写るもの
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、洋館の客間
霧雨の朝、川嶋紗英は神戸北野の坂を上っていた。
取材先は、観光案内には載らない小さな個人館だった。元は明治末に建てられた商家の洋館で、今は故人の遺族が「来訪可」とだけ記した札を木戸にかけている。観光ルートからは一本外れた路地、苔の生した石塀の奥。SNSでひそかに囁かれるその場所には、古い人形がひとつ、ガラスケースに納まっている――それだけの「博物館」だった。月刊で奇譚や民話の取材を任されている紗英にとっては、半信半疑のうちでも一度は足を運んでおくべき類いの場所だった。
門を開けると、湿った苔の匂いがした。玄関ホールの床板は、踏むたびに細い悲鳴のような軋みを上げる。壁の鏡は曇り、壁紙の薔薇模様は色を失い、海の底の藻のような薄い緑を残していた。
迎えたのは、枯枝のような老人だった。紗英はその目の落ちくぼみ方に、少しだけ怖気づいた。
「写真は、ね」と老人は柔らかく言った。「撮っても構いません。ただ、その前に、ご挨拶をしてください」
「挨拶、ですか」
「はじめまして、と。坊やに。お辞儀をひとつ」
紗英は曖昧に頷いた。記事になるかどうかは、坊やを見てから決めようと思っていた。仕事柄、似たような頼みごとは何度も受けてきたし、そのほとんどは取材の作法のうちに収まる類いの「お約束」だった。
通された客間は、西陽の差し込む南向きの部屋だった。とは言っても今朝は霧で、窓硝子は乳白色に煙り、柱時計の針だけが冴えた音で時を刻んでいる。壁際の暖炉は長く使われた様子がなく、薪入れには古い新聞が、丸めもされず、ただ積まれていた。
ガラスケースは、部屋の中央に据えられていた。木枠は黒塗りで、四隅に細い真鍮の留め金が付いている。
中にいたのは、ひと抱えほどの少年人形だった。古い絹のセーラー服に、すり減った革の小靴。膝の上に、両の手のひらをきちんと揃えて置いている。半開きの口の奥は、薄く影になっていた。瞼は薄く翳っているせいで、開いているのか閉じているのか、はっきりしない。栗色の巻き毛は、こめかみのあたりで切り揃えられ、毛先がほんの少しだけ、潮を含んだようにくたびれていた。日本の細工師の手のものではない、と紗英は直感した。顔つきが、どこか、こちらの土地の子供のものではなかった。
「タカシ、と呼んでいます」
「お孫さんの、ですか」
「いえ。坊やがそう名乗ったのです」
老人はそう言って、紗英の返事を待たずに頭を下げた。「はじめまして、タカシくん。お客様ですよ」
紗英は曖昧に微笑んで、形ばかり頭を下げた。お辞儀の角度は、確か、十五度くらいで足りるはずだった。
ケースの中で、人形の頭が、ほんの僅か、傾いた気がした。
二、撮りはじめ
老人は紗英を残し、台所のほうへと姿を消した。客があれば茶を出すのが習いです、と短く言い置いて。
紗英はメモ帳を取り出し、それから携帯電話を構えた。
「失礼します」と、口の中で呟いた。挨拶のつもりだった。あの「はじめまして」のかわりとして、これで十分だ、と紗英は自分に言い聞かせた。
シャッター音は、客間の空気をかすかに乱した。一枚、二枚。
画面の中の坊やは、しんと俯いていた。何度撮ってもかわらない、という安心と、何度撮ってもかわらない、という妙な物足りなさが同時にあった。三枚目、紗英は少し屈んで、坊やと視線が合うように構えた。
そのとき、確かに、何処かで、子供の笑い声が聞こえた。
くすくす、と。短く。
紗英は顔を上げた。客間の扉は閉まっている。窓の外は霧で、坂を下る人影もない。柱時計の音だけが、相変わらず冴えていた。気のせい、と紗英は思った。古い洋館はそういう音を作る。木が湿って軋む、その音を耳が形に変える。
撮影を続けた。坊やの頭、坊やの靴、ガラス越しの坊やの全身。レンズを近づけると、頬の塗りの罅が、まるで老人の皺のように細かく見えた。塗料の下に、まだ何か別の顔が隠れているような、そんな感覚があった。
