表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/13

平穏と亀裂

 決闘から三日が経った。


 左腕の火傷は薬のおかげで順調に癒えていたが、医務室の教師には一週間は安静にするよう言われていた。それでも授業には出た。横になっているより、体を動かしている方が性に合っていた。


 教室の空気が、少し変わっていた。


 あからさまな侮蔑の視線は減った。代わりに、好奇心の混じった目が増えた。魔力なしで上級生に勝った、という事実は、それなりに周囲へ伝わったらしかった。声をかけてくる者も少しずつ現れた。


 ただ、エドガーの取り巻きたちの目は、以前より冷たくなっていた。それについては、予想の範囲内だった。


「随分と有名になったね」


 昼食の席で、ルークが言った。


「望んでいない」


「わかってる。でもこれが貴族学院というものだよ。強さを示せば、勝手に評価がついてくる」


 ファイがパンをちぎりながら頷いた。


「エドガー先輩の家は侯爵家でね。あの人に勝ったというのは、思った以上に大きい話になっているんだ」


「面倒だな」


「慣れるよ」


 ルークはあっさりと言った。本当に慣れているのか、それとも慣れるしかないと知っているのか、判断できなかった。


 サクラはその隣で、静かに食事をとっていた。決闘以来、こちらへの態度が少しだけ変わった気がした。変わった、というより、わずかに柔らかくなった。気のせいかもしれなかったが。


「サクラ」


「何?」


「追手の件、その後は何もないか?」


 サクラは少し間を置いた。


「今のところは。父様が調べてくださっているわ」


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。サクラが話したくないことは、聞いても答えが返ってこないことは、この数週間でわかっていた。



***



 夕方の稽古は、学院に来てからも続いていた。


 ルークが演習場を放課後に貸し切れるよう手配してくれた。皇太子の名が効いたのか、手続きはあっさりと通った。人目を気にせず動ける場所ができたことに、サクラも素直に礼を言っていた。


 その日は、いつもより長く稽古をした。


 サクラの剣筋は日に日に鋭くなっていた。もともと基礎がしっかりしていたところへ、毎日の稽古が積み重なっている。受けるこちらも、手を抜けなくなってきていた。


「もう一本」


 サクラが息を整えながら言った。それから、少し間を置いて付け加えた。


「腕は大丈夫? 無理をしているなら言いなさい」


「問題ない」


「嘘ね。まだ完治していないでしょう」


「少しだけ問題がある」


「なら今日はここまでにしましょう」


 木剣を構え直しかけた手を、止めた。サクラが珍しく折れた、と思った。いつもなら無理にでも続けようとするのに。


 木剣を壁に立てかけると、サクラも同じように自分の木剣を戻した。それから演習場の端に腰を下ろし、水筒に口をつけた。こちらも隣に座った。


 夕暮れの光が窓から斜めに差し込み、サクラの黒髪を橙色に染めた。薄紅の瞳が、窓の外をじっと見ていた。


 こういう顔をするとき、サクラはどこか遠くを見ているように思えた。剣の向こうにある何かを、見ようとしているような。


 窓の外で風が吹き、木の葉が揺れる音がした。


「ねえ、レン」


「何だ」


「記憶が戻りそうな感覚は、あった?」


 突然の問いだった。


「……ない。ただ」


「ただ?」


「夢を見ることがある。何かの夢だが、目が覚めると何も残っていない。ただ、胸の奥に何かが引っかかるような感覚だけが残る」


 サクラは黙って聞いていた。


「夢の中では、誰かと話しているような気がする。しかし顔も声も、目が覚めると消えている」


「……怖くないの?」


「何が?」


「自分の過去が、もしかしたら怖いものかもしれない。そう思わないの?」


 少し考えた。


「思う。しかし」


 窓の外を見た。夕暮れが夜に変わりかけている。最初の星が、うっすらと見え始めていた。


「怖くても、知りたい。それだけだ」


 サクラは窓の外を見た。こちらと同じ方向を、しばらく眺めていた。


「……そうね」


 小さく言った。その声に、何かが滲んでいるような気がした。



***



 図書館だった。


 魔術史の資料を読んでいると、視線を感じた。書棚の向こうに人影があった気がして顔を上げたが、すぐに消えた。気のせいかと思い、資料に戻った。しかし気配は消えなかった。人間の気配ではなかった。路地裏でサクラの追手を感じたときとも違う。もっと薄く、しかしもっと深いところにある何かだった。



***



 演習場だった。


 魔術の授業中、首の後ろがざわりとした。振り返ると誰もいない。空気がわずかに揺れているような気がしたが、それだけだった。



***



 三日目の夜、男子寮の廊下で足が止まった。


 廊下の端に、人が立っていた。


 学院の制服ではなかった。深い色の外套を纏い、顔の半分を隠すような帽子を被っていた。性別もわからない。ただ、その目だけが暗がりの中で光っていた。


 金色の目だった。


 その瞬間、手のひらの熱が消えた。剣を呼ぼうとして、できなかった。体が、何もするなと言っていた。


「……誰だ」


 声をかけた。


 人影は何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。その目が動いた。何かを確かめるように、ゆっくりと。


