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神の干渉

 五月に入ると、学院の空気が少し緩んだ。


 新入生が環境に慣れ始め、上級生たちも新学期の緊張をほぐしていく時期らしかった。中庭に笑い声が増え、食堂が賑やかになった。エドガーの取り巻きたちも、あからさまな敵意を向けてくることは減っていた。


 表面上は、穏やかな日々だった。


 しかしサクラの周辺で、小さな異変が続いていた。


 最初は些細なことだった。魔術実技の時間、サクラが魔術を発動させた瞬間、教室の空気が一瞬だけ歪んだ。誰も気づいていないようだった。教師も、隣の生徒も、普通に授業を続けていた。しかしこちらには確かに見えた。サクラの魔術の周囲に、薄い膜のような何かが張られ、すぐに消えた。


 翌日も、その翌日も、同じようなことが続いた。図書館でサクラの手元の本が不自然に閉じた。週末の公爵邸では、夕食の席でサクラが急に顔色を変えた。何でもない、と笑顔で誤魔化したが、その後しばらく食欲がなかった。どれも短く、どれも跡形なく消えた。


 四度目の夜は平日で、男子寮の廊下でのことだった。


 遅くまで図書館で資料を読んでいて、寮に戻る時間が遅くなった。廊下を歩いていると、外から音が聞こえた。


 女子寮の方角だった。


 声ではなかった。何かが割れるような、しかし実際には何も割れていないような、不思議な音だった。窓から外を見ると、女子寮の棟に光があった。魔術灯ではない。もっと不規則な、脈打つような光だ。サクラの部屋がある方角と、一致していた。


 光はすぐに消えた。


 翌朝、サクラに聞いた。


「昨夜、部屋で何かあったか?」


 サクラは一瞬、目を伏せた。


「……何もなかったわ」


「顔に出ている」


 サクラは少し驚いた顔をして、それから小さく息をついた。


「……夢を見た。目が覚めたとき、部屋の中に誰かがいた気がした。気のせいかもしれないけれど」


「姿は見えたか?」


「見えなかった。ただ、気配だけ。それもすぐに消えた」


 そこで授業の鐘が鳴った。サクラは話を打ち切るように立ち上がり、教室へ向かった。


 その背中が、廊下の角を曲がって消えた。



***



 昼食の席で、ルークに話した。


 ルークは黙って聞いていた。ファイも、いつもより表情が硬かった。


「続いているね」


 ルークが静かに言った。


「ああ。サクラの周辺だけだ。俺やお前たちには何も起きていない」


「それは……意図的だと思う」


「一つ、話がある」


 ルークは声を落とした。


「王家には代々、神に関する記録が残されている。一般には公開されていない文書だ。その中に、神殺しの予言という記述がある。いつか、神を脅かす力を持つ人間が生まれる。その者が力に目覚めたとき、神々の秩序は揺らぐ、という内容だ」


「それがサクラだと?」


「確証はない。ただ、アルティナ家にも同様の伝承がある。二つの記録が同じ人物を指しているとすれば、神がサクラへの干渉を強めているのは、予言が現実に近づいているからかもしれない」


