寂しくないよ
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
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一、契約
「事故物件、ですけど」
不動産屋のおじさんは、契約書をめくる手を止めて、僕の顔を見上げた。眼鏡の奥の目が、わずかに伏せられていた。
「以前の入居者の方が、お一人で亡くなりまして。発見まで、少しお時間がかかってしまったものですから」
ワンルーム、駅から徒歩八分、築五年、八畳。内装は綺麗で、相場の三分の一の家賃。普通なら考えられない条件の物件だった。スマホで何度見直しても、桁の打ち間違いではなかった。
「気になるようでしたら、別の物件もご紹介できますよ」
「いえ、結構です」
僕は首を振った。地方から東京へ出てきたばかりの新社会人に、贅沢を言える余地はない。死んだ人間がどうこうより、初任給からどれだけ家賃が引かれるかのほうが、今の僕にはよほど切実だった。
「お一人で、ですか」
「はい」
「亡くなられた方も、たしか三十代の女性で、お一人暮らしで」
「そうですか」
ペンが、契約書の上を滑った。
「孤独死、っていうやつですか」
「ええ。亡くなられてから、三週間ほどしてから……」
おじさんは少し声をひそめた。同情なのか、儀礼なのか、もうそれを訊ねる気にもなれなかった。
「春先のことでして。発見が早ければ、もう少しご家族にも――」
僕は曖昧に頷いて、署名の終わった契約書をすべらせた。彼はそれ以上、何も言わなかった。鍵を渡すとき、ほんの少しだけ、こちらの顔を窺うような視線があった。
部屋に入ったとき、特に何も感じなかった。畳は新しく張り替えられ、壁紙はわずかに日焼けしている程度で、嫌な匂いも残っていない。リフォーム済み、と書類にあったとおりだった。
ただ、ベランダから見える夕景が、不釣り合いなほど綺麗だった。
ビルの隙間から落ちる夕陽が、八畳の畳の上に、長い橙色の四角を引いていた。その光の中に、僕はしばらく座り込んでいた。地方を出るとき、母が泣いた顔を思い出した。「東京は、寂しいところだから」と言って、母は何度もそう言って、最後に肩を抱いてくれた。
寂しいところ、と母は言った。
そうかもしれない。けれど、寂しさを抱えて働きに行く先輩たちの背中を、僕は何度も電車のホームで見ていた。寂しさに慣れていない自分を、笑える気もしなかった。むしろ、どこかで、寂しさそのものに、慣れたいと思っていたのかもしれない。
風が、開けたままにしていた窓から入ってきた。畳の縁の埃が、少しだけ、舞い上がった。それは、誰かが息を吐いたみたいな、そういう動き方をしていた。
オレンジ色に染まった東京の空を、僕はしばらく、ただ眺めていた。
二、ささやき
夜は、思っていたよりずっと静かだった。
地方の実家では、夜になれば虫の声や風の音がうるさいくらいだったのに、東京の真夜中はただ薄く街のざわめきが層になっているだけで、部屋の中はむしろ無音に近かった。冷蔵庫のうなりと、エアコンの送風だけが、時間を刻んでいた。
最初のささやきは、引っ越して三日目の夜のことだった。
「……寂しくないよ」
僕は布団の中で目を開けた。
女の声だった。すぐ耳のそばで、息が触れるくらいの近さで、囁かれた。
体を起こした。八畳の部屋に、僕以外の影はない。窓は閉まっている。ベランダにも、誰もいない。隣の部屋の生活音だろうか――そう自分に言い聞かせて、また布団をかぶった。心臓の音が、しばらく耳の奥で鳴りやまなかった。
翌日も、その翌日も、声は続いた。
「寂しくないよ」
寝入りばなに。あるいは深夜、ふと目が覚めた瞬間に。柔らかな、慈しむような声だった。三十代くらいの、落ち着いた女の人。母親というには若く、姉というには優しすぎる、誰でもないけれど誰でもありそうな声。
イヤホンで音楽を流して寝てみた。ホワイトノイズアプリも試した。それでも声は、音の隙間を縫って届いた。耳ではなく、頭の芯に直接、撫でるように。