 一歩踏み出した瞬間、人影は消えた。煙が散るように、跡形もなく。


 廊下には誰もいなかった。


 しばらくその場に立っていた。手のひらに、じわりと熱が戻ってきた。



***



 翌朝、ルークに話した。


 ルークは真剣な顔で聞いていた。ファイも隣で黙って聞いていた。


「金色の目」


 ルークが繰り返した。


「……一つ、聞いていいか」


「何だ」


「その人影を見たとき、何か感じたか。言葉にならないような、感覚的なものでもいい」


 少し考えた。


「……知っている、という気がした」


「知っている?」


「会ったことがあるような。しかし記憶にはない。矛盾しているが、そう感じた」


 ルークはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。


「神の使いという話を聞いたことがある」


 場が静まった。


「神の?」


「この世界には神が存在する。複数の、階層を持った神が。そしてその使いが人間界に降りることがある、という伝承がある」


「伝承か」


「ただの伝承かもしれない。しかし」


 ルークはこちらをまっすぐ見た。


「魔力なしで契約魔法を使う人間が、神の使いに見られているとしたら。それは偶然とは思えない」


 その言葉が、胸の奥で何かに触れた。


 夢の中の気配。名前も顔も思い出せない誰か。そして廊下に立っていた、金色の目。


「サクラには話したのか?」


「まだだ」


「話した方がいい。サクラも……何か知っているかもしれない」


 ファイがそう言った。普段より、声が低かった。


「ファイ」


 ファイはこちらを見た。何かを言いかけて、それからわずかに目を伏せた。


「サクラは、ずっと一人で背負ってきたものがある。俺には話してくれるけれど、俺にはどうにもできないことが。だから……」


 言葉が途切れた。


 ファイは視線を落とした。テーブルの木目を、少しの間だけ見ていた。


「だから、そばにいてやってくれ。今まで以上に」


 その言葉の奥にあるものを、すぐには理解できなかった。しかし問い返す前に、授業の鐘が鳴った。



***



 サクラに話したのは、週末に公爵邸へ戻った夜のことだった。


 夕食を終えた後、中庭のベンチにサクラが座っているのを見かけた。夜風に黒髪を揺らしながら、どこか遠くを見ていた。


 隣に腰を下ろすと、サクラはこちらを見た。


「どうしたの?」


「話がある」


 かいつまんで話した。三日間の出来事、図書館と演習場と廊下での気配、そして金色の目。


 サクラは黙って聞いていた。表情は変わらなかった。しかし膝の上で組んだ手が、わずかに強張っているのが見えた。


「……そう」


 話し終えると、サクラはそれだけ言った。


「知っているか?」


「……少しだけ」


 初めてだった。サクラが「知っている」と認めたのは。


「教えてくれるか?」


 長い沈黙があった。サクラは視線を中庭の石畳に落とし、それからこちらを見た。


「私は……神に監視されているらしいの」


 静かな声だった。


「父様から聞いた話よ。アルティナ家には昔から、神に関する伝承があって。その中に、神を脅かす可能性を持つ人間が生まれることがある、という話があるの」


「それが、お前だと?」


「確証はない。ただ父様は、そうかもしれないと思っているみたい」


 サクラは静かに続けた。


「だから追手が来た。あの夜の男たちが誰の命令で動いていたかは、まだわかっていないけれど」


「神が、直接人間を使って動いているということか?」


「かもしれない」


 しばらく沈黙が落ちた。


「……怖いか?」


 聞くと、サクラは少し考えてから答えた。


「怖い、わ。正直に言えば」


 それは初めて聞く言葉だった。


「でも」


 サクラは顔を上げた。薄紅の瞳が、まっすぐにこちらを見た。


「逃げるつもりはない。自分の運命から目を背けて生きていくのは、私の性に合わないから」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


 この人はずっと、一人でこれを抱えていたのだ。神に監視されている可能性を、追手が来るかもしれないという恐怖を、公爵にも、ファイにも、全ては話せないまま。


 手のひらがじわりと熱くなった。


 剣を呼んだわけではなかった。ただ、熱があった。守りたいという気持ちが、形になろうとしているような。


「俺がいる」


 気づけば言っていた。


 サクラが目を瞬かせた。


「お前が何かに狙われているなら、俺が守る。それは変わらない」


 サクラはしばらく黙っていた。それから、静かに息をついた。


「……知ってる」


 小さな声だった。


「知ってるわよ、そんなこと」


 声が、わずかに揺れていた。


 夜風が中庭を抜けて、サクラの黒髪を揺らした。魔術灯の光が、庭園をやわらかく照らしていた。


 二人とも、何も言わなかった。



***



 公爵邸から学院へ戻る馬車の中で、窓の外を眺めていた。


 ふと、気配を感じた。


 馬車の外、街並みの向こうに何かがいる。そう思った瞬間、脳裏に何かが一瞬だけ浮かんだ。


 光の中に立つ、誰かの影。声は聞こえない。しかしその影が、こちらを見ていた。


 瞬きをすると、消えた。


 馬車の中に一人で座っていた。手のひらが、じんわりと熱かった。


 記憶ではなかった。しかし夢でもなかった。


 何かが、近づいてきている。


 そう思いながら、学院の門をくぐった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