ふと、ケースの硝子に自分の輪郭が映り込んだ。霧の白い客間で、紗英の姿はくっきりとしすぎていた。ガラスは、あまりに澄みすぎていた。曇りひとつ、塵ひとつ、留まっていない。誰かが、ごく最近、丁寧に拭いたばかりのような硝子だった。誰が、と紗英は思って、思うのをやめた。
帰り際、奥から老人を呼び、お礼を言った。茶は出てこなかった。
「また、いつでも」と老人は静かに笑った。「ただ、写真は、お大事に」
坂を下りるあいだ、霧は紗英の髪と肩にひどく重く降りた。革靴の音が、自分のものより一拍遅れて、後ろからも聞こえている気がした。振り返ると、坂は無人だった。それでも、湿った石畳に、自分のものではない小さな足跡が、点々と続いて、紗英の足元のあたりで途切れていた。雨に消された、と思いたかった。
帰路の電車で、紗英は撮った写真を見返した。
一枚目、坊やは正面を向いている。
二枚目、坊やはやや右を見ている。
三枚目――坊やは、紗英のほうを真っ直ぐに見ていた。
さっき、視線が合うように構えて撮った、と紗英は思い出した。だから、これでいい。
四枚目に進めた指が、止まった。
四枚目の坊やは、ガラスの中で、笑っていた。
三、写真の中
夜半、紗英は目を覚ました。
何の音、と問うまでもなく、笑い声は止んでいた。けれど、いま止んだ、という確信だけが残っていた。
枕元の電灯を点ける。シーツの上に、湿った砂のような粒が、点々と落ちていた。指で摘まんでみると、それはどこかの庭の土で、けれど神戸の丘の土のような、鈍い赤さがあった。窓は閉まっていた。窓は確かに、寝る前に閉めたはずだった。
携帯電話を手に取り、写真を開く。
最初の一枚から、順に。
紗英は息を呑んだ。
すべての写真の坊やの肩越しに、ぼんやりと、女の影が立っていた。
一枚目では遠く、客間の隅に。二枚目ではやや近く、ケースの斜め後ろに。三枚目ではすぐ後ろに、坊やの肩に手を添える距離で。
四枚目に至って、女の顔が、ガラスケースの硝子に映り込んで、はっきりと、紗英を見ていた。
鳶色の髪、淡い色の瞳、白い前掛け。襟の高い、古い形のお仕着せだった。前掛けには、小さな黒い染みがいくつか、まだ生々しい色で残っていた。手の甲に、紗英のものとは違う、彫りの深い指の節が見えていた。それは、どこか温かい国の、潮風と陽射しに馴染んだ手だった。
日本人では、なかった。
昼間、客間の窓は乳白色に煙っていた。あんなふうにガラスが景色を映すはずがないと、頭の片隅が冷たく言った。
紗英は写真を消した。一枚ずつ、確かに削除した。
削除済みフォルダも空にした。
そうして、画面を伏せて、枕元に置いた。
五分後、振動と共に、低く、通知音が鳴った。
携帯の写真フォルダに、写真が四枚、戻っていた。一枚も、欠けることなく。
四、戻る坊や
朝になっても、霧は晴れなかった。
紗英は始発で坂を上った。鞄の中の携帯は、ずっと、ほのかに熱を持っていた。
木戸を叩くと、老人はすぐに開けた。寝ていなかったような顔をしていた。紗英は何も言わず、客間に通してもらった。
ガラスケースは、空だった。
台座の上に、坊やの靴のかたちに、薄い影だけが残っていた。台座を覆っていた薄布は、誰かに丁寧に畳まれて、ケースの隅に置かれている。鍵は、外側からかかったままだった。
「戻ったのですね」と、老人は背後で言った。「あなたのところへ」
「私は、何もしていません」
「写真を、撮りましたから」
老人の声音は責めてはいなかった。むしろ、呆れてさえいなかった。ただ、長く繰り返されてきた事実を、ひとつ確認するような言い方だった。
「以前にも、坊やを連れて帰られたかたがいらっしゃいました。何人も。坊やは、写されたお家へ、お行きになるのです。挨拶を抜いて写されると、坊やは、その人を、新しいお家のかただと思われる。そういう、お決まりごとのようでして」
「処分は、できないのですか」
「焚けません。河に流しても、戻ります。お寺は、お受け取りにならない。坊やは、名のあるお家のものです」