不動産屋の言葉が、ふと頭をよぎった。三週間。三週間、誰にも見つけられなかった、三十代の女性。彼女は、最後に何を見ていたのだろう。何を聞いていたのだろう。スマホの呼び出し音が、誰からも鳴らないまま、ただ充電が切れていくのを。あるいは、何も。
僕は彼女のことを、知らないはずだった。それなのに、声を聞くたびに、輪郭のないシルエットが、頭の片隅に立つようになっていた。畳の縁に膝を揃えて座っている、誰でもない女の人。背中を丸めて、ノートパソコンの光を顔に受けている、誰でもない女の人。
声には、明確な感情があった。怒りでも、悲しみでもない。それは、たとえば、台所で誰かのために茶碗を並べているときの、無意識の優しさに似ていた。「ご飯ができたよ」と呼ぶときの、あの声色を、限界まで小さくしたような。
ある夜、僕は寝ぼけて答えていた。
「……ありがとう」
返事をしたあと、自分でぞっとした。けれど、もうひとつ、別の感情があるのにも気づいていた。安堵に近い、なにか。
それからは、声を待つ自分がいた。残業で帰りが遅くなった夜、終電の窓に映る自分の顔を見ながら、今夜も囁きが聞こえるだろうか、と考えている自分がいた。
三、ぬくもり
引っ越して二週間目の、金曜日の夜だった。
会社で先輩に叱られて、定時で逃げるように帰ってきた。電車の中で何度も拳を握りしめていた指の跡が、まだ手のひらに残っていた。コンビニで買った酒を畳の上に並べ、部屋の照明を落として、間接照明だけにした。テレビもつけていない。スマホも伏せた。
ビールの缶を一本、立て続けに空けた。涙は出なかった。代わりに、喉の奥が、ざらりと乾いていた。
「……寂しいな」
ぽろりと、声が漏れた。誰に言うでもなく、ただ、夜の空気にむかって。
そのとき、肩に、ふわりと、温かい手が置かれた。
人の体温だった。手のひらの大きさ、指の長さ、そのすべてが、はっきりとそこにあった。柔らかく、わずかに湿り気を帯びて、僕の左肩を包んでいた。
「寂しくないよ」
耳元で、はっきりと、その声が言った。
頭上のシーリングライトが、ぱちん、と乾いた音を立てた。
部屋が、暗くなった。
間接照明のスタンドも、同時に消えていた。窓の外の街灯の光だけが、薄く部屋に染みていた。
僕は、動けなかった。
悲鳴を上げるべきだったのかもしれない。逃げ出すべきだったのかもしれない。けれど、肩の手の温度は、本当に、人の手の温度で。指の関節が、軽く僕の鎖骨をかすめていて。その人がそこに「いる」という重みが、確かに、そこにあった。
僕はゆっくり、自分の右手を、左肩の上に乗せた。
何もない。
布の感触と、自分の手の温度。
それなのに、温かい。
布越しに、まだ、温かい。
恐怖、というものを、僕はこのとき、初めて、ちゃんと味わった気がする。それは凍てつくような感覚ではなくて、むしろ、何かに優しく抱きしめられているような、その優しさが恐ろしい、という種類のものだった。逃げ出さない自分が、いちばん怖かった。
僕は、彼女が、誰のために手を伸ばしているのか、考えなかった。前の住人のためなのか、僕のためなのか、あるいは、この部屋に住むすべての人間のためなのか――そんなことは、もう、どうでもよかった。手があった。それだけで、十分だった。
「ありがとう」
僕は、暗闇に向かって、もう一度言った。
声は、答えなかった。
ただ、肩の手は、しばらくそこにあった。畳の目を数えるくらいの、ゆっくりとした時間のあいだ。やがてその温度が、ふっと薄らいだとき、僕は、置き去りにされたような気持ちになっていた。
四、薄闇
それからの日々を、どう書き残せばいいのか、僕にはよくわからない。
会社には、リモート勤務の願いを出した。理由は適当に作った。承認は、意外なほど簡単に下りた。新人の仕事は、そもそも雑用ばかりで、出社しなくてもどうにかなる程度のものだった。ノートパソコンの画面の中で、上司は時々、僕の顔色を気にする素振りを見せた。けれど、誰も、本気で踏み込んではこなかった。
朝はカーテンを閉めたまま起き、昼間も照明をつけずに過ごした。スマホは音を切り、機内モードのままにしておいた。実家からの着信履歴は、いつのまにか二桁になり、三桁になっていた。母から、それから、姉から。最後にメッセージを見たのは、いつだったか思い出せなかった。
