跫音、近づく
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
一、事故物件、十二畳
諏訪部公平が新居に決めた部屋は、不動産屋が言いにくそうに口ごもる類のものだった。
都心へ電車で三十分。築十八年、二階建ての二階。十二畳の1Kで、家賃は相場の半分以下。礼金も敷金も、いらないという。
「正直にお話ししますと――その、事故物件です」
カウンター越しの中年の男は、書類の上で指を組んだまま、視線だけを諏訪部に向けた。
「三年前、ここに住んでいた女性が亡くなりました。寝ているところを、首を絞められて。犯人は、まだ捕まっていません」
諏訪部は、そうですか、とだけ言った。
卒業して一年が経つ。就職活動は、四十社目の不採用通知を最後に止まったきり、再開できる気力がない。実家からの仕送りはもう打ち切られ、預金は底を突きかけていた。アルバイトの掛け持ちで凌げるうちに、家賃だけは安く抑えなければならなかった。選り好みできる立場ではなかった。
書類にサインをするとき、不動産屋は何度も「気になることがあれば、すぐに言ってください」と繰り返した。
気になること、と諏訪部は心の中で復唱した。
たとえばそれは、何だろう。
引っ越しは午後早くに済んだ。段ボールは六つ。机と布団と、小さな冷蔵庫。それだけが、諏訪部の生活のすべてだった。
壁紙は新しく張り替えられていた。床も、流しの蛇口も、換気扇も。すべてが事件のあとに整えられた清潔さで、しかしどこか、整えすぎた違和感があった。やけに白い。やけに無臭だ。
ただ一箇所、押入れの内側の上の隅に、拭き取りきれなかった小さな染みが、薄茶色に滲んで残されていた。
諏訪部は見なかったことにした。
日が落ちるまでの数時間、ベランダに出て、近所のスーパーと、コインランドリーと、ゴミ捨て場の場所を確認した。コンビニの弁当を食べ、シャワーを浴び、布団を敷いた。
布団は、部屋の片隅、押入れの前に敷いた。奥の壁際にコンセントがあったからだった。
枕元に携帯電話の充電器を差し込み、明かりを落とし、目を閉じた。
新しい家の匂いには、塗料と、誰かの生活の残り香と、それから、嗅ぎ慣れない湿った匂いが、わずかに混じっていた。
寝入る間際、諏訪部はふと、部屋の中央あたりで、空気が、ほんのわずかに、ためらうのを感じた。
誰かが、入ってきていいか、躊躇うような――そんな間が、空気に、あった。
気のせいだと、彼は自分に言い聞かせた。
新しい家は、誰でも、最初の夜は、こういうものだ。
二、初夜の跫音
諏訪部が目を覚ましたのは、午前二時四十七分だった。
携帯電話の画面が、暗闇のなかで青白く光っていた。
喉が渇いていた。水を飲もうかと思ったが、起き上がるのが億劫で、そのままじっとしていた。
そのとき、聞こえた。
押入れの、いちばん奥のあたりから。
ぺた、と。
なにかが、フローリングを踏む音。
ぺた、ぺた。
足音だった。間違いなく。
裸足の――それも、踵を浮かせて、つま先からそっと下ろすような、誰かを起こさないように歩く足音。
家の中で、子供が親の寝室に忍び込むときのような。あるいは、死んだ家族の遺体に、最後の別れを告げに行くときのような。
諏訪部は息を止めた。
自分以外、この部屋に誰もいないはずだった。鍵はかけた。窓も閉めた。
押入れの中なら、と一瞬思ったが、襖の前に段ボールを積んでしまっていた。あれを動かせば、必ず音がする。
段ボールは、引っ越した時のまま、何も動いた形跡はなかった。
ぺた、ぺた、ぺた。
足音は、少しずつ、こちらに近づいてくる。
押入れの前から、部屋の中央へ。中央から、布団の足元へ。
速くもなく、遅くもなく。一定の歩幅で、ためらいなく。
しかし、踏み込みは、奇妙に控えめだった。眠っている誰かを、起こさないために。
ぺた。
足音は、枕元のすぐ脇で止まった。
布団のへりから、十センチも離れていない場所。
諏訪部は、目を開けることができなかった。
そこに、なにかが立っている。間違いなく。
息遣いは、なかった。気配だけが、温度を持って、覆いかぶさるようにそこにあった。
