ふふみ
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、戻されたもの
谷中の古道具屋に、凪が勤めて二年になる。
店は、坂の途中にあった。間口は二間ほど、看板も小さく、夕方になると軒先に古い行灯がひとつだけ灯る。明治の終わりから続く店だと、店主の老人が、いつだったか、どこか自慢げに教えてくれた。
冬のはじめの夕暮れだった。
店先に、ひとりの女が立った。三十手前の、痩せた人だった。胸元に風呂敷の包みを抱え、暖簾の前で一度だけ深く息を吐き、それから、覚悟を決めるように、戸を引いた。
店主は、奥のほうから出てきて、女の包みを受け取った。中を改める。市松人形だった。
「やはり、置いておけないので」
女はそれだけを言った。声は、上ずっていた。
「主人が、寝室には置かないでくれ、と。子どもが、夜中に泣くようになって。それで、居間に出して、それから、台所の隅に。けれど、どこに置いても、朝になると──」
女は途中で言葉を切り、ふっと、店の奥に視線を流した。なにか追われているような目つきだった。
「ともかく、お返しします」
それだけを言って、ほとんど逃げるように店を出ていった。買い戻し金は、受け取らなかった。
店主は、しばらく黙って、人形を膝のうえに置いていた。指先で、その黒い髪に触れ、それから、首のうしろを、軽くぽんと叩いた。
「凪ちゃん。これ、持って帰って、ようすを見てやってくれないか」
そう頼まれて、凪は人形を桐箱に納め、紐をかけた。理由は、訊かなかった。訊かないのが、この店での、凪の作法だった。
部屋に戻ったときには、もう夜だった。
古いアパートの六畳間。机のうえに桐箱を置き、ゆっくりと蓋を開ける。電気の傘が低く、光が、人形の上半身にだけ落ちていた。
おかっぱの黒い髪。細い首。明治か、大正のはじめのものらしかった。絹の着物は所々色が抜けて、ほのかな桃色を残している。膝のうえで組まれた手は小さく、爪までていねいに描かれていた。
顔は、雪のように白かった。
ただ、口元だけが、ほんの少し、開いていた。
ふつう、市松人形の口は、閉じて作る。閉じた口の輪郭に、紅の線がひと筋、横に通る。それが、古いものほど、色が褪せていく。
だが、この人形の口は、紅の線が縦にひとすじ、裂けていた。
そこから先が、暗い。
ほんの一ミリほど開いた、そのなかに、なにか小さな影がある。
凪は、しばらく、その口を見つめていた。塗りが古くなって剥がれただけ、と思おうとした。古いものには、よくあることだ。
それでも、桐箱の蓋を半分だけ閉じ、上から布を一枚かけてしまうと、ようやく息がつけた。
それから寝床に入った。
部屋の闇のなかで、棚のあたりだけが、ぼんやりと、白かった。
二、春の兆し
翌朝、布が、床に落ちていた。
凪は布を拾い、軽く笑って、もう一度かけた。風で落ちたのだ、と自分に言った。窓は閉まっていた。
古道具屋の仕事は、地味だった。値札を書き、台帳をつけ、毛叩きで埃を払う。客と話すのは店主の役目で、凪はほとんど黙って動く。それが性に合っていた。
人形のことは、店主に小さく報告した。状態は良好です、と。口元のことだけ、最後に少し、触れた。
店主は、湯呑みのお茶を一口飲んでから、言った。
「子の歯が生えてきた、っていう話があってね」
気軽な調子だった。
「江戸のころから、市松人形は、子の代わりに育てるもんだったんだ。家で死んだ子の名前をつけて、着物を着せて、季節ごとに飾り替えて。──だから、稀に、ほんとうに育つものがある。髪が伸びるのは、よく聞く。爪が伸びるのも、たまに。歯はね、まだ私は、二度しか見たことがない」
冗談めいた声だった。けれど、最後だけ、声が低くなった。
凪は、半分だけ笑った。
夜、人形の前に正座して、写真を撮った。前に撮ったものと並べて、画面のなかで比べた。
口の開きが、確かに、ほんの少し、増えていた。
湿気のせいだろうか、と思った。古いものは、季節で動く。木が呼吸し、膠が緩む。それは仕事で習った。
それでもなぜか、凪は懐中電灯を取り出して、人形の口の中を覗いてしまった。
暗い穴の奥に、白いものが、ふたつ、並んでいた。
