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いきうつり

一、もらいもの


 民俗資料館の収蔵庫が水を吸ったのは、夏の終わりだった。

 職員は私を含めて五人しかいない小さな館で、地下の浸水は致命的だった。雨は二日にわたって町を叩き、排水路の落葉が呼び水になって、収蔵庫の床に薄く水が回った。除湿機の音だけが響く湿った廊下を、館長と二人で泥のように歩きながら、私たちは数十年ぶりに開けられた木箱をひとつずつ仮置き場へ運んだ。

 桐箱の表面は黒ずみ、墨で書かれた文字は判読できないものが多い。重さで中身を想像する。土器、木彫、それから――


「これは、預かりものやったかな」


 館長が苦笑いを浮かべて、私の腕の中の箱を見た。

 紐をほどく。蓋の裏に、薄い和紙が貼られていた。

『神楽 子返し 第二幕 嬰児役』

 こども、と読むのか、と私は思う。

 箱のなかで、市松人形が私を見上げていた。

 襦袢は古色を帯び、髪は黒く濡れたように艶めいている。瞳は黒曜石を磨いた色で、瞼の縁にかすかな朱が引かれていた。生写しの人形、と人がそう呼ぶ流派のものだ。耳の輪郭、唇の薄さ、頬骨の角度。何より、こちらを見ている、と感じさせる視線の重さ。


「子返しの神楽、知っとるか」

 館長は箱の縁を指でなぞりながら言った。

「死んだ子を、もう一遍この世に呼び戻す芸能や。昭和の半ばで途絶えた。この子は、最後の舞手が抱いとった人形やそうな」

 舞手というのは舞台で人形を抱いて舞う役のことだ、と続けた声は、いやに静かだった。

「途絶えたのは、踊りが祟ると言われたからや。詳しいことは、誰も書き残してへん」


 呼び戻された子、というのが、人形を指すのか、それとも舞われた何かを指すのか、その時の私には判断がつかなかった。

 収蔵庫の修繕が終わるまで、自宅で預かってくれと言われた。台帳の番号も付けず、ひとまずは私の手元で、湿気から遠ざけて置いておくこと。

 桐箱を提げて帰り、机の脇に置いた。

 閉めた蓋の隙間から、椿油のようなかすかな匂いが立ち昇っていた。古い髪油の、甘く、わずかに鉄に似た匂い。

 その夜、寝る前にもう一度蓋を開けて、人形が右手を内側へ折りたたんでいることを確かめた。膝の上で、両手を慎ましく重ねている、その左右の位置。

 蓋を戻して、電気を消した。寝室との境の引戸を閉めてしまえば、桐箱とは部屋一つぶんの距離があった。それで充分なはずだった。

 真夜中、廊下の床がきしむ、いつもの古い音で、一度だけ目が覚めた。

 雨は、もうやんでいた。

 家のどこかで、紙のこすれるような、ごく小さな音がしたような気もした。寝返りをうって、もう一度、眠りに落ちた。


 朝、目を覚まして机を見たとき、右手は外側へ、ゆるくひらいていた。

 何かを差し出すような、あるいは何かを呼ぶような、開き方だった。

 寝惚けてそう見えていただけだ、と私は思った。

 箱の縁の影が、昨夜より、わずかに濃くなっていた。



二、はなした分だけ


 水曜の午後、大学時代の友人と駅前の喫茶店で会った。

 小夜という名のその子は、私の話を聞きながら砂糖を二度入れた。

「ねえ、その人形さ」

「うん」

「写真、見せて」

 私は携帯を出して、夕べ撮った一枚を見せた。小夜は液晶に顔を寄せて、ふうん、と短く息を吐いた。

 それだけの話だった。会計を済ませ、傘を開いて、それぞれ別の方向の駅へ向かった。


 翌々日、小夜から電話があった。声が、いつもの調子ではなかった。

「あなた、私の家に何か置いていった?」

 置いていない、と答えた。

「市松人形が、廊下にあるの」

「私が預かってる人形は、まだうちにあるけど」

「うん。あなたの見せてくれた子じゃない。でも、似てる」


 その夜、小夜の部屋に上がった。

 玄関を入ってすぐ、廊下の突き当たり、靴箱の脇に、人形が一体座っていた。

 襦袢の柄が違う。髪の結い方も違う。眉の濃淡もわずかに違う。けれど、同じ流派の手にかかったものだとは、ひと目でわかった。耳のかたち、唇の角、瞳の置きどころ。同じ職人が、別の表情で写し取ったかのような佇まい。

