淀みの雛
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、岸辺の雛
夕方の川沿いは、夏の終わりの匂いがした。
熱の抜けかけた草いきれに、どこか遠くで誰かが焼いている魚の煙が、薄く混ざる。仕事を終えて駅から歩いて帰る途中、美夜は橋の手前で足を止めた。
川の水面に、白いものが浮いていた。
葦の根元に絡んで、流れずにいる。
川幅は狭い。両岸はコンクリートで固められ、街灯の柱が等間隔に並ぶ、どこにでもある二級河川だった。引っ越してから、ちょうど三月になる。前のアパートの隣室がうるさかったから、家賃の安さと、川の眺めだけを理由にここを選んだ。仕事は在宅のイラスト業で、人と会う機会はほとんどない。川を見ながら、絵を描き、ひとりで眠る、それだけの日々だった。
この川に、何かが浮いているのを見たのは、これが初めてだった。
近づいてみると、それは一体の人形だった。
古い流し雛だ。手縫いの布の体に、十字に刺された目、首のところを一本の赤い糸が結んでいる。色はもうほとんど褪せて、輪郭だけが残っている。胴の真ん中に、小さく、薄く、菊の花のような印が刺されていた。
三月の節句で流された雛が、半年も葦に絡まっているとは思えなかった。布はしっとりと湿っているが、傷んではいない。糸のほつれもなく、紅の色だけが、不自然に新しい。
まるで、昨日流されたばかりのように。
美夜はかがんで、葦から人形を外してやった。
そして、川下のほうへ、軽く押し流した。
人形は、流れなかった。
水の流れは確かに下流に向かっている。落ち葉も、白い泡も、すべて下へ運ばれていく。けれど、その雛だけが、ゆっくりと、岸へ、岸へ、と寄ってきた。
彼女の足元へ。
もう一度押し流した。同じことが起きた。
三度試して、四度目でやめた。
かじかんできた指を見て、川の水が思いのほか冷たいことに気づいた。九月の終わりとはいえ、こんなに冷たかっただろうか。指先の感覚が、どこか遠くに置いてきたみたいに、戻ってこない。
雛を拾い上げて、ハンカチに包んだ。
「……明日、神社に持っていこう」
そう独りごちた声が、川の音にすぐ呑まれた。
家までの帰り道、ハンカチを持つ手のひらだけが、なぜか、汗ばんでいた。雛そのものは、軽かった。あれだけ水に浸かっていたとは思えないほどだった。机の上に置いて、一度だけ、上から指で触れた。布の感触の下に、何かが、こちらの指に応えるように、わずかに、動いた気がした。
夜、机の上の雛は、ハンカチの中で、すっかり乾いていた。
二、岸へ岸へ
翌朝、川沿いに新しい雛が落ちていた。
一体ではなく、三体。
場所はちがった。アパートの裏手の土手、自販機の足元、橋の欄干の下。みな同じ作りの、白い布の雛。十字目、赤い首糸。胴の菊の印まで、まったく同じ。誰の悪戯かと一瞬考え、すぐにその仮定の薄さに気づいた。三体とも、まったく同じ作りで、まったく同じ褪せかたをしている。新しく作られたものではない、と布の感触が告げている。
紙袋に入れて、買い出しのついでに、最寄りの神社へ寄った。
お焚き上げを頼みたい、と告げて、紙袋を社務所の窓口に差し出した。神主は袋を開けて、中をしばらく見ていた。受け取るのに、ずいぶんと時間がかかった。窓口の硝子の向こうで、神主の喉が、一度、ゆっくりと動いた。
「当社ではお受けできません」
そう言って、袋の口を、そのまま閉じた。
理由を尋ねても、神主は首を振るばかりだった。最後に、少しだけ目を伏せて、別の神社を、と曖昧に勧めた。古い川施餓鬼の作法を残している山寺がある、とだけ言って、そのあとは口を結んだ。社務所を離れるとき、神主はもう、彼女のほうを見ていなかった。
買い出しから帰ると、玄関のドアの取っ手に、雛が一体、紐で結ばれていた。
誰がやったのかは、見当もつかない。隣人の顔は知らない。アパートの廊下に防犯カメラはない。
紐をほどいて、リビングの床に置いた。明日、また別の場所へ持っていこうと考えた。床に並べた五体の雛は、みな、わずかに、こちらに顔を向けているように見えた。
