記憶の欠片
六月に入ると、夢の質が変わった。
これまでの夢は曖昧だった。光の中に誰かが立っている。口が動いている。しかし声も顔も、目が覚めると消えている。そういう夢だった。
しかし六月に入った最初の夜から、夢が鮮明になり始めた。
最初に戻ってきたのは、音だった。
低い、響くような声。言葉の意味はわからなかった。しかし確かに、誰かが何かを告げていた。命令のような、宣告のような声だった。目が覚めると、その声の余韻だけが耳の奥に残っていた。
次の夜は、光だった。
白ではない。金に近い、しかし金よりも冷たい色の光。その光の中に、巨大な何かがいた。形はなかった。しかし存在だけは確かにあった。圧倒的な、人間とは根本的に異なる何かが、こちらを見下ろしていた。
目が覚めたとき、全身に汗をかいていた。
怖いとは思わなかった。ただ、もう一度目を閉じたいと思った。それだけだった。
***
三日目の夜、初めて言葉が聞こえた。
夢の中で、光の前に立っていた。体は今より軽かった。違う体、というより、今とは違う状態にある同じ体、という感覚だった。
光が語りかけてきた。
「汝に命ずる」
その言葉だけが、はっきりと聞こえた。続きは霧の中に消えた。しかし、その言葉を聞いた瞬間のことは、覚えていた。
胸の奥で何かが跳ね上がった。言葉の意味を理解するより先に、体が答えを知っていた。両の手が固く握られ、喉の奥から声にならない何かが込み上げてきた。怒りに近い、しかし怒りよりも深い、もっと根本的な何かだった。
そこで目が覚めた。
夜明け前の薄暗さの中で、天井を見上げた。手のひらが熱かった。いつもより、ずっと熱かった。
汝に命ずる。
その言葉を、頭の中で繰り返した。
誰が、何を命じたのか。そしてなぜ、あれほど強く抗ったのか。
***
朝食の席で、サクラがこちらを見た。
週末で公爵邸に戻っていた。食堂に差し込む朝の光の中で、サクラは静かにカップを持ちながら、こちらの顔をじっと見ていた。
「顔色が悪い」
「そうか」
「眠れていないの?」
少し考えてから、答えた。
「夢を見た」
「また?」
「今回は少し違った」
サクラはカップを置いた。公爵はまだ席についておらず、食堂には二人しかいなかった。
「言葉が聞こえた。夢の中で」
「どんな言葉?」
「汝に命ずる、という言葉だけ。続きは聞こえなかった」
サクラは黙っていた。薄紅の瞳が、こちらをまっすぐ見ていた。
「……誰の声だった?」
「わからない。ただ」
手のひらを見た。
「人間の声ではなかった。それだけは確かだ」
サクラはしばらく黙っていた。窓の外で鳥が鳴いた。
「記憶が戻り始めているのかもしれない」
静かな声だった。
「そうかもしれない」
「……怖い?」
少し考えた。
「怖くはない。ただ」
言葉を選んだ。
「戻ってくる記憶が、お前にとって都合の悪いものかもしれない。それだけは、少し気になる」
サクラは目を細めた。
「都合が悪い、というのは」
「俺がここにいる理由が、最初からお前のためではなかった可能性がある」
サクラはしばらく黙っていた。それから、カップを持ち直した。
「レン」
「何だ」
「あなたが何者であっても、今日ここにいるあなたは、私を守ろうとしている。それは事実でしょう」
「……ああ」
「なら、それだけで十分よ」
サクラは窓の外を見た。朝の光が、その横顔を柔らかく照らしていた。
「あなたが今日私のそばにいて、守ろうとしていること。それは、誰かに命じられてできることじゃない。私はそう思う」
その言葉が胸の奥に落ちて、静かに沈んでいった。
***
学院に戻ってから、ルークに夢のことを話した。
ルークは真剣な顔で聞いていた。
「汝に命ずる、か」
「ああ。それだけ聞こえた」
「その声を聞いたとき、どう感じた?」
「激しく抗った。体が勝手に」
ルークはしばらく黙っていた。窓の外の演習場で、上級生たちが魔術の訓練をしている音が聞こえた。
「それは……重要な手がかりだと思う」
「なぜ」