「いつ、ここに?」

「わからない。気がついたら、いた」

 ガラスのコップに、白湯を注いで飲んだ。

 喉を通る湯の温度より、室内の空気のほうがいくらか冷たかった。

 小夜は、玄関のほうを何度も振り返った。鍵は、たしかに掛かっていた。


 翌週、職員室で、同僚の鳴海さんに何気なく話した。

 あの預かりものの子のね、と語りはじめてから、自分が「生き写し」という言葉を二度使ったことに気づいた。鳴海さんは作業の手を止めて、ふうん、生き写し、と私の言葉を繰り返した。繰り返す、というのは、写すことに似ている。

 金曜の朝、鳴海さんは出勤するなり、控室の隅を指差した。

 人形が一体、椅子の上に座っていた。

「誰かが悪戯で置いたんやと思って訊いたら、みんな違うって言うのよ」と鳴海さんは笑った。笑いながら、目だけが笑っていなかった。

「あなたが話してくれた子に、似てる気がする」

 似ている、と私は思った。

 そう思いながら、私はもう、頷くこともしなかった。


 私の家の人形は、机の脇から動いていない。

 それでも、椿油の匂いだけが、夜ごと廊下まで届いていた。

 匂いは、留守のあいだに少しずつ濃くなる。

 帰宅して玄関を開けた瞬間、その濃さで、一日にどれだけ私がその子のことを思い出していたかが、量れるような気がした。

 ある晩、机の前に座って、台帳に書きつけた一文を、ふと読み返した。「子返しの神楽の嬰児役として、最後の舞手が抱いていたとされる」と、自分の字が並んでいる。読み返すというのは、もう一度語ることだ。私はあわてて視線を逸らした。

 逸らした先で、桐箱の蓋が、ほんの少し、開いていた。

 閉めた覚えしか、なかった。



三、ふえてゆく


 小夜から、また電話があった。

「もう、三体になった」

 何の話か、訊き返さなかった。

 訊き返せば、答えが、声に乗って、どこかへ届いてしまう。

 それでも私は小夜の部屋へ向かった。


 玄関を開けると、香炉のような匂いが流れ出た。椿油でもなく、白檀でもなく、その中間の何か。

 廊下、台所、寝室の入口、それぞれに人形が座していた。一体ずつ表情が違う。けれど――顔の中心を貫く線、目の落ちどころ、唇のかすかな歪み、それらが揃って、ひとりの人物像を編んでいる。一人の子供を、別々の角度から、別々の職人が、別々の日に写し取ったかのような。


「お母さんに、電話しようとしたの」

 小夜は床に座り込んでいた。膝のあいだに、両手を埋めるように差し込んでいた。

「説明しようとして、それで……」

 口を閉ざした。

 私は彼女の視線の先を追った。

 書棚の、いちばん上の段。

 昨日まで、そこには何も置かれていなかったはずだった。

 四体目が、足を組んで座っていた。

 肘の角度。指のひらき方。襟元の合わせ。

 小夜が母親に向けて口にしたいくつかの言葉が、その姿勢の中に分けて納められていた。


 言葉が、ひとつ。

 一体。

 言葉が、ひとつ。

 一体。


 私は咽喉の奥で叫ぼうとして、何も発しなかった。

 発さないことだけが、いま自分にできる、たった一つの対処だった。

 帰り道、駅のホームで、私は鞄のなかの携帯を握りしめていた。

 誰にも、何も、送らない。

 書かない。

 電車のガラスに映る自分の唇が、固く閉ざされているのを、ぼんやりと見つめていた。

 向かいの座席には、空席が並んでいる。

 そのどれかに、いつ、誰の姿勢が写し取られても、おかしくはなかった。



四、しずまない


 人形供養を受けつけている古寺へ、原本の市松人形を持って行った。

 住職は桐箱の蓋を開けて、長く沈黙してから、引き取りましょう、と言った。

 由来は、と訊かれて、私は短く、子返しの神楽で使われたものだと答えた。話せば話すほど、私の口のなかで何かが芽吹くような気がして、それ以上は語らなかった。


 本堂の裏で焚かれる炎を、私は離れて見つめた。

 火は橙ではなく、青みを帯びていた。和紙が崩れ、木材がはぜる音が、いやに遠くで響いていた。煙はまっすぐ上がらず、地面を這うようにこちらへ流れた。匂いは、樹脂でも髪でもなく、湿った絹に火がついた時のような、甘い焦げ臭さだった。