眠る前、洗面所で歯を磨いていて、鏡の中の自分を見た。
何かを口ずさんでいた。
聞いたことのない節だった。子守唄のような、それでいて、最後のところがどこにも着地しない、ぐるぐると回り続ける旋律。
やめようとして、口を閉じた。
こちらの意志を待たずに、唇の奥が、続きを引き取った。
歯ブラシを握る手が、少し、震えていた。
水を含んで、口を漱いだ。
湯桶の底に、雛が一体、伏せて沈んでいた。
拾い上げて、洗面台の脇に置いた。
朝には、雛は、また湯桶の底にあった。
洗面台の脇に、自分が昨夜、置いたはずの一体が、消えていた。
三、流す者
その夜、美夜は水音で目を覚ました。
寝室の床が、くるぶしまで、水に浸かっていた。
川の水だ、と思った。色も、匂いもそうだった。鉄錆と、夏の終わりの草の、青い匂い。けれど、ベッドから足を下ろしたとき、足は濡れなかった。
水はあった。
水でないものが、そこにあった。
雛が、その水でないものの上を、流れてくる。
どれもみな、彼女の枕元へ向かって。
床に並ぶ雛の数は、数えるのをやめた瞬間に、はっきりと、増えた。
起き上がり、流れの源を辿っていった。
廊下を抜け、洗面所の扉を開ける。
水でない水の流れは、浴室から来ていた。
バスタブの排水口から、それは湧き出していた。
湧き出すものの中に、一本の赤い糸が混ざっていた。
雛の首に結ばれている、あの赤い糸と、同じものだった。
美夜は、糸を指でつまんだ。
引いた。
糸は終わらなかった。
排水口の中から、引けば引くほど、糸が出てきた。手繰った糸の山が、洗面台の縁にまで積もっていく。糸は、ぬるい。湯気のような熱を持っている。手繰り続けるうちに、彼女は気づいた。
雛は、流れて来ているのではない。
作られて、送られてきている。
誰かが、川の上流のどこかで、雛を縫っている。縫い終わるたびに、それを川に流している。彼女のところへ、確かに、届くように。
川の流れの向きは、関係なかった。流す者が、流れる先を、決めていた。
バスタブの水面が、揺れた。
反射に、見知らぬ女の顔が浮かんだ。
痩せた、ひどく疲れた老女の顔だった。長く何かを縫い続けてきた人の手が、また一体の雛の首に、赤い糸を巻きつけていた。
その手を、美夜は知っていた。
自分の手と、同じ形をしていた。指の節の角度も、爪の生え際も、まるで鏡で写したように。
女が、雛から顔を上げた。
こちらを、まっすぐ見た。
口を、ゆっくりと、開けた。
何かを言いかけた。
「もう、流さなくて、いい」――そう言ったように、見えた。
けれど、声は届かなかった。
女の手の中で、巻かれていた赤い糸が、ふっと、首ごと、ねじれて切れた。
水面が静まったあとには、もう女はいなかった。
排水口の中から、新しい雛が、一体、ぽつりと、浮かんできた。
糸の山に手を埋めたまま、美夜は、しばらく動けなかった。
あの女が言いかけたのは、解放の言葉だったのだろうか。
それとも、引き継ぎの言葉だったのだろうか。
どちらでも、結果は、同じだった。
四、寺は受け取らない
雛を捨てなければならなかった。
川に戻した。流れていかなかった。何度押しても、岸へ、岸へ、と帰ってきた。岸辺で踵を踏んばっても、川の流れは彼女の足元のほうへ、わずかに、内側に巻いていた。
焚き火で焼いた。布は焦げた。けれど、灰の中に、十字目と、赤い糸だけが、焦げずに残っていた。火をかき出したとき、その十字目は、確かに、こちらを見ていた。
土に埋めた。深い穴を掘って、上から砂利で重しをした。翌朝には、玄関の前に、行儀よく並んでいた。土の汚れは、どこにもついていなかった。
最後に、ふた県越えた山中の古寺を訪ねた。
神主が言っていた、川施餓鬼の作法を残している寺だった。電車を二度乗り継ぎ、終点の駅からバスで一時間。山門までは、さらに杉木立の参道を歩いた。袋の中で、雛たちは、揺れに合わせて、互いに小さく擦れ合う音を立てた。