小さな、薄黄色の点。
歯茎の生え際にあたるところに、それは確かに、二本、芽吹いていた。
凪は息を止めて、しばらく動けなかった。
塗料の浮き、と思おうとした。膠のしみ、と思おうとした。けれど、その白い二点の輪郭は、塗料のものではなかった。先端だけがほのかに尖り、根元が滑らかに歯茎に沈んでいる、生え出てくるものの、輪郭をしていた。
凪は、布をかけ直して、寝床に入った。眠れなかった。胸の奥で、なにかが、ゆっくりと、根を張りはじめる気配があった。
夜半、廊下のほうで、小さな音がした。──こつ、と。何かが、何かに、軽くあたるような音だった。
凪は息を殺して、聞いていた。
それきり、音はしなかった。
数日が、過ぎた。
朝、机の位置が、ほんのわずか、ずれている気がした。前の夜に座ったときの感覚と、椅子の角度が、合わない。
布が、また落ちていることがあった。窓は、いつも閉まっていた。
ある朝、桐箱の蓋が、半分だけ持ち上がっていた。凪はしばらく、それを遠くから見つめていた。それから、近づいて、そっと閉めた。閉めるとき、なかから、ほんの微かな、息のような音が、漏れてきたような気がした。空気の動きだ、と思った。きっと、そう。
その夜、人形の口の二点は、もう、点ではなかった。
小さな、白い、ふくらみだった。歯茎の下から、ゆっくりと、なにかが盛り上がっている形だった。
凪は鏡を持ってきて、自分の口のなかも、覗いた。
何も、変わっていなかった。
それなのに、なぜか、舌の付け根のあたりが、ひりひりしていた。
三、歯
朝、歯ブラシを使っているとき、舌の奥のほうに、ざらりとした感触があった。
鏡で見ると、左の上、奥歯の先が、ほんの少しだけ、欠けていた。
痛みはなかった。血も、出ていなかった。ただ、欠けていた。
凪はうがいをして、口を閉じた。
仕事に行き、いつものように過ごし、夕方に帰った。
歯医者に行こう、と、何度か思った。けれど、思っただけだった。電話をかけようとして、受話器の前で、手が止まった。確かめるのが、こわかった。──何を確かめるのが、と自分に問うて、答えられなかった。
夜、棚の人形に近づいた。
もう、覗き込まなくても、口の奥が見える。前より、開いていた。
口のなかに、新しい歯が、ひとつ、増えていた。
形に、見覚えがあった。
凪は洗面所に走って、自分の鏡を覗いた。指で、欠けた奥歯のかたちを、なぞる。それから、人形の元へ戻った。
合っていた。
欠けた角のかたちが、人形の歯のひとつと、寸分違わず、合っていた。
凪は、その場に座りこんだ。
人形は、笑っていた。少なくとも、凪には、そう見えた。先ほどまで、ほんの一ミリだった口の隙間が、もう、唇半分ほど、ひらいていた。なかには、まだ歯茎の色を残した薄黄色の歯が、ふた粒、ぽつんと並んでいる。それは、生えてくる、というより、こちらから引き寄せられている、というふうに見えた。
凪は、口を閉じた。閉じても、舌が、欠けた奥歯の角を、何度もなぞっていた。
四、戻ってくる
凪は、人形を段ボールに詰めた。
新聞紙でくるみ、ガムテープを十文字に貼り、外側に油性ペンで「不要品」と書いた。深夜、外は冷えていて、街灯の下を歩く息が、白かった。集積所まで運び、所定の場所に置いて、振り返らずに帰った。家に戻る途中で、何度か、振り返りそうになった。振り返らなかった。
朝、棚のうえに、人形は、戻っていた。
桐箱は机のうえに開いて置かれ、布もきちんと畳んで添えてあった。誰かが、ていねいに片づけてくれたかのように。
凪は、店主に話した。
店主は、しばらく黙ってから、湯呑みを置いた。
「寺はね、受け取らんよ」
静かに言った。
「ああいうものは、寺も神社も、受け取らない。供養を頼んでも、断られる。焼こうとしても、火がうまく入らない。川に流せば、戻ってくる。海に沈めても、戻ってくる。──何度も、見てきたよ」
凪は、それでも、試した。
休みの日、誰もいない河原で、枯れ草を集めて火を熾した。火は、よく燃えた。風がほどよくあって、草も乾いていた。凪は人形を、その中央に、そっと置いた。
火は、人形の輪郭を、避けて燃えた。
