祖母の細い字で書かれていた。
「あんたに、似てるところがあるよ。目もとが特に。あの人の目もとに、似てる」
おばあさんは、垣根のむこうで小さく頭を下げて、戻っていった。
翔太は、ノートの白いページに、何も書かなかった。書かないように、机のいちばん奥に押しこんだ。家は売る。鍵は不動産屋に渡す。それで終わる。
そう、思っていた。
軒下の風鈴が、風もないのに、ちりん、と鳴った。
縁側の灯りのスイッチを消そうとして、消せなかった。指がふるえているのではない。灯りが、もう自分だけのものではないような気がしていた。
夕方、東京に向けて車を出すとき、後部座席の足もとに、なにか柔らかいものを踏んだ気がした。けれど、振り返るのが急に怖くなった。アクセルを踏んで、海を背にした。
バックミラーに、家の玄関灯が、まだ点いたままなのが映っていた。消そうとして、消せなかった灯りだ。
ブレーカーを落としても、消えなかった灯りだ。
五、引き戸の音
東京の自分のマンションに戻った夜、インターホンが鳴った。
モニターには、誰も映っていない。ただ、画面の隅に、小さな黒い影のようなものが、わずかに揺れている気がした。
翔太は電源を切った。
冷蔵庫の低い音だけが、ワンルームを満たしていた。
翌日からの一週間、翔太はいつもどおり会社に通った。同僚と昼飯を食い、終電で帰り、シャワーを浴びて眠った。表面上は、何ひとつ変わっていなかった。
ただ、ときどき、自分以外いないはずの部屋の隅に、なにかが座っているような気がした。
冷蔵庫を開けると、買った覚えのない子供用のプリンが、いつも一個、奥に置かれていた。捨てても、翌朝にはまた、別のプリンが入っていた。
通勤電車の窓ガラスに、自分の背後の風景にまじって、海岸線らしきものが映る瞬間が、たまにあった。振り向くと、なにもなかった。
壁紙の継ぎ目から、白い結晶のようなものが、すこしずつ吹き出てきた。指でなめると、塩の味がした。
その夜のことだった。
なぜか、台所に立っていた。ケトルに水を入れていた。湯呑をふたつ、棚から出していた。なぜそうしているのか、自分でも、わからなかった。
窓の外は海ではなく、夜の街の灯りだった。
それでも、潮のにおいがした。
遠くで波の音がした、気がした。
玄関の方で、からから、と引き戸を引く音が、たしかに聞こえた。
翔太の部屋の玄関は、引き戸ではない。
湯気のたつケトルを、火から下ろす。湯呑にお湯を注ぐ。注ぎながら、もう片方の湯呑にも、と思って、たしかにそうした。
廊下から、湿った小さな足音が、こちらへ近づいてきていた。
翔太は、もう振り向けなかった。
声が、すぐ後ろで言った。
「あたらしい、おばあちゃん」
窓の外で、波が、また鳴った。
翔太は、お湯の湯気に向かって、ようやく口を開く。
「……ゆず、ちゃん」
返事をする声は、もう寂しそうではなかった。
卓袱台のない部屋に、いつの間にか、卓袱台が置かれていた。湯呑がふたつ並んでいた。
ノートを、東京まで、ちゃんと持って帰っていた。
翔太には、その記憶がなかった。
ただ、明日の夜は雨らしい、ということだけが、なぜか、わかっていた。
そして雨の夜には、必ず、誰かが来るのだということも。
潮待ちの家(完)




