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呼ばずの磯

AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。

ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。

https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan

一、言い替えの島


  ひと月半ぶりに踏んだ島の港は、八月の終わりだというのに、海風が湿った薄荷のような匂いを運んでいた。鹿児島本港からのフェリーは六時間。同じ青がそんなに長く続くと、人間はかえって眠くなれないのだと、はじめて知った。

  タラップを降りる客は私を含めて四人で、ほかの三人は段ボール箱を抱えた業者ふうのおじさんたちだった。岸壁にはセメントの白い線がひかれていて、その線の手前で、観光客は止まることになっている。線の向こうは、ここの人たちの島だった。

  リュックを背負いなおして、線の手前に立つ叔母を見つける。日に焼けて、髪はいくらか白い。叔母の静子は、四年前に祖母が遺した古い家にひとりで住んでいる。

「朱里ちゃん、よう帰った」

  そう言って、叔母はちいさく微笑む。私は東京で勤める広告会社に三日の休みをもらって、祖母の一周忌のために、この南の小さな島に戻ってきた。父方の祖母だが、もう何年も会っていなかった。

  島は周囲十キロほどしかない。サトウキビ畑と、ガジュマルと、潮の匂いと、それから、ところどころに苔むした祠。古い祠の前を通るとき、叔母はちいさく口のなかで何かを唱えていた。

  軽トラの助手席で、私はスマホをいじる。圏外、と表示が点滅していた。

「朝のうちは電波が通じんから」

  ハンドルを握る叔母が言う。

「夕方ごろになったら、家の前あたりだったら入るとよ」

「うん」

  窓の外、舗装の途切れた道沿いに、藍色の海が見えはじめる。眩しい色だった。私はなにげなく口を開いた。

「ねえ叔母さん、あの浜、なんていう浜だっけ」

  叔母は、ほんの一瞬だけ、視線を私から外した。

「あれは、向こうの磯」

「いや、本当の名前のほうよ」

  答えはなかった。代わりに、叔母はラジオの音量をすこし上げた。地元のチャンネルが、ゆるい三線の音と、誰かの古い歌を流している。

  祖母は生前、奇妙な言葉づかいをするひとだった。海とは言わずに「あちら」と言い、夜とは言わずに「片付け時」と言う。死については、「お休みなさったね」と言う。母も叔母も、それを「島の言い回しよ」と笑っていた。私もそうだと思っていた。

  家に着くと、祖父が縁側に座っていた。ひざに猫を乗せて、ぼんやりと庭を見ている。私が「ただいま」と声をかけると、ゆっくりと振り向いて、薄く笑った。

「お帰り」と、祖父は言った。

  ただ、お帰り、と。

  祖父は私の名前を呼ばなかった。そのことに、そのときの私は、まだ気づいてもいなかった。



二、向こうの磯


  一周忌の法要は、こぢんまりとした集まりだった。集落のいくつかの家から、白髪の老人たちが集まり、低い読経の声と、線香のにおいだけが座敷を満たした。誰も、私の名前をはっきりとは呼ばなかった。「お孫さん」「東京の」と、それだけ。私が東京の癖で自分の苗字を口にすると、叔母は、目だけで私を見た。

  夜、なかなか寝つけなかった。寝室にあてがわれた祖母の部屋は、畳が湿っていて、海の音が近すぎる。スマホをいじると、夜だけは電波が立った。葉介から、何件かメールが届いていた。

 〈一周忌どうだった?〉

 〈そっち、星きれいなんでしょ〉

 〈ビデオ通話できる?〉

  私は浴衣の袖をたぐって、サンダルをつっかけて、家の裏手を抜けた。背の低い石垣のむこうに、潮の音が降りてくる小さな入り江がある。叔母が「向こうの磯」と呼んでいた浜だ。

  細い小道を下りていく途中、夏草に半分埋もれた古い木の道標があった。スマホの懐中電灯を点けて、しゃがみこむ。墨は滲み、輪郭は木の地に溶けかけていた。それでも、刻まれた三文字は、まだ読みとれた。

  ──真名瀬(まなせ)

