赤い風呂
AIに設定を読み込ませて執筆された、ホラーショートストーリーです。
一、 家賃三万八千円
結城のはたいた畳が、湿った息を吐いた。
六月の終わり、東京の下町。築四十年の木造アパート、二階の角部屋。家賃三万八千円。広告の隅に「告知事項あり」と小さく書かれていた。
不動産屋の老婆は契約書を寄越しながら、申し訳なさそうに前の入居者の話をした。三十代の女性が、浴槽で、と。声を落とし、最後まで言わずに目を伏せた。重要事項説明を済ませて、彼女はあとは俺の責任だという顔で帰っていった。
結城は気にしなかった。フリーのイラスト仕事で食いつなぐ身に、選り好みする余裕はない。心霊だろうが事件だろうが、家賃が払えないことよりは、ずっと怖くなかった。原稿料の振込みが二か月遅れている雑誌が、いまも机のなかにある。
アパートは、路地の奥に身をすくめるように建っていた。蔦が外壁を半ばまで覆い、二階の窓には、どの部屋もぴったりと内側からカーテンが引かれていた。隣室にも下の部屋にも、生活の音はしない。だが、ポストには新聞が差してあった。誰かは、たしかに住んでいるらしかった。
段ボールを開ける前に、まず風呂を見にいった。どんな部屋か知っておきたかった。
浴室は、奇妙なほど綺麗だった。白いタイルは目地まで磨かれ、浴槽にも黒ずみひとつない。死人が出た部屋とは思えない。むしろ、誰かが今もここを使っているように、しっとりと湿っていた。鏡の縁に、まだ拭い切れていない水滴が一粒だけ残っている。それを指で拭うと、思いのほか冷たく、結城の指先にしばらく感触が残った。
排水口を覗くと、奥のほうで水が小さく動く気がした。配管のなかで、何かが小さく息を継いでいるような音。
結城は浴室の扉を閉めて、自分の鼓動が少しだけ早くなっていることに気づいた。気のせいだ、と口に出してみた。声は壁に吸い込まれ、返ってこなかった。
その晩、シャワーを浴びた。湯は普通に出た。透明だった。
ただ、足元の排水口に流れていく湯が、ほんの一瞬だけ、薄く色を帯びたように見えた。瞬きをすると、もうただの水だった。
ニ、 染まる白
二日目の朝、浴槽は薄く色づいていた。
湯船の底に、夕焼けのような桃色の膜が張っている。結城は寝起きの目をこすって、しばらく見つめた。配管の錆だろう、と思おうとした。スポンジで擦ると桃色は素直に落ちて、白いタイルが顔を出した。だが擦るたびに、スポンジのほうが赤く染まっていった。
三日目の朝、また色づいていた。
今度は赤に近い、薄い血の色だった。結城はカビ取り剤を吹きかけて、洗剤の匂いに咳き込みながら磨いた。落ちた。落ちたが、夜になると、また色が滲んできているような気がした。仕事の合間にふと振り返ると、扉の隙間から、白いはずの浴槽の縁が、薄紅に見える。錯覚だ、と言い聞かせた。
四日目、結城は浴室の壁に小さな染みを見つけた。
タイルの目地に、淡い赤の手形が浮いていた。子供の手だった。指がやけに細く、指先が長い。結城は自分の手をその上に重ねてみた。彼の手のほうが、ふた回り大きかった。重ねた指の腹に、ぬるい湿気が伝わった。
不動産屋に電話をかけようとして、やめた。何を言えばいい。手形が出ると言って、笑われたら、いま住んでいるこの部屋以外に行くあてがない。敷金の返還も、まだ望めない時期だった。
彼は手形にカビ取り剤を吹きかけ、ブラシで擦った。タイルの目地に染みた赤は、最後まで完全には落ちなかった。むしろ、擦れば擦るほど、赤の輪郭がはっきりしていくような気さえした。
五日目、結城は前の入居者の名前を調べた。古いポストに残された郵便物の宛名だった。「松宮さよ子様」。検索しても、なにも出てこなかった。事故物件まとめサイトには、住所だけがあった。日付は二年前。死因は、書かれていなかった。書かれていない、ということが、かえって重かった。