住職は、雛の入った大きな袋を一目見て、長いあいだ、美夜の顔を見ていた。やがて、目を、ゆっくりと伏せた。
「……あなたが、流すべき方ですね」
ようやく、それだけを言った。
意味を問うた。
住職は答えなかった。代わりに、両手で、袋を返してきた。
「ここでは、お引き受けできません」
「どうしてですか」
「お引き受けすれば、流れが、こちらに来ますから」
それ以上は、何も言わなかった。深く一礼して、本堂の扉を、内側から閉めた。木の扉が閉まる音だけが、参道に長く尾を引いた。
帰りの山道を歩いている途中、すれ違った何人かの人が、彼女のほうを見なかった。
避けたのではない。
見なかった。
そこに人がいる、ということが、彼らの視界の中に入っていない、というふうに。挨拶をしても、声が届かなかった。咳をしても、誰も振り向かなかった。バスの運転手は、彼女が乗り込むときに釣銭を返したが、目だけは、ずっと反対側の窓を見ていた。
バス停から駅までの道、肩にかけた袋の中で、雛が、かさり、と鳴った。
駅のベンチで、袋を開けてみた。
中の雛は、乾いていた。
彼女のセーターの背中だけが、川から上がってきたばかりのように、濡れていた。背中の布を指でつまんで、力なく、絞った。透明な水が、ぽたり、ぽたり、と、ベンチの下のコンクリートに落ちた。誰も、それを見ていなかった。
家に着くころには、その湿りも、消えていた。
玄関のドアを開ける前に、彼女はすでに知っていた。
中で、雛が、増えている。
鍵を回す指が、ほんの少しも、ためらわなかった。
五、淀みに座って
美夜はもう、雛を捨てようとはしていない。
本棚の上にも、台所の調理台にも、敷かなくなった布団の枕の位置にも、雛が並んでいる。数えるのは、やめた。数えれば、数えただけ、増える。
机の前に座って、彼女は今、自分の手で、雛を縫っている。
布はどこから来たのか、覚えていない。気づいたとき、足元の籠に、いくらでもあった。糸も、覚えがない。針だけは、引っ越してきたときからある裁縫箱の、いちばん奥にあったのと、同じ形をしていた。
ただ、首に巻きつけるための赤い糸だけは、出所を知っていた。
喉のあたりに、いつからか、薄く、赤い線が引かれている。
血は出ない。痛みもない。
線の端を爪でつまむと、糸が引き出せる。引き出すほどに、出てくる。
ひと針縫うごとに、糸は、わずかに、短くなる。
縫い上がった雛は、窓辺に置く。
朝には、ひとつもいない。
風ではない、何かが運んでいく。
ときおり、玄関のチャイムが鳴る。出ない。仕事の依頼のメールが、何件も、未読のまま積もっている。返事を打とうと指を動かしかけて、けれど、その手が、いつのまにか、また針を握っている。携帯電話の充電は、もう、何日も切れたままだった。
鏡は、見ないようにしている。
最後に映ったとき、自分の顔の輪郭が、どこか、薄くなりかけていた。塗り重ねの剥げた、古い面のように。目の位置が、十字に近づいているような気がして、それきり、鏡の前には立っていない。
窓の下の川は、雨も降らないのに、水位が上がっている。
夜になると、自分の口が、あの旋律を、口ずさんでいる。
止めかたを、もう知らない。
今、机の上には、縫いかけの一体がある。
ほかのよりも、ずいぶんと、小さい。
手のひらに乗るほどの、雛。
彼女は、それを縫い終えようとしている。なぜそうしているのか、自分でも、わからない。けれど、止められない。
窓の外、川沿いの道を、誰かが歩いている。
よく見えない。
けれど、その人は、橋のたもとで足を止め、葦のあたりにかがみこみ、白いものを拾い上げている。
ハンカチに包んでいる。
独りごちている、らしい。
「……明日、神社に持っていこう」
美夜には、聞こえた気がした。
聞こえるはずのない、声だった。
彼女の指は、止まらず、雛の首に、新しい赤い糸を巻きつけていく。
小さな雛の首に、赤い糸が、ひと巻き、ふた巻き。
川の流れは、今夜も、岸へ、岸へ、と寄っている。
淀みの雛(完)




