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淀みの雛

AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。

ホラーショートストーリーAI朗読Youtubeチャンネルもあります。

https://www.youtube.com/@VacuousKaikitan

一、岸辺の雛


 夕方の川沿いは、夏の終わりの匂いがした。

 熱の抜けかけた草いきれに、どこか遠くで誰かが焼いている魚の煙が、薄く混ざる。仕事を終えて駅から歩いて帰る途中、美夜は橋の手前で足を止めた。

 川の水面に、白いものが浮いていた。

 葦の根元に絡んで、流れずにいる。

 川幅は狭い。両岸はコンクリートで固められ、街灯の柱が等間隔に並ぶ、どこにでもある二級河川だった。引っ越してから、ちょうど三月になる。前のアパートの隣室がうるさかったから、家賃の安さと、川の眺めだけを理由にここを選んだ。仕事は在宅のイラスト業で、人と会う機会はほとんどない。川を見ながら、絵を描き、ひとりで眠る、それだけの日々だった。

 この川に、何かが浮いているのを見たのは、これが初めてだった。

 近づいてみると、それは一体の人形だった。

 古い流し雛だ。手縫いの布の体に、十字に刺された目、首のところを一本の赤い糸が結んでいる。色はもうほとんど褪せて、輪郭だけが残っている。胴の真ん中に、小さく、薄く、菊の花のような印が刺されていた。

 三月の節句で流された雛が、半年も葦に絡まっているとは思えなかった。布はしっとりと湿っているが、傷んではいない。糸のほつれもなく、紅の色だけが、不自然に新しい。

 まるで、昨日流されたばかりのように。

 美夜はかがんで、葦から人形を外してやった。

 そして、川下のほうへ、軽く押し流した。

 人形は、流れなかった。

 水の流れは確かに下流に向かっている。落ち葉も、白い泡も、すべて下へ運ばれていく。けれど、その雛だけが、ゆっくりと、岸へ、岸へ、と寄ってきた。

 彼女の足元へ。

 もう一度押し流した。同じことが起きた。

 三度試して、四度目でやめた。

 かじかんできた指を見て、川の水が思いのほか冷たいことに気づいた。九月の終わりとはいえ、こんなに冷たかっただろうか。指先の感覚が、どこか遠くに置いてきたみたいに、戻ってこない。

 雛を拾い上げて、ハンカチに包んだ。

「……明日、神社に持っていこう」

 そう独りごちた声が、川の音にすぐ呑まれた。

 家までの帰り道、ハンカチを持つ手のひらだけが、なぜか、汗ばんでいた。雛そのものは、軽かった。あれだけ水に浸かっていたとは思えないほどだった。机の上に置いて、一度だけ、上から指で触れた。布の感触の下に、何かが、こちらの指に応えるように、わずかに、動いた気がした。

 夜、机の上の雛は、ハンカチの中で、すっかり乾いていた。


二、岸へ岸へ


 翌朝、川沿いに新しい雛が落ちていた。

 一体ではなく、三体。

 場所はちがった。アパートの裏手の土手、自販機の足元、橋の欄干の下。みな同じ作りの、白い布の雛。十字目、赤い首糸。胴の菊の印まで、まったく同じ。誰の悪戯かと一瞬考え、すぐにその仮定の薄さに気づいた。三体とも、まったく同じ作りで、まったく同じ褪せかたをしている。新しく作られたものではない、と布の感触が告げている。

 紙袋に入れて、買い出しのついでに、最寄りの神社へ寄った。

 お焚き上げを頼みたい、と告げて、紙袋を社務所の窓口に差し出した。神主は袋を開けて、中をしばらく見ていた。受け取るのに、ずいぶんと時間がかかった。窓口の硝子の向こうで、神主の喉が、一度、ゆっくりと動いた。

「当社ではお受けできません」

 そう言って、袋の口を、そのまま閉じた。

 理由を尋ねても、神主は首を振るばかりだった。最後に、少しだけ目を伏せて、別の神社を、と曖昧に勧めた。古い川施餓鬼の作法を残している山寺がある、とだけ言って、そのあとは口を結んだ。社務所を離れるとき、神主はもう、彼女のほうを見ていなかった。