六日目、浴室の鏡に、結城ではない誰かの顔が映りかけた、気がした。
見直した瞬間には、湯気の名残のような曇りだけが残っていて、何もない。だが、息を吐いて指で曇りに線を引くと、書いた覚えのない、たどたどしい仮名が浮かんだ。「あ」と「か」が読めた。指紋のあとは、自分のものではなかった。
その夜、寝ぼけ眼で天井を見上げると、誰かが「おかえりなさい」と耳元で言った気がした。
三、水音
七日目の夜、水音で目が覚めた。
壁の向こうから、ざあ、ざあ、と湯を張る音がする。結城は布団のなかで動けなかった。栓は閉めたはずだった。元栓も。何度も確かめた。
それでも音はやまない。やがて、ひたひた、と床を踏む音が混じった。素足で、濡れた床を歩く音だ。浴室から廊下へ。廊下から、また浴室へ。何往復もしている。誰かが、湯の温度を確かめに行くように。
結城は枕元のスマートフォンを握りしめた。光をつける勇気はなかった。明るくしてしまえば、何かと目が合ってしまう気がした。
音が、止んだ。
彼は息を殺して、十数えた。三十数えた。何も起きない。彼は浴室の扉を見にいった。指先が、ひとりでに震えていた。
扉は薄く開いていた。なかから、冷たい湿気が流れだしている。
浴槽は、満たされていた。
赤い水だった。透けて底が見える濃さではない。粘度のある、内臓を煮詰めたような赤。湯気は立っていない。冷たい血のような匂いだけが、ぬるりと鼻孔を撫でた。
壁を見て、結城は声を失った。
小さな手形が、十も、二十もあった。最初に見つけた一つから、らせん状に天井へ向かって増えている。下のほうの手形は最初のままの大きさだったが、上に行くほど、手形は大きくなっていた。少しずつ、ゆっくりと、誰かが背を伸ばしていくように。
最も高い場所、結城の目の高さに浮かぶ赤い手形は、もう子供のものではなかった。
それは、女の手の形をしていた。指の長さが、女の手だった。
浴槽の水面が、ゆっくりと揺れていた。誰も触れていないのに、円を描く波紋が、内側から外へと広がっていた。中心には、ぽっかりと、人ひとり分の窪みがある。たった今まで、そこに肩まで浸かっていた者がいたかのように。
彼は栓を抜いた。赤い水は、ごぼ、と低く笑うような音を立てて、排水口に吸い込まれていった。最後の一滴が落ちる音を聞くまで、結城はその場を動けなかった。
空になった浴槽の底に、新しい一つが浮いていた。
濡れたまま乾かない、女の足跡だった。
足跡は、浴槽の縁を越え、洗い場のタイルへ向かって、点々と続いていた。途中で、ふつりと消えていた。
彼の立っている、ちょうど一歩手前で。
四、 同じ高さ
結城は風呂に入るのをやめた。
コインランドリーの隣の銭湯に通い、部屋では水道の元栓を毎晩閉めた。それでも夜になると、薄く水音が聞こえた。閉めたはずの栓から、誰かが湯を出している。誰かが、湯加減を確かめている。
扉の下から、赤い水が滲んだ夜もあった。慌てて雑巾で拭くと、雑巾は乾いていた。床も乾いていた。彼の手のひらだけが、湿っていた。指紋のあいだに、薄く赤が沈んでいた。爪を立てても、もう取れなかった。
壁の手形を測るのが、彼の日課になった。一日ごとに、新しいものが浮く。一番上の手形は、もう増えなくなっていた。あの女の高さで、止まっている。
かわりに、下のほうで増えていくものがあった。
肩、首、髪。輪郭の断片のような赤い染みが、タイルの白に沈んでいく。最初は意味のないシルエットに見えたが、何日もかけて、それは少しずつ「人がいた」という形を成していった。湯船から立ちあがる、女の影だった。だが、まだ顔だけが、白く抜けていた。
結城は仕事ができなくなっていた。