「命令を受けて拒絶したということは、その命令の内容を知っていたということだ。そしてその命令に従いたくないという意志が、拒絶を生んだ」
「つまり、俺は何かを命じられ、それを断った」
「可能性として、ね」
ルークは慎重に言葉を選んでいた。
「その命令が何だったか、まだわからないか?」
「わからない。霧の中にある」
「そうか」
ルークは少し間を置いた。
「ファイから連絡が来た。セルディア家の書庫を調べたらしい」
「何かわかったか?」
「直接聞いた方がいい。今夜、三人で話せるか?」
***
夜、学院の図書館の奥まった場所で三人が集まった。
ファイは銀髪をかき上げながら、手元の紙を広げた。古い文字で何かが書かれていた。しかし、いつもなら涼しい顔で情報を並べるファイが、今夜はなぜか紙から目を上げようとしなかった。指先が、紙の端を何度か折り曲げた。
「セルディア家の書庫にあった文書だ。アルティナ家から預かったものが混じっていて、その中に神に関する記述があった」
「何が書いてあった?」
「神殺しの力を持つ者が生まれるとき、神はその者に使徒を送り込む、という記述だ。使徒の役割は監視と、必要であれば排除。しかし」
ファイは少し間を置いた。
「この文書には、ルークが読んだ王家の文書にはない記述があった」
「何だ?」
「使徒が神の命に反するとき、その使徒は人間に格を落とされる、とある」
静寂が落ちた。
人間に格を落とされる。
その言葉が、胸の奥で何かに触れた。
周囲の音が、遠くなった。
ルークとファイの顔が、どこか遠い場所にある。
「……レン」
ファイの声で、意識が戻った。
「大丈夫か?」
「ああ」
息を、一つ吐いた。
「使徒はもともと、人間ではない」
「そういうことになる」
ファイはようやく顔を上げた。銀の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「神に作られた、神に近い存在。しかし命に反したとき、その格を剥奪されて人間として生きることを強いられる」
三人の間に、長い沈黙が落ちた。
ルークが口を開いた。
「記憶を失ったのも、同じ理由かもしれない。格を落とされる代償として、過去が消えた」
「俺が神の命に反したとき、何を感じたか。夢の中で、命令を聞いた瞬間に体が抗った。それは覚えている」
「ああ」
「その拒絶は、今も変わらない。何を思い出しても、サクラを守りたいという気持ちは変わらない」
ルークとファイが、互いに顔を見合わせた。
ルークは窓の外に目を向けた。しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「お前が何を思い出しても、俺たちの答えは変わらない」
ファイが頷いた。
「そばにいる。何を思い出しても」
胸の奥が、じわりと熱くなった。ただ、頷いた。
***
その夜、寮に戻ってから、しばらく窓の外を見ていた。
人間ではなかったかもしれない。神に作られた存在だったかもしれない。
しかし今、ここにいる。
サクラの言葉を、もう一度思い出した。
あなたが今日私のそばにいて、守ろうとしていること。それは、誰かに命じられてできることじゃない。
手のひらに意識を向けると、剣が現れた。淡い光を帯びた、細身の剣。魂に刻まれた契約が生み出す力。
守りたいという誓いが、この剣を作っている。
それだけは、変わらない。
剣を消した。
目を閉じた。
夢を見た。
今夜の夢は、これまでと違った。光の中に立つ影が、今夜は輪郭を持っていた。顔はまだ見えない。しかし体の形が、はっきりとそこにあった。
影が動いた。
こちらへ近づいてくるのではなく、何かを示すように手を伸ばした。
その先に、何かがあった。
見えなかった。しかし確かに、何かがあった。
その気配が遠ざかった瞬間、目が覚めた。
夜明けの光が部屋に差し込んでいた。
手のひらがいつもより熱く、そして今日は、指先に何かがあった。
見ると、何もなかった。
しかし確かに、触れた感触があった。
そう思いながら、起き上がった。