 住職は読経の途中で、二度、句を継ぎそこねた。

 ふだんは滑らかに流れるはずの声が、ちょうど人形の名を呼ぶあたりで、わずかに引き攣れた。私はそれを、聞こえなかったふりをした。

 読経を終えた住職は、こちらを振り返らずに、低く呟いた。

「これが、どこから来たかは、訊かんことです」


 帰り道、携帯が震えた。

 館長からの連絡だった。

「鳴海さんが、控室から出てこんのや」

 急ぎ戻って、控室の戸を開けた。

 鳴海さんは椅子に座って、机の上に並んだ五体の人形を、じっと見つめていた。

「あなた、書いたでしょう」

 彼女は振り向かずに、低い声で言った。

「あの人形のこと。台帳に」


 書いた、と私は思い出した。

 収蔵カードに、人形の素材、寸法、由来、所蔵経緯。きちんと書いた。書くのが、私の仕事だった。

 書いたということは、語ったのと同じだった。

 紙のうえに、人形は写った。一体ぶん、写った。

 そして、台帳という閉じた本の中で、語りはおそらく、繰り返し読まれている。

 読まれるたびに、また一体ぶん、写っているのかもしれなかった。


 書庫を確かめに行った。

 収蔵棚の中段に、覚えのない桐の小箱が、ひとつ。

 墨で記された品番は、私のものではない筆跡だった。けれど、その癖のあるはらいや、点の打ち方は、どこか私の手に似ていた。

 箱の中に、人形が一体、行儀よく納まっていた。

 今日まで、その棚に置かれていたはずの土器は、台帳から、跡形もなく、消えていた。

 品番だけが、新しい筆跡で上書きされていた。


 その晩、家へ帰ると、玄関の三和土に、ひとつの桐箱が置かれていた。

 寺に納めてきたはずの、あの最初の市松人形が、蓋を開けた箱の中で、こちらを見上げていた。

 襦袢の裾が、わずかに焦げていた。

 それ以外は、出かける前と、何ひとつ変わっていなかった。

 炎は、人形を焼かなかった。

 火に焼かれたのは、ただ襦袢の裾だけで、それは焼かれたのではなく、いま戻ってきましたという、ささやかな印のようにも見えた。



五、ひとりにならない


 私は喋らない。書かない。撮らない。

 夜は、息をひそめて眠る。

 朝に目覚めると、部屋に一体、増えている。


 部屋の隅から壁ぎわへ、その先は窓辺へと、人形たちは静かに居場所を広げていった。最初は六畳の一隅で済んでいたものが、いまでは台所の出窓にも、玄関の靴箱の上にも、洗面所の鏡の脇にも、それぞれ一体ずつが座っている。私が朝、洗面台の前に立つと、横から、私とよく似た角度で、鏡を見上げている顔がある。私はその顔と目を合わせないようにして、歯を磨く。


 夢を見ないようにしているが、夢を見たかどうかは、目覚めてからしかわからない。わからないうちに、増えている。

 人形たちは、私の言葉でできている。一体ずつ、私がかつて発したことのある何かを、姿勢のなかに含んでいる。指のかたち、首の傾き、襟の合わせ。私の昔の言葉が、私の知らない子供の身体に、すこしずつ分けて配られていた。

 小夜の部屋には、もう行っていない。鳴海さんは、長い休職に入った。誰にも、何も、伝えていない。それでも、増える。


 ある朝、机の脇の、最初の一体が、わずかに体を傾けて、私のほうを向いていた。

 あの夜、右手を外側へひらいていた、あの子だった。

 口は、まだ開いていない。

 けれど、開く準備をしているような気がした。

 喋らせては、いけない、と思った。

 私が喋らずにいれば、この子も喋らない。

 そう思った、ということが、すでに、語ることに似ているのだと、しばらく経ってから気がついた。

 思考もまた、内側でひそかに語られる声だ。

 私はそれを止めることが、まだうまくできない。


 いま、私はこの部屋にいて、一切を口にしないように努めている。

 背後の空気に、ときどき、温い圧が生じる。

 振り返らない。

 振り返れば、もう一体、増える。


 それでも、いまこの瞬間にも、どこかで、椿油の匂いがゆるく濃くなっていく。

 誰かが、誰かに、この話をしている。

 そして、また一体ぶん、写っている。


いきうつり(完)


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