頬の真上、ほんの数十センチのところに、何かが、屈み込んでいるような――そんな圧。
何分、そうしていただろうか。
気がつくと、足音はもう聞こえず、温度も消えていた。
ようやく目を開けたとき、部屋には、引っ越したばかりの段ボールが、闇の中で頼りなく積まれているだけだった。
時計を見た。午前二時五十二分。たった五分のことだった。
しかし、その五分は、何時間にも引き伸ばされた、別の何かのような時間だった。
朝になって、諏訪部は、自分が夢を見たのだと思おうとした。
新しい家の、緊張のせいだと。
そう思おうとした。
ただ、布団の脇のフローリングに、薄く、人の足の輪郭をした湿り気が残っているのを、見ないようにしながら。
それが、陽が昇るにつれて、ゆっくりと蒸発して消えていくのを、見ないように、しながら。
三、午前二時四十七分
しかし、夢ではなかった。
翌日も、その翌日も、足音はやって来た。
時刻は決まっていた。午前二時四十七分。
諏訪部は、いつしか目覚まし時計のように、その時刻に目が覚めるようになった。
押入れの前から、ぺた、ぺた、ぺた。中央へ。布団の足元へ。そして、枕元の脇で、ぴたりと止まる。
四日目の夜、諏訪部は、震える手で携帯電話を取り出した。
事件のことを、調べた。
被害者は、二十三歳の女性だった。飲食店で働きながら、デザインの専門学校に通っていたという。事件のあった夜、彼女はバイトを終えて帰宅し、入浴して、布団に入った。それから、誰かが部屋に入り、彼女が眠っているところを、首を絞めた。
玄関の鍵は、こじ開けられた形跡があった。窓には、傷ひとつなかった。
記事には、こうも書かれていた――犯人は、女性が事切れてから、何分かそこに立っていたのだという。
床に残された足跡は、女性のものでも、捜査員のものでもなかった。
押入れの前から、布団のあった場所まで。それから、布団のあった場所から、玄関へ。
ご丁寧に、足のサイズと、歩幅まで、図解で記事に載っていた。
諏訪部は、画面を消した。
携帯電話を握りしめたまま、布団の中で、しばらく動けなかった。
事件があったのは、まさに、自分が今、布団を敷いている場所だった。
そして、毎晩、自分のもとへ歩いてくる足音は――押入れの前から始まっている。記事の図解と、ぴたり同じ位置から。
それからの諏訪部は、おかしくなっていった。
昼間、外へ出ても、頭の中に足音が響いていた。
ぺた、ぺた、ぺた。ぺた、ぺた、ぺた。
電車のなかでも、コンビニのレジに並んでいるときも、規則正しい歩幅で、何かが、こちらに近づいてくる気配があった。
バイト先の同僚に「顔色、悪くない?」と言われた。鏡を見ると、目の下が落ちくぼんで、唇が乾ききっていた。
通りすがりの主婦が、子供の手を引いて、すれ違いざまに、ちらりと諏訪部を振り返ったことがあった。子供は、振り返らなかった。子供のほうが、何も見えていない、というふうな顔をしていた。
夜は、眠れなかった。
眠れないまま、二時四十七分を、待つようになった。
足音が来る。来て、止まる。気配が、覆いかぶさる。
そして、何分か後に、消える。
その繰り返しを、諏訪部は、いつしか、息を殺して数えるようになっていた。
止まったまま動かない気配の前で、息を吐くことは、決して、してはならない気がした。
四、塩の線
このままでは、もたない。
諏訪部は、確かめなければならないと思った。
ホームセンターで、暗所撮影のできる小型カメラを買ってきた。電池式で、押入れの上の棚に取り付けると、ちょうど布団のあたりへ画角が向く。
その夜、諏訪部はカメラを起動して、布団に入った。
二時四十七分。
足音が、聞こえた。
来た。来た。止まった。
気配が、降りてきた。
何分か後に、消えた。
夜が明けて、彼はカメラを取り外し、映像を確認した。
映っていたのは、無人の部屋だった。
彼自身が、布団のなかに横になり、目を閉じている姿。
それだけだった。
足音の音は、マイクが拾っていた。確かに、ぺた、ぺた、ぺた、と音は記録されている。
しかし、画面のなかには、誰の姿もない。
諏訪部は、もう一度、再生した。
そして、気づいた。
二時四十七分。足音が、押入れの前で始まる、その瞬間。