 買い出しから帰ると、玄関のドアの取っ手に、雛が一体、紐で結ばれていた。

 誰がやったのかは、見当もつかない。隣人の顔は知らない。アパートの廊下に防犯カメラはない。

 紐をほどいて、リビングの床に置いた。明日、また別の場所へ持っていこうと考えた。床に並べた五体の雛は、みな、わずかに、こちらに顔を向けているように見えた。

 眠る前、洗面所で歯を磨いていて、鏡の中の自分を見た。

 何かを口ずさんでいた。

 聞いたことのない節だった。子守唄のような、それでいて、最後のところがどこにも着地しない、ぐるぐると回り続ける旋律。

 やめようとして、口を閉じた。

 こちらの意志を待たずに、唇の奥が、続きを引き取った。

 歯ブラシを握る手が、少し、震えていた。

 水を含んで、口を漱いだ。

 湯桶の底に、雛が一体、伏せて沈んでいた。

 拾い上げて、洗面台の脇に置いた。

 朝には、雛は、また湯桶の底にあった。

 洗面台の脇に、自分が昨夜、置いたはずの一体が、消えていた。


三、流す者


 その夜、美夜は水音で目を覚ました。

 寝室の床が、くるぶしまで、水に浸かっていた。

 川の水だ、と思った。色も、匂いもそうだった。鉄錆と、夏の終わりの草の、青い匂い。けれど、ベッドから足を下ろしたとき、足は濡れなかった。

 水はあった。

 水でないものが、そこにあった。

 雛が、その水でないものの上を、流れてくる。

 どれもみな、彼女の枕元へ向かって。

 床に並ぶ雛の数は、数えるのをやめた瞬間に、はっきりと、増えた。

 起き上がり、流れの源を辿っていった。

 廊下を抜け、洗面所の扉を開ける。

 水でない水の流れは、浴室から来ていた。

 バスタブの排水口から、それは湧き出していた。

 湧き出すものの中に、一本の赤い糸が混ざっていた。

 雛の首に結ばれている、あの赤い糸と、同じものだった。

 美夜は、糸を指でつまんだ。

 引いた。

 糸は終わらなかった。

 排水口の中から、引けば引くほど、糸が出てきた。手繰った糸の山が、洗面台の縁にまで積もっていく。糸は、ぬるい。湯気のような熱を持っている。手繰り続けるうちに、彼女は気づいた。

 雛は、流れて来ているのではない。

 作られて、送られてきている。

 誰かが、川の上流のどこかで、雛を縫っている。縫い終わるたびに、それを川に流している。彼女のところへ、確かに、届くように。

 川の流れの向きは、関係なかった。流す者が、流れる先を、決めていた。

 バスタブの水面が、揺れた。

 反射に、見知らぬ女の顔が浮かんだ。

 痩せた、ひどく疲れた老女の顔だった。長く何かを縫い続けてきた人の手が、また一体の雛の首に、赤い糸を巻きつけていた。

 その手を、美夜は知っていた。

 自分の手と、同じ形をしていた。指の節の角度も、爪の生え際も、まるで鏡で写したように。

 女が、雛から顔を上げた。

 こちらを、まっすぐ見た。

 口を、ゆっくりと、開けた。

 何かを言いかけた。

「もう、流さなくて、いい」――そう言ったように、見えた。

 けれど、声は届かなかった。

 女の手の中で、巻かれていた赤い糸が、ふっと、首ごと、ねじれて切れた。

 水面が静まったあとには、もう女はいなかった。

 排水口の中から、新しい雛が、一体、ぽつりと、浮かんできた。

 糸の山に手を埋めたまま、美夜は、しばらく動けなかった。

 あの女が言いかけたのは、解放の言葉だったのだろうか。

 それとも、引き継ぎの言葉だったのだろうか。

 どちらでも、結果は、同じだった。


四、寺は受け取らない


 雛を捨てなければならなかった。

 川に戻した。流れていかなかった。何度押しても、岸へ、岸へ、と帰ってきた。岸辺で踵を踏んばっても、川の流れは彼女の足元のほうへ、わずかに、内側に巻いていた。

 焚き火で焼いた。布は焦げた。けれど、灰の中に、十字目と、赤い糸だけが、焦げずに残っていた。火をかき出したとき、その十字目は、確かに、こちらを見ていた。

 土に埋めた。深い穴を掘って、上から砂利で重しをした。翌朝には、玄関の前に、行儀よく並んでいた。土の汚れは、どこにもついていなかった。

 最後に、ふた県越えた山中の古寺を訪ねた。

 神主が言っていた、川施餓鬼の作法を残している寺だった。電車を二度乗り継ぎ、終点の駅からバスで一時間。山門までは、さらに杉木立の参道を歩いた。袋の中で、雛たちは、揺れに合わせて、互いに小さく擦れ合う音を立てた。