  なんだ、ちゃんと書いてあるじゃない、と私は思った。

  月が出ていた。岩のかたちが、墨絵のように、はっきりと見える。

  私は石のうえに腰をおろして、葉介にLINEのビデオ通話をかけた。

  数秒、繋がるのを待つあいだ、波の音にまじって、誰かが息をつめているような気配があった。気のせいだろう。

「もしもし、朱里」

  葉介の顔が、画面のなかで笑う。

「どこ、それ。すげえ、月、明るいな」

「うん。向こうの……えっと、本当はね、真名瀬って言うらしいよ、ここ。さっき下りる途中の道標に、書いてあったの」

  私は、月の明かりに濡れた浜の古い名を、はっきりと声に出して呼んだ。

  そのときだった。波の引いていく音の底で、何かが――小さく、しかし確かに――「はい」と返事をした気がした。

  私はカメラを反転させて、月の出ている岩肌を映した。

「ねえ、あの岩、見て」

「いや、暗くてよくわかんないな。あ、ちょっと電波悪い? 朱里? 朱里?」

  名前を呼ばれた、その瞬間、後ろの闇のなかで、また別のだれかが、「はい」と答えた。私の声と、すこしだけ、違う声だった。

  通話は、そこから何度も途切れ、結局つながらないまま、画面が暗くなった。月だけが手元を照らした。

  ふと、口のなかで「おばあちゃん」とつぶやいてみる。届くだろうか、と、もう一度、声に出してみた。

「おばあちゃん。一年経ったよ。今日、一周忌だった」

  海の音が、すこしだけ、息をひそめた気がした。

「お母さんは──智子は、来たかったらしいけど、仕事でね。お盆には来るって」

  独り言のつもりだった。誰にも届かないと思っていた。

  そのとき、波の引く音の底から、はじめより、ずっと近くから、また「はい」と、声がした。



三、読まれた名前


  翌朝、私はひどい頭痛とともに目を覚ました。

  台所からは出汁の匂いが流れてきていて、叔母が朝食の支度をしている音がする。けれど、ふすまの向こうから、叔母が何度も「ねえ」とだけ言っているのが聞こえた。

「ねえ、起きてる?」

「ねえ、もう食べる?」

  私のなまえを、叔母は、呼ばなかった。私は寝床のなかで、しばらく、自分の名前が舌のうえで形を作るのを待ってみた。じょうずに作れた気がしたので、まだ大丈夫だ、と思った。

  起きあがり、台所に顔を出すと、叔母は私を見て、いっしゅん、息を呑んだ。それから、無理に微笑んだ。

「あんた、ゆうべ、外に出たね」

「うん。ちょっと、彼氏と話したくて」

  叔母は、湯気の立つみそ汁をお椀によそいながら、ゆっくりと言った。

「向こうの磯では、人の名前を、呼ばないことよ」

  心臓が、いやな打ちかたをした。

「あそこは、聞いてる場所だから。呼んだら、向こうが、本当の名前だと思って、覚えてしまう」

「……それって」

「覚えられたら、いつか、迎えにくるとよ」

  叔母の口調はあまりに平静で、私はそれを冗談として聞き流したくなった。けれど、叔母の手は、お椀の縁を持ったまま、わずかに震えていた。

「昔から、決まっとる。あそこを名指しちゃいかん。あそこで、人を名指しちゃいかん。だから、向こうの磯、って、みんな呼んできたとよ。あんたのおばあちゃんも、お父さんも、ちいさい頃から、そう躾けられて、それで」

  叔母は、そこで言葉を切った。

  そのとき、ポケットのなかでスマホが鳴った。

  母からの着信だった。母は、息を切らしていた。

「朱里、あんた、今どこにおる」

「島だよ。一周忌で」

「いやね、おかしいの。さっきから、家のなか、誰かおるみたいで。誰もおらんのよ。お父さんは出張で、私ひとり。だのに、廊下に、足音がする。私の名前を、呼びよる。私の名前を、知っとる声で」

  私は、息ができなくなった。

  ゆうべ、私は、月の下で、おばあちゃんに、語りかけた。そのなかで、母の名前を、たしかに、口にした。智子は、お盆には来る、と。誰にも届かないつもりで、独り言のように。

「私の名前を、まちがえずに呼びよるとよ」

  母の声が、急に遠くなった。電波の問題ではない。電波は、四本立っていた。

  母の電話のむこうで、何かが、廊下を歩いていた。歩いて、こちらに、近づいてきていた。私はただ、自分の手のひらに爪を立てて、その音が、母の声よりも近くに聞こえてくるのを、聞いていた。



四、祓えぬもの


  私は、祖父の文机を勝手に開けた。

  引き出しの奥に、祖母の使っていた古い手帳がしまってあった。茶色く焼けた革表紙の、ずいぶん長く使われてきた手帳。頁をめくると、買い物の覚え書きや、孫の誕生日や、雑多なことが綴られていた。

  いちばん古い頁を開いた。そこに、祖母の細い字で、一覧があった。

  ――言い替えの一覧、と書かれている。

  海、夜、北、左、それぞれに、「あちら」「片付け時」「奥手」「悪手(あくて)」と、別の言葉があてがわれていた。「火」「水」「鏡」、そして「名前」、と続く。「名前」の項には、「呼びかけのみ。本名は決して呼ばぬこと。とくに月夜の磯にて」と注釈がついていた。頁のいちばん下に、震えるような筆致で、こう書いてあった。

