平穏と亀裂
決闘から三日が経った。
左腕の火傷は薬のおかげで順調に癒えていたが、医務室の教師には一週間は安静にするよう言われていた。それでも授業には出た。横になっているより、体を動かしている方が性に合っていた。
教室の空気が、少し変わっていた。
あからさまな侮蔑の視線は減った。代わりに、好奇心の混じった目が増えた。魔力なしで上級生に勝った、という事実は、それなりに周囲へ伝わったらしかった。声をかけてくる者も少しずつ現れた。
ただ、エドガーの取り巻きたちの目は、以前より冷たくなっていた。それについては、予想の範囲内だった。
「随分と有名になったね」
昼食の席で、ルークが言った。
「望んでいない」
「わかってる。でもこれが貴族学院というものだよ。強さを示せば、勝手に評価がついてくる」
ファイがパンをちぎりながら頷いた。
「エドガー先輩の家は侯爵家でね。あの人に勝ったというのは、思った以上に大きい話になっているんだ」
「面倒だな」
「慣れるよ」
ルークはあっさりと言った。本当に慣れているのか、それとも慣れるしかないと知っているのか、判断できなかった。
サクラはその隣で、静かに食事をとっていた。決闘以来、こちらへの態度が少しだけ変わった気がした。変わった、というより、わずかに柔らかくなった。気のせいかもしれなかったが。
「サクラ」
「何?」
「追手の件、その後は何もないか?」
サクラは少し間を置いた。
「今のところは。父様が調べてくださっているわ」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。サクラが話したくないことは、聞いても答えが返ってこないことは、この数週間でわかっていた。
***
夕方の稽古は、学院に来てからも続いていた。
ルークが演習場を放課後に貸し切れるよう手配してくれた。皇太子の名が効いたのか、手続きはあっさりと通った。人目を気にせず動ける場所ができたことに、サクラも素直に礼を言っていた。
その日は、いつもより長く稽古をした。
サクラの剣筋は日に日に鋭くなっていた。もともと基礎がしっかりしていたところへ、毎日の稽古が積み重なっている。受けるこちらも、手を抜けなくなってきていた。
「もう一本」
サクラが息を整えながら言った。それから、少し間を置いて付け加えた。
「腕は大丈夫? 無理をしているなら言いなさい」
「問題ない」
「嘘ね。まだ完治していないでしょう」
「少しだけ問題がある」
「なら今日はここまでにしましょう」
木剣を構え直しかけた手を、止めた。サクラが珍しく折れた、と思った。いつもなら無理にでも続けようとするのに。
木剣を壁に立てかけると、サクラも同じように自分の木剣を戻した。それから演習場の端に腰を下ろし、水筒に口をつけた。こちらも隣に座った。
夕暮れの光が窓から斜めに差し込み、サクラの黒髪を橙色に染めた。薄紅の瞳が、窓の外をじっと見ていた。
こういう顔をするとき、サクラはどこか遠くを見ているように思えた。剣の向こうにある何かを、見ようとしているような。
窓の外で風が吹き、木の葉が揺れる音がした。
「ねえ、レン」
「何だ」
「記憶が戻りそうな感覚は、あった?」
突然の問いだった。
「……ない。ただ」
「ただ?」
「夢を見ることがある。何かの夢だが、目が覚めると何も残っていない。ただ、胸の奥に何かが引っかかるような感覚だけが残る」
サクラは黙って聞いていた。
「夢の中では、誰かと話しているような気がする。しかし顔も声も、目が覚めると消えている」
「……怖くないの?」
「何が?」
「自分の過去が、もしかしたら怖いものかもしれない。そう思わないの?」
少し考えた。
「思う。しかし」
窓の外を見た。夕暮れが夜に変わりかけている。最初の星が、うっすらと見え始めていた。
「怖くても、知りたい。それだけだ」
サクラは窓の外を見た。こちらと同じ方向を、しばらく眺めていた。
「……そうね」
小さく言った。その声に、何かが滲んでいるような気がした。
***
図書館だった。
魔術史の資料を読んでいると、視線を感じた。書棚の向こうに人影があった気がして顔を上げたが、すぐに消えた。気のせいかと思い、資料に戻った。しかし気配は消えなかった。人間の気配ではなかった。路地裏でサクラの追手を感じたときとも違う。もっと薄く、しかしもっと深いところにある何かだった。
***
演習場だった。
魔術の授業中、首の後ろがざわりとした。振り返ると誰もいない。空気がわずかに揺れているような気がしたが、それだけだった。
***
三日目の夜、男子寮の廊下で足が止まった。
廊下の端に、人が立っていた。
学院の制服ではなかった。深い色の外套を纏い、顔の半分を隠すような帽子を被っていた。性別もわからない。ただ、その目だけが暗がりの中で光っていた。
金色の目だった。
その瞬間、手のひらの熱が消えた。剣を呼ぼうとして、できなかった。体が、何もするなと言っていた。
「……誰だ」
声をかけた。
人影は何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。その目が動いた。何かを確かめるように、ゆっくりと。