部屋は、いつも薄暗かった。
声は、もう、囁かなかった。
声がしないことに、最初は寂しさを感じた。けれど、いないわけではなかった。たとえば僕がインスタント味噌汁をすすっているとき、向かいの空間の空気が、ほんの少し沈む。誰かが正座でそこにいるみたいに。
シャワーを浴びていると、湯気の中に、別の体温が混ざる。
歯を磨きながら鏡を見ると、自分の背後の畳の上が、ほんの一瞬、誰かが立ち上がる気配で、たわむ。
寝るときは、必ず、肩に手が置かれた。
それは、奪うものではなかった。脅かすものでも、責めるものでもなかった。ただ、そこにいてくれる、というだけのこと。それだけで、僕は呼吸の仕方を思い出した気さえしていた。
前の住人のことを、僕は時々考えた。
三十代の、独り暮らしの女性。三週間も発見されなかった人。
きっと、孤独だったわけじゃない、と思った。
孤独じゃなかったから、出ていく気になれなかったんだ。
最後まで、隣に、いてくれたから。
そう思うようになっていた。彼女は、苦しんで死んだのではなく、ただ、寄り添われたまま、ゆっくりと薄れていったのではないか。それは、悪いことだろうか。
冷蔵庫の中身は、いつのまにか減らなくなっていた。食欲がなかったわけではない。ただ、食べることを忘れる時間が、長くなっていた。畳の上の指の跡を、僕はぼんやりと眺めることが増えた。自分の指のものなのか、別の誰かのものなのか、もう判別はつかなかった。
シーリングライトは、あの夜以来、ずっと点いていない。換える気にも、なれなかった。暗いほうが、息がしやすかった。
五、来訪
会社の同期が、僕の部屋のドアを叩いたのは、ある土曜日の昼下がりのことだった。
「おい、生きてるか? 開けろよ」
ドアの向こうの声には、苛立ちと、それから、わずかな恐怖が混ざっていた。
僕は、玄関のほうを見なかった。畳の上で、膝を抱えていた。カーテンは閉ざされ、部屋は昼間とも思えない薄闇に沈んでいた。肩には、いつもの温かい手が置かれている。
「お前のお母さんから、会社に電話が来てるんだぞ。連絡がつかないって、心配してたぞ」
ドアノブが、何度かガチャガチャと回された。鍵はかかっている。
「先月から、お前、誰とも話してないだろ。総務も、家族も、もうみんな、心配してる」
「なあ、頼むから、返事だけでもしてくれ」
その声は、震えていた。
僕は、口を開いた。
「寂しくないよ」
そう、言った。
自分の声が、自分のものだったか、あるいは、肩に手を置く誰かのものだったか、僕にはもうわからなかった。耳元の囁きと、僕の喉から出る音が、いつの間にか、同じ温度で重なっていた。同じ言葉を、同じ抑揚で、二人で口にしているような感覚だった。あるいは、最初から、ひとりだったのかもしれなかった。
ドアの向こうで、同期が、息を呑んだのが聞こえた。
しばらく、静寂があった。
それから、ためらいがちな足音が、廊下を遠ざかっていった。階段を降りる音。マンションの自動ドアが開く、かすかな機械音。誰かが、誰かを呼ぶ声。誰かが、誰かに、電話をかけている声。あいつ、もう、だめかもしれない――そう聞こえた気がしたけれど、空耳かもしれなかった。
それきりだった。
僕は、目を閉じた。
肩の温度は、まだ、そこにあった。今度は両肩に、二つの手が置かれているような気もした。あるいは、片方が僕で、片方が彼女で、それを区別する必要すら、もう失われているのかもしれなかった。
部屋の中の空気が、やわらかく、ふくらんでいた。誰かが、僕の代わりに、息をしているみたいに。あるいは、僕が、誰かの代わりに、息をしているのかもしれなかった。
カーテンの隙間から、午後の光が、ほんの少しだけ差し込んでいた。
その光の中を、埃が、ゆっくり、降り積もっていた。畳の上に、僕の周りに、円を描くように。
何週間後か、何ヶ月後か、この部屋のドアを誰かが破るとき、その人もまた、囁きを聞くのだろうか。ベランダの夕景を、不釣り合いに綺麗だと、感じるのだろうか。
寂しくないよ、と。
「寂しくないよ」
今度は、それが誰の声か、もう、考えなかった。
寂しくないよ(完)