布団のなかの自分が、わずかに、身じろぎをしている。
肩が、ほんのわずか、上下する。
息を、吸って、止めるような。
そして、足音が止まると、自分の身体は、動かなくなる。
息を、止めたままで。
気配が消えて、ようやく、自分の身体は、また呼吸を始める。
足音は、自分の中の何かに、合図を送っていた。
あるいは――自分の中の何かが、足音を、招き入れていた。
諏訪部は、カメラを床に置いた。
気がつくと、自分の手のひらが汗で濡れていた。
窓の外は、薄ら明るくなり始めていた。
その夜、諏訪部は、布団の脇に塩を盛った。子供の頃に、祖母がよくやっていた、おまじないのようなものだった。コップの底ほどの小さな盛り塩を、四つ。布団の四隅に。
二時四十七分。
足音が、聞こえた。
押入れの前から、こちらへ。
足音は、布団の足元で、止まった。
そこから先には、来なかった。
諏訪部は、安堵した。
塩が、効いたのだと思った。
明日からは、眠れるかもしれない。
そんなふうに、希望めいたものまで、ほのかに胸に灯った。
しかし、明け方、目を覚ましたとき、彼は気づいた。
塩は、誰かの手で、きれいに、布団の脇から押入れの方へと、線を引くように、まっすぐ寄せられていた。
四つの盛り塩は、ひとつに繋がって、白い細い帯になって、押入れの襖の下に、吸い込まれるようにして消えていた。
そして、線の先には、ふたつの足跡が、湿った染みとして、残されていた。
朝の陽光のなかで、それは、まだ少しだけ、湯気を立てていた。
五、住みつく場所
諏訪部は、出ていくことに決めた。
不動産屋に電話をして、契約を解除したいと告げた。違約金が発生すること、入居して二週間も経っていないことなどを、いろいろ言われた。それでも、彼は出ていきたかった。
部屋を出る前夜、彼は布団を片付けず、カメラだけを枕元に置いて眠った。
最後の夜だった。
足音さえ、もう聞こえてくれるなと思った。
二時四十七分。
足音は、来なかった。
諏訪部は、目を開けた。
押入れの前は、暗かった。何の音もしなかった。
ようやく、終わったのだと、彼は思った。
あれは、この部屋にいる、何かだったのだ。だから、ここを出れば、もう関係がない。
そう思いたかった。
明けてから、荷物をまとめ、不動産屋に鍵を返し、ビジネスホテルに移った。
新宿駅の近くの、安いホテルだった。十階の角部屋。
チェックインを済ませ、ベッドに身を投げ出して、彼は深く眠った。
何週間ぶりかの、きちんとした眠りだった。
夢も見ない、底のような眠りだった。
目が覚めたとき、ホテルの部屋は、まだ暗かった。
枕元の電子時計が、午前二時四十七分を、青白く照らし出していた。
ぺた。
部屋の隅から、聞こえた。
ぺた、ぺた。
慣れた足音だった。
押入れの前から始まる、あの足音と、まったく同じ歩幅。
諏訪部は、目を閉じた。
布団の中で、息を止めた。
ホテルには押入れなどない。ただのクローゼットがあるだけだ。それでも、足音は、決まった一点から、こちらへ向かって来ていた。
足音は、ベッドの脇で、止まった。
気配が、覆いかぶさる。
温度が、降りてくる。
諏訪部は、気がついた。
あれは、被害者の足音ではなかったのかもしれない。
犯人の足音でも、なかったのかもしれない。
あの部屋に、ずっと、いて。誰かが、そこで、眠るのを、毎晩、待っていた、何かの足音だったのかもしれない。
そして、それは、部屋に住みついていたのではなかった。
眠る人間に、住みついていたのだった。
あの部屋で、彼が最初に布団を敷いて目を閉じた、あの瞬間に。
ぺた、と、最後の一歩が、ベッドの脇で止まった。
諏訪部は、目を開けないまま、口の中で、小さく呟いた。
誰かの名前のような、何かを。
それが、自分の名前なのか、被害者の名前なのか、それとも、まったく別の、自分の知らない誰かの名前なのか、彼にはもう、わからなかった。
部屋の中の、温度が、ゆっくりと、頬に近づいてくる。
明日も、明後日も、来年も、十年後も。
午前二時四十七分には、必ず、それは、来るのだろう。
彼が眠るかぎり――。
そして、彼は、眠らずには、いられないのだった。
跫音、近づく(完)