一歩踏み出した瞬間、人影は消えた。煙が散るように、跡形もなく。
廊下には誰もいなかった。
しばらくその場に立っていた。手のひらに、じわりと熱が戻ってきた。
***
翌朝、ルークに話した。
ルークは真剣な顔で聞いていた。ファイも隣で黙って聞いていた。
「金色の目」
ルークが繰り返した。
「……一つ、聞いていいか」
「何だ」
「その人影を見たとき、何か感じたか。言葉にならないような、感覚的なものでもいい」
少し考えた。
「……知っている、という気がした」
「知っている?」
「会ったことがあるような。しかし記憶にはない。矛盾しているが、そう感じた」
ルークはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「神の使いという話を聞いたことがある」
場が静まった。
「神の?」
「この世界には神が存在する。複数の、階層を持った神が。そしてその使いが人間界に降りることがある、という伝承がある」
「伝承か」
「ただの伝承かもしれない。しかし」
ルークはこちらをまっすぐ見た。
「魔力なしで契約魔法を使う人間が、神の使いに見られているとしたら。それは偶然とは思えない」
その言葉が、胸の奥で何かに触れた。
夢の中の気配。名前も顔も思い出せない誰か。そして廊下に立っていた、金色の目。
「サクラには話したのか?」
「まだだ」
「話した方がいい。サクラも……何か知っているかもしれない」
ファイがそう言った。普段より、声が低かった。
「ファイ」
ファイはこちらを見た。何かを言いかけて、それからわずかに目を伏せた。
「サクラは、ずっと一人で背負ってきたものがある。俺には話してくれるけれど、俺にはどうにもできないことが。だから……」
言葉が途切れた。
ファイは視線を落とした。テーブルの木目を、少しの間だけ見ていた。
「だから、そばにいてやってくれ。今まで以上に」
その言葉の奥にあるものを、すぐには理解できなかった。しかし問い返す前に、授業の鐘が鳴った。
***
サクラに話したのは、週末に公爵邸へ戻った夜のことだった。
夕食を終えた後、中庭のベンチにサクラが座っているのを見かけた。夜風に黒髪を揺らしながら、どこか遠くを見ていた。
隣に腰を下ろすと、サクラはこちらを見た。
「どうしたの?」
「話がある」
かいつまんで話した。三日間の出来事、図書館と演習場と廊下での気配、そして金色の目。
サクラは黙って聞いていた。表情は変わらなかった。しかし膝の上で組んだ手が、わずかに強張っているのが見えた。
「……そう」
話し終えると、サクラはそれだけ言った。
「知っているか?」
「……少しだけ」
初めてだった。サクラが「知っている」と認めたのは。
「教えてくれるか?」
長い沈黙があった。サクラは視線を中庭の石畳に落とし、それからこちらを見た。
「私は……神に監視されているらしいの」
静かな声だった。
「父様から聞いた話よ。アルティナ家には昔から、神に関する伝承があって。その中に、神を脅かす可能性を持つ人間が生まれることがある、という話があるの」
「それが、お前だと?」
「確証はない。ただ父様は、そうかもしれないと思っているみたい」
サクラは静かに続けた。
「だから追手が来た。あの夜の男たちが誰の命令で動いていたかは、まだわかっていないけれど」
「神が、直接人間を使って動いているということか?」
「かもしれない」
しばらく沈黙が落ちた。
「……怖いか?」
聞くと、サクラは少し考えてから答えた。
「怖い、わ。正直に言えば」
それは初めて聞く言葉だった。
「でも」
サクラは顔を上げた。薄紅の瞳が、まっすぐにこちらを見た。
「逃げるつもりはない。自分の運命から目を背けて生きていくのは、私の性に合わないから」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
この人はずっと、一人でこれを抱えていたのだ。神に監視されている可能性を、追手が来るかもしれないという恐怖を、公爵にも、ファイにも、全ては話せないまま。
手のひらがじわりと熱くなった。
剣を呼んだわけではなかった。ただ、熱があった。守りたいという気持ちが、形になろうとしているような。
「俺がいる」
気づけば言っていた。
サクラが目を瞬かせた。
「お前が何かに狙われているなら、俺が守る。それは変わらない」
サクラはしばらく黙っていた。それから、静かに息をついた。
「……知ってる」
小さな声だった。
「知ってるわよ、そんなこと」
声が、わずかに揺れていた。
夜風が中庭を抜けて、サクラの黒髪を揺らした。魔術灯の光が、庭園をやわらかく照らしていた。
二人とも、何も言わなかった。
***
公爵邸から学院へ戻る馬車の中で、窓の外を眺めていた。
ふと、気配を感じた。
馬車の外、街並みの向こうに何かがいる。そう思った瞬間、脳裏に何かが一瞬だけ浮かんだ。
光の中に立つ、誰かの影。声は聞こえない。しかしその影が、こちらを見ていた。
瞬きをすると、消えた。
馬車の中に一人で座っていた。手のひらが、じんわりと熱かった。
記憶ではなかった。しかし夢でもなかった。
何かが、近づいてきている。
そう思いながら、学院の門をくぐった。