液晶のなかでペンを握っても、線が震える。震える線が、いつの間にか、湯船から伸びる手の形になっている。彼は液晶を閉じた。両手を見た。指先が、薄く赤かった。爪のあいだに、覚えのない汚れが沈んでいた。石けんで何度洗っても、肌の奥から滲みだしてくるようだった。
銭湯に通うのも、面倒になった。臭くなっていく自分が、だんだん他人のように思えてきた。鏡のなかの男の輪郭が、日ごとに薄くなっていく。先に決まった輪郭をもった「壁の女」のほうが、自分よりずっと此処に存在しているように感じた。
部屋に帰ると、いつも風呂場の扉が、ほんの少しだけ開いている。閉めても、閉めても、朝には少しだけ開いている。なかから、まだ温かい湿気が漂ってくる。
ある夜、結城は気づいた。壁の女の影、その白く抜けた顔の輪郭が、自分の顔の輪郭と、ほとんど同じ大きさだということに。
そのころから、隣室から物音がしないことが、急に気になりはじめた。耳をつけても、人の動く気配はない。けれど、ある朝、廊下に新聞が差してあって、夕方には消えていた。誰かが、差して、回収している。だがその誰かを、結城は一度も見ていない。
もしかすると、と彼は思った。この建物にいる住人の何人かは、もう、自分と同じ状態なのかもしれない。壁にじわじわと滲んでいる途中で、家賃だけを律儀に払い続けている。だから音がしない。だから顔を合わせない。
考えてみると、それはひどく落ち着く想像だった。
五、赤い掌
二十日目の夜、結城は自分から浴室の扉を開けた。
湯船は満たされていた。粘度のある、深い赤。立ちのぼるのは血の匂いではなく、なにか懐かしい、湿った土のような匂いだった。母の胎の匂いに似ている、と彼は思った。なぜそんなふうに思えたのかは、わからなかった。わからないまま、納得していた。
壁の手形は、もう数えきれない。けれど結城は、自分のための場所がそこに残されていることに気づいた。一番下に、ぽつんと一つ、まだ誰も触れていない白い場所がある。彼の手のひらと、ちょうど同じ大きさの空白だった。
結城はゆっくりと、その白に手を押しあてた。
タイルは冷たかった。けれど、押し返すように、内側からあたたかいものが滲んだ。彼の指のあいだから、赤が湧きでた。掌が、壁にぴたりと吸い付いた。引き剥がす気にはならなかった。
服を脱いだ。襟を抜くとき、自分の身体の匂いが、湯気の匂いと同じだと気づいた。
湯に浸かった瞬間、結城は奇妙なほど安らいだ。寒くも熱くもない。粘度のあるものが、彼の腰を、胸を、首を撫でていく。湯のなかで、誰かの指が、彼の指に絡んだ。冷たくはなかった。少しだけ、爪が長かった。
水鏡をのぞくと、結城の顔は映らなかった。
代わりに、女が一人、こちらを見上げていた。穏やかな顔で笑っていた。彼女のうしろに、もう一人、ぼんやりと別の影が立っているのが見えた。それが自分の輪郭であることに、結城は遅れて気づいた。
――次の人が来るまで。
声ではなく、湯の振動として、それは伝わってきた。一緒に、ここにいましょうね、と。
結城は答えなかった。
答える代わりに、湯のなかで、ゆっくりと指を握り返した。
翌週、不動産屋の老婆が合鍵で部屋を開けた。家賃の振り込みが途絶えたからだった。
畳の上に布団は畳まれ、机の上に書きかけのメモと、家賃を半年分前払いした領収書が置いてあった。住人の姿はなかった。
浴槽は綺麗に磨かれ、底にかすかな桃色の膜だけが残っていた。
壁に並ぶ赤い手形のうち、最も新しい一つだけが、まだ濡れていた。男の、大きな手の形をしていた。
その手形のすぐ隣に、ちょうど次の住人が来たときに重ねられそうな大きさの、白い空白が、ひとつだけ残されていた。
老婆はそれを、見なかったことにして、扉を閉めた。
赤い風呂(完)