着物の縁にも、髪の先にも、ほのおは届かなかった。火が、そこだけを、ていねいに避けていた。まるで、人形のかたちを覚えているかのように。風向きが変わっても、火は、その輪郭をなぞっては、逸れた。
何時間かして、火が灰になったとき、凪は、黒い灰のなかから、人形を拾い上げた。
温かくも、なかった。煤さえ、ついていなかった。
別の休日、近くの古い寺に持っていった。
事情を、ぽつぽつと話した。住職は最後まで、穏やかに聞いていた。それから、目を伏せて、首をふった。
「うちでは、お預かりできません」
理由は話されなかった。理由を話さないことが、答えのようだった。
帰り道、凪は、橋のうえで足を止めた。眼下の川は、夕方の光を映して、銀の鱗のようにうごいていた。凪は袋を、しばらく抱いたまま、欄干に寄りかかっていた。
それから、袋ごと、川に落とした。
水は、音もなく、それを呑みこんだ。
朝、目を覚ますと、人形は、机のうえにいた。
着物が、少しだけ、湿っていた。袖の端に、青っぽい川藻が、一筋だけ、ついていた。
河原から帰る道、口のなかで、また、ざらりとした感触があった。
舌で、奥のほうを探った。何もなかった。
家に帰って、洗面所の鏡を覗いた。
今度は、前歯のひとつが、欠けていた。
それも、痛みはなく、血もなかった。歯茎は、なめらかに、欠けた歯の根本を、もう、覆いはじめていた。
五、開いていく
凪は、もう、捨てなかった。
机のうえで、桐箱は開けたままにした。布も、かけなかった。人形は、いつも見えているところにあった。見ていないと、増えていく気がしたから。
人形の口は、もう、笑っているように見える。
歯は、十六本、十八本、二十本。数えるたびに、揃っていく。並びは、よく見ると、人間の歯のかたちをしていた。乳歯と、永久歯のあいだのような、不揃いな齢の歯が、すこしずつ、整列していく。
凪の口のなかは、少しずつ、空になっていく。
痛まないのが、いちばん、いやだった。
朝、鏡の前で、口を開ける。暗い空洞のなかに、もう、奥歯はほとんど、残っていない。それでも歯茎は、傷ひとつなく、なめらかに閉じている。痕跡も、ない。歯がそこにあったことを、口のほうが、忘れていく。
食事は、柔らかいものだけになった。粥、豆腐、潰した芋、温めた牛乳。噛む必要のないものを、選ぶ。それでも、口の奥で、なにかを噛んでいる感覚だけは、残った。なにか硬いものを、奥のほうで、ずっと、ずっと、噛んでいるような感覚が。
店主は、なにも訊かなかった。
凪が、口元を片手で隠して話すようになっても、店主は気づかないふりをして、いつも通りに台帳の話をした。一度だけ、帰り際に、低い声で、「無理を、しないでな」と言った。それだけだった。
凪は鏡を、なるべく、まっすぐ見ないようにした。
顔の輪郭が、心なしか、変わりはじめている気がした。頬のあたりが、ほんの少し、平たくなっているような。輪郭が、磁器のような、つるりとした白さに近づいているような。
気のせいだ、と思おうとした。気のせい、と何度も繰り返した。それでも、洗面所に入るたびに、視線を、鏡の中央からずらして、横の壁ばかり見るようになった。
人形は、机のうえで、ますます、満ちていく。
凪は時々、その口元に、自分の指を、そっと近づける。触れることは、しない。触れる勇気は、もう、ない。けれど近づけると、人形の口元が、ほんの少しだけ、温かい気がする。湿っているような気もする。息のようなものが、確かに、そこから、漏れている気がする。
夜、寝るまえに、もう一度鏡を覗く。
口を、ゆっくり開ける。
歯茎の、いちばん奥に、なにかが、芽吹きはじめていた。
小さな、白い、湿った点が、ふたつ。
けれどそれは、歯では、なかった。
歯の形を、していなかった。
もっと細いもの。もっと尖ったもの。爪のような、骨のような、見たことのない何かが、彼女のなかで、根をおろしはじめている。
凪は、それをしばらく見つめてから、ゆっくりと、口を閉じた。
噛みあわせると、奥のほうで、こつ、と、なにかがあたる音がした。
人形は、机のうえで、笑い続けている。
口のなかは、まだ、いっぱいではない。
凪は、それを、毎晩、見ている。
ふふみ(完)