 住職は、雛の入った大きな袋を一目見て、長いあいだ、美夜の顔を見ていた。やがて、目を、ゆっくりと伏せた。

「……あなたが、流すべき方ですね」

 ようやく、それだけを言った。

 意味を問うた。

 住職は答えなかった。代わりに、両手で、袋を返してきた。

「ここでは、お引き受けできません」

「どうしてですか」

「お引き受けすれば、流れが、こちらに来ますから」

 それ以上は、何も言わなかった。深く一礼して、本堂の扉を、内側から閉めた。木の扉が閉まる音だけが、参道に長く尾を引いた。

 帰りの山道を歩いている途中、すれ違った何人かの人が、彼女のほうを見なかった。

 避けたのではない。

 見なかった。

 そこに人がいる、ということが、彼らの視界の中に入っていない、というふうに。挨拶をしても、声が届かなかった。咳をしても、誰も振り向かなかった。バスの運転手は、彼女が乗り込むときに釣銭を返したが、目だけは、ずっと反対側の窓を見ていた。

 バス停から駅までの道、肩にかけた袋の中で、雛が、かさり、と鳴った。

 駅のベンチで、袋を開けてみた。

 中の雛は、乾いていた。

 彼女のセーターの背中だけが、川から上がってきたばかりのように、濡れていた。背中の布を指でつまんで、力なく、絞った。透明な水が、ぽたり、ぽたり、と、ベンチの下のコンクリートに落ちた。誰も、それを見ていなかった。

 家に着くころには、その湿りも、消えていた。

 玄関のドアを開ける前に、彼女はすでに知っていた。

 中で、雛が、増えている。

 鍵を回す指が、ほんの少しも、ためらわなかった。


五、淀みに座って


 美夜はもう、雛を捨てようとはしていない。

 本棚の上にも、台所の調理台にも、敷かなくなった布団の枕の位置にも、雛が並んでいる。数えるのは、やめた。数えれば、数えただけ、増える。

 机の前に座って、彼女は今、自分の手で、雛を縫っている。

 布はどこから来たのか、覚えていない。気づいたとき、足元の籠に、いくらでもあった。糸も、覚えがない。針だけは、引っ越してきたときからある裁縫箱の、いちばん奥にあったのと、同じ形をしていた。

 ただ、首に巻きつけるための赤い糸だけは、出所を知っていた。

 喉のあたりに、いつからか、薄く、赤い線が引かれている。

 血は出ない。痛みもない。

 線の端を爪でつまむと、糸が引き出せる。引き出すほどに、出てくる。

 ひと針縫うごとに、糸は、わずかに、短くなる。

 縫い上がった雛は、窓辺に置く。

 朝には、ひとつもいない。

 風ではない、何かが運んでいく。

 ときおり、玄関のチャイムが鳴る。出ない。仕事の依頼のメールが、何件も、未読のまま積もっている。返事を打とうと指を動かしかけて、けれど、その手が、いつのまにか、また針を握っている。携帯電話の充電は、もう、何日も切れたままだった。

 鏡は、見ないようにしている。

 最後に映ったとき、自分の顔の輪郭が、どこか、薄くなりかけていた。塗り重ねの剥げた、古い面のように。目の位置が、十字に近づいているような気がして、それきり、鏡の前には立っていない。

 窓の下の川は、雨も降らないのに、水位が上がっている。

 夜になると、自分の口が、あの旋律を、口ずさんでいる。

 止めかたを、もう知らない。

 今、机の上には、縫いかけの一体がある。

 ほかのよりも、ずいぶんと、小さい。

 手のひらに乗るほどの、雛。

 彼女は、それを縫い終えようとしている。なぜそうしているのか、自分でも、わからない。けれど、止められない。

 窓の外、川沿いの道を、誰かが歩いている。

 よく見えない。

 けれど、その人は、橋のたもとで足を止め、葦のあたりにかがみこみ、白いものを拾い上げている。

 ハンカチに包んでいる。

 独りごちている、らしい。

「……明日、神社に持っていこう」

 美夜には、聞こえた気がした。

 聞こえるはずのない、声だった。

 彼女の指は、止まらず、雛の首に、新しい赤い糸を巻きつけていく。

 小さな雛の首に、赤い糸が、ひと巻き、ふた巻き。

 川の流れは、今夜も、岸へ、岸へ、と寄っている。


淀みの雛(完)


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