老人は煙草をくゆらせるような仕草をした。けれど煙草は持っていなかった。
「明治のころ、当家でお仕えになっていた異邦の女中が、坊ちゃまにと残された人形でしてね。本国は、ずっと南のほうのお国だったと聞きます」
「女中、ですか」
「ええ。何の咎もなく、お暇を出された日に、坊ちゃまだけにそっと渡して、行方知れずになりました。お国が遠うございましたから、お戻りにもなりますまい。坊ちゃまは、その後ご病気で、お亡くなりになりまして、ご家族はこの坊やを、形見として、ガラスの中に納めたのです」
老人はそこで、ほんの少し間を置いた。
「女中は、坊ちゃまを、本当に可愛がっておられました。お国の言葉で、子守唄をうたって差し上げていたそうです。坊ちゃまが亡くなる前夜、女中の唄を聞いた、と申されたとか。誰も、もう、お屋敷にはいなかった頃に」
それきり、坊やは、出たり、入ったりするのだという。出るのは、どこへ。入ってくるのは、どうやって。問いかけは、紗英の喉の途中で止まった。
携帯が、鞄の中で熱い。震えている。
取り出すと、写真が一枚、新しく増えていた。
紗英の自宅の客間だった。誰も住んでいない時間の、見慣れた畳の部屋。その部屋の真ん中に、見覚えのある坊やが、座っていた。
にこやかに、こちらを見て。
五、はじめまして
戻った家の鍵は、いつも通りに回った。
玄関を上がる前、紗英は深く息を吸った。靴を揃え、廊下を進む。途中、家の中の音をひとつだけ確かめた。柱時計の音はしない。代わりに、湿った布が床に擦れるような、ごく淡い音がした。
客間の襖を、一寸ほど開ける。
畳の上、座布団の真ん中に、坊やが座っていた。
セーラー服の襟の白さが、薄暗い室内に淡く浮いている。半開きの口の奥は、夜のように暗い。膝の上の手のひらは、北野で見たときと、寸分違わず揃っていた。
紗英はそろりと膝をつき、両手を畳について、頭を下げた。
「はじめまして、タカシくん」
低く、穏やかに。声は、思ったよりまっすぐに出た。
顔を上げると、坊やの首が、ほんの僅か、傾いた。気のせいかもしれなかった。気のせいだとは、もう、思えなかった。
紗英は襖を静かに閉めた。
台所で、湯を沸かす。湯のみをふたつ並べ、ひとつには麦茶を、ひとつには――形だけ、何も入れずに。盆に載せて、襖の前に置いた。盆の脇に、座布団をもうひとつ。客のための座布団だった。
仕事机の引き出しから、新品のノートを出した。表紙に、油性ペンで「お約束」と書いた。ページの一行目にだけ、こう書いた。「お越しの際は、まず、ご挨拶を。お辞儀をひとつ。それから、坊やに、はじめまして、と」。残りのページは、白紙のまま、机の上に置いた。
携帯電話の写真フォルダは、空のままだった。坊やを撮ろうとしても、シャッター音は鳴らなかった。それでよかった。
夜、紗英はパソコンを開いた。記事を書くつもりだった、北野の小さな館の話を。
書き出し四行のところで、画面が黒く落ちた。
直後に、メールが届いた。
件名は、無題。差出人は、知らない学生のアドレスだった。
本文には、見覚えのない若い男の文字で、こう書かれていた。
「先日は失礼しました。坊やを、撮らせていただきたいのです。明日、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「先日は」と、文面は確かにそう始まっていた。
紗英は、しばらく画面を見つめた。
それから、返信を打った。
「お越しの際は、まず、ご挨拶を。お辞儀をひとつ。それから、坊やに、はじめまして、と」
書きながら、北野の老人の声が、自分の中で、自分の声と区別がつかなくなっているのに気がついた。ずっと前から、こうしてメールを書いてきたような、そういう手つきだった。
送信ボタンを押すと、画面の隅で、シャッター音にも、子供の笑い声にも似た、短い通知音が鳴った。
襖の向こうで、くすり、と、低い、子供の笑い声が、した。
写るもの(完)