 テーブルの上で、手を握った。


 サクラは自分の力のことを知っている。しかし王家の文書に同じ予言が残っているとは、まだ知らないはずだ。


「サクラに伝えるべきか」


「それはレンが判断することだよ」


 ルークは静かに言った。


「ただ、サクラは自分の運命から逃げる人間じゃない。知った上で向き合う方が、あの人らしいと思う」


 それは、こちらも同じ考えだった。



***



 その週末、公爵邸へ戻ると、サクラの目の奥にいつもとは違う疲れがあった。睡眠が十分に取れていないような、何かを抑え込んでいるような。


 夕食の後、中庭に出ると、サクラがすでにベンチに座っていた。


 隣に座ると、サクラはこちらを見た。


「来ると思ってた」


「そうか」


「何か言いたそうな顔をしていたから」


 見透かされていた。少し考えてから、話すことにした。


「ルークから聞いた。王家の文書に、アルティナ家と同じ予言が残っているそうだ」


 サクラは黙っていた。驚いていないように見えた。


「知っていたか?」


「王家の文書については知らなかった。でも」


 サクラは手のひらを見た。


「最近、夢の中で何かを感じるの。自分の中に何か大きなものがある、という感覚。怖いとは思わない。不思議と」


「力は怖くないか」


「ええ。怖いのは、神に狙われることよ」


 しばらく沈黙が落ちた。夜風が中庭を抜け、サクラの黒髪を揺らした。


「一つ、頼みがある」


「何?」


「これ以上、一人で抱え込むな。夢の中で何か感じたとき、部屋に気配があったとき、すぐに話してくれ」


 サクラはこちらを見た。


「……過保護ね」


「そうかもしれない」


「でも」


 サクラは小さく笑った。初めて見る、力が抜けたような笑い方だった。


「わかった。話す」



***



 事態が動いたのは、その翌週のことだった。


 魔術実技の授業中、サクラが突然動きを止めた。


 いつも正確に動くサクラの手が、魔術の起動寸前の位置で止まっていた。石像のように固まり、薄紅の瞳がどこか遠くを向いていた。焦点が合っていない。意識が、ここではない場所へ引っ張られているような。


「サクラ」


 小声で呼びかけた。反応がなかった。


 周囲の生徒たちが気づき始めた。教師が近づいてくる。


 もう一度、名前を呼んだ。今度は少し強く。


 サクラの瞳が、ゆっくりと焦点を取り戻した。こちらを見て、それから教室全体を見渡した。


「……ごめんなさい。少し、ぼんやりしていたわ」


 教師は怪訝な顔をしたが、それ以上は追及しなかった。授業が再開された後、隣でサクラが小さく息をついた。


「レン」


「何だ?」


「さっき、声が聞こえた」


 低い声だった。他の生徒には聞こえない音量だった。


「声?」


「知らない声。でも……命令するような声だった」


「何と言っていた?」


 サクラはしばらく黙っていた。それから、静かに答えた。


「『目覚めるな』と」


 チョークが黒板を走る音が、やけに大きく聞こえた。


 監視ではなく、干渉だった。神がサクラに直接語りかけた。


 手のひらに、じんわりと熱が集まった。



***



 放課後、ルークとファイに話した。


 ルークは険しい顔で黙っていた。


「直接、声で」


 確認するように言った。


「ああ。サクラがそう言っていた」


「予想より早い。神が使いを送るのではなく直接干渉するということは、それだけ脅威と認識しているということだ。これからさらに強まると思った方がいい」


「対抗する手段はあるか?」


「一つだけ、心当たりがある。王家の封印文書の中に、神の干渉を遮断した記録が残っているらしい。ただ読み解くのに時間がかかる。父上に頼んでみる」


「急いでくれ」


「わかってる」


 ファイは黙っていた。珍しく、何も言わなかった。ルークが席を外した後も、ファイはしばらく窓の外を見ていた。


 それから、こちらに向き直った。


 何も言わなかった。ただ、静かにレンの肩に手を置いた。


 その重さだけが、返事だった。



***



 その夜、寮の自室で窓の外を見ていた。


 神がサクラに直接語りかけた。サクラの力は、神にとって無視できないところまで近づいている。


 そしてこちらは、何かと契約している。記憶はない。しかし廊下で見た金色の目が、どこか懐かしかったのは事実だった。


 手のひらを見た。


 意識を向けると、剣が現れた。淡い光を帯びた、細身の剣。この力の源は、守りたいという誓いだ。


 それだけは、変わらない。


 剣を消した。


 窓の外で、夜風が吹いた。遠くで何かが動いた気配がした。人間ではない。神の使いでもない。もっと大きな、何かだった。しかしそれはすぐに遠ざかり、夜の静寂だけが残った。


 目を閉じた。


 夢を見た。


 光の中に誰かが立っていた。いつもの夢と同じだった。しかし今夜は少しだけ違った。その影が、口を動かしていた。声は聞こえなかった。しかし唇の動きが、何かを言っていた。


 目が覚めると、夜明け前の薄暗さが部屋を満たしていた。


 影が何を言っていたか、やはり思い出せなかった。


 ただ、手のひらがいつもより熱かった。

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