  ――真名瀬、と呼ぶな。アナタの、と呼ぶこと。

  私は、その文字を、何度も読みかえした。

  真名瀬は、「本当の名前の浜」という意味なのだ、と、急にわかった。あそこは、名前を吸う。吸われた名前は、迎えに行く。だから、島のひとは、海も、夜も、人の名前も、別のものに言い替えて生きてきた。

  法事で誰も私を名前で呼ばなかった理由が、ここに来て、ようやくわかった。

  私は走った。サンダルがちぎれてもかまわず、岩場のあいだを抜けて、ゆうべと同じ浜に出た。日中の真名瀬は、ただ静かで、明るくて、なんでもない磯だった。

  私は、岩のうえに立ち、両手を口にあてて、声を張りあげた。

「ちがう! ちがう、ゆうべ呼んだ名前は、ぜんぶ、忘れて! あれは、本当の名前じゃない!」

  波の音は、ふしぎなくらい、答えなかった。返事をすると、それもまた覚えられてしまうのを、波のほうも、知っているようだった。

  私は地面に膝をついて、祖母の手帳の頁を、波打ち際にひらいてみせた。

「言い替えで、呼びなおします。私の母は、智子じゃなくて――」

  言いかけて、私は、自分の口がうまく回らないことに気づいた。

  母の名前が、出てこなかった。さっきまで、頭のなかにあったのに。「と、も、」のあとが、ぼやけてしまう。私は無理やり、舌で形を作ろうとした。けれど、できなかった。

  砂のうえに、母の名前のかたちだけが、影のように残っている気がして、私は思わずそこを掘った。

  砂の下から、なにかが出てくる気配は、なかった。

  ただ、波が、ひとつ、押し寄せて、私の掘った穴を、しずかに埋めた。

  言い替えは、覚えられた名前を、上書きしてはくれないのだ。ただ、これから呼ぶ名前を、隠してくれるだけだ。



五、呼ばれぬ私


  三日目の朝、私は、フェリーで島を離れた。

  港まで送ってくれた叔母は、最後まで、私の名前を呼ばなかった。「気をつけてね」と、それだけ言った。祖父は、縁側から、こちらを見ていた。猫の頭を撫でながら、誰のことも、見送らなかった。フェリーが岸を離れるとき、叔母は祖母の手帳を、ひとり、開いて読んでいた。新しい言い替えを書き足すように。

  東京に戻ると、葉介が改札のところで待っていた。

「おかえり」

  葉介は笑った。それは、まちがいなく、葉介の笑い方だった。けれど、私のなまえを、葉介は呼ばなかった。次に会ったときも、彼は私のなまえを呼ばなかった。LINEのトーク画面から、私の名前の表示が、ひとつ、消えていた。アイコンはまだそこにあったが、画面の上のところには、なにも書かれていなかった。葉介に「私の名前、なんだっけ」と訊くのが、こわかった。

  母とは、それから、何度も電話をした。

  電話のむこうで、母は、家のなかのことを、ぜんぶ別の言葉で話すようになった。台所、ではなく「片付け時の場所」。テレビ、ではなく「あちらの声」。父のことは「お父さん」とは呼ばずに、「おひとさん」と呼んだ。母は、自分のまわりの世界の名前をぜんぶ言い替えて、迎えに来られないようにしているのだ、と私は気づいた。直そうとはしなかった。直してはいけない気がした。

  自分の名前を、声に出そうとすると、なぜか、喉がしまる。

  鏡のまえで、何度も練習した。私は、と言いかけて、息がつまる。私の名前は、と言いかけて、誰かが、私のすぐ後ろで、「はい」と答える。それは、私の声に、すこしだけ、似ている。波打ち際の砂が引いていくときの、あの、すこし湿った音に似ている。

  真名瀬の浜で、月の下、私の名前が呼ばれたあの夜から、誰かが私のかわりに返事をしている。

  私はいま、この文章を、自分の名前を伏せたまま書いている。書いておかなければ、自分のことを、忘れてしまいそうだから。けれど、もう書きながら、自分のフルネームを、思い出すのに、ずいぶん長くかかるようになってしまっている。

  まだ、迎えはこない。

  けれども、夜になると、ベランダの外の、海でもなんでもない、ただの東京の夜のほうから、潮のひくような声で、誰かが、私のしらない言い替えで、私を呼ぶのが、聞こえはじめている。

  返事をしたい気持ちと、してはいけない気持ちのあいだで、私は、毎晩、息をひそめて、ベランダの戸の鍵を、確かめている。


呼ばずの磯(完)


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