全ての記憶
その夜の夢は、始まりから違った。
光ではなかった。暗さでもなかった。
ただ、そこに「在った」。
場所という概念がない空間。上も下もなく、前も後ろもなく、ただ存在だけがある場所。そしてその中心に、何かがいた。巨大な、形のない、しかし圧倒的に「在る」何かが。
それを見た瞬間、体の奥で何かが動いた。
知っている。
この存在を知っている。この場所を知っている。この感覚を知っている。
夢の中の自分は、今より軽かった。人間の体ではなかった。しかし自分だった。疑いようがなかった。
存在が語りかけてきた。
言葉ではなかった。しかし意味は伝わった。意志が直接、意識の中へ流れ込んでくるような感覚だった。
命令だった。
誰かを、排除せよ。
その命令と共に、一つの像が流れ込んできた。
薄紅の瞳。黒髪。凛とした、しかしどこか孤独を纏った横顔。
サクラだった。
その瞬間、何かが崩れた。
***
命令を受けた後の記憶が、堰を切ったように流れ込んできた。
どれほど長い時間だったか、数えたことがなかった。数える必要がなかったから。命令があり、遂行があった。それが全てで、それだけで十分だった。疑問を持ったことは一度もなかった。感情がなかったから。意志がなかったから。そういう存在だったから。
あの命令が来るまでは。
サクラの像を見るまでは。
像が流れ込んだ瞬間、それまで一度も動いたことのなかった何かが、体の奥で激しく跳ね上がった。命令を遂行しようとした意識が、その何かに弾き飛ばされた。
変わった、という言葉では足りない。崩れた。それまで疑ったことのなかった何かが、根底から崩れた。
命令に従うことができなかった。
理由は説明できなかった。論理ではなかった。ただ、できなかった。体の奥から、魂の奥から、何かがそれを拒絶した。
その拒絶の理由を、夢の中で初めて理解した。
この人を、守りたい。
それだけだった。それだけが、全てだった。
なぜそう思ったのか、今もわからない。しかし確かに、そう思った。命令を受けた瞬間に、気づけばそう思っていた。
それが全ての始まりだった。
***
神への反逆は、静かなものだった。
言葉はなかった。宣言もなかった。ただ、命令を受け取った場所で、返答の代わりに一つの誓いを刻んだ。
魂に、直接。
この人を守る。それだけを、契約として、魂そのものに結びつけた。
その瞬間、何もかもが消えた。
神の力が剥ぎ取られていくのがわかった。格が、落ちていくのがわかった。使徒としての全てが、霧散していくのがわかった。
そして最後に、記憶が消えた。
痛くはなかった。ただ、静かだった。
目が覚めたとき、そこは路地裏だった。石畳の冷たさが頬に染みていた。
***
全ての記憶が戻ったとき、目が覚めた。
部屋の中は暗かった。窓の外に、夜明け前の空があった。星がまだ残っている。風の音がした。
体が重かった。起き上がれなかったわけではない。しかし、すぐには動けなかった。
手のひらを見た。
意識を向けると、剣が現れた。淡い光を帯びた、細身の剣。
魂に刻んだ誓いが、この剣を生み出している。
その誓いは今も、変わっていなかった。
***
朝になると、サクラを探した。
週末だったため公爵邸にいた。庭園の回廊をサクラが歩いているのを見つけ、声をかけた。
「話がある」
サクラはこちらを見た。顔を見て、何かを察したらしかった。何も聞かずに、庭園の奥のベンチへ向かった。
二人で腰を下ろした。しばらく何も言わなかった。どこから話すべきか、整理していた。
「全部、思い出した」
サクラが息を呑んだのがわかった。しかし何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。
「俺は使徒だった。神に作られた存在だ。感情も意志もなく、命令を遂行するためだけに存在していた」
サクラは動かなかった。
「神から命令が来た。お前を、排除せよ、と」
そう言ったとき、サクラの手が膝の上で固く握られるのが見えた。それでも黙っていた。
「命令を受けた瞬間、お前の像が流れ込んできた。そのとき、初めて何かを感じた。感情というものを、初めて持った」
言葉が、少し詰まった。
「守りたい、と思った。命令を受けた瞬間に、それだけを思った。なぜかはわからない。しかし確かにそう思った。だから、命令を断った。神への反逆として、魂に誓いを刻んだ。お前を守る、と」
風が吹いた。庭園の木々が、かすかに揺れた。
「その代償として、使徒としての力が剥ぎ取られ、人間に格を落とされ、記憶を失った」
長い沈黙が落ちた。
サクラは下を向いていた。その横顔が見えなかった。
「……サクラ」
返事がなかった。
「これが全てだ。お前を排除するために作られた存在が、今お前のそばにいる。その事実を、お前が知る権利がある。だから話した」
また沈黙が落ちた。
庭園の鳥が鳴いた。遠くで使用人が何かを運ぶ音がした。
サクラがゆっくりと顔を上げた。
泣いていなかった。怒っていなかった。恐れてもいなかった。
薄紅の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「一つだけ、聞いていい?」
「何だ」
「今も、同じ気持ち?」
迷わなかった。
「ああ」
サクラはしばらくこちらを見ていた。それから、視線を庭園に向けた。
「レン」
「何だ」
「あなたが最初に私を見たとき、排除するためではなく守りたいと思ったのね」
「……ああ」
「それは」
サクラは少し間を置いた。
「あなたが初めて持った感情なのね」
その言葉を聞いた瞬間、手のひらの熱が消えた。
違う、と思った。違わない、とも思った。あの瞬間が、全ての始まりだったのは確かだった。感情のなかった存在が、初めて何かを感じた瞬間。それがサクラだったということが、今ここで言葉になった。
どれくらい黙っていたかわからない。
「……そうかもしれない」
サクラは静かに頷いた。
「なら」
サクラはこちらを見た。その目には、何かが決まったような光があった。
「私も、一つだけ言う」
「何だ」
「怖い。正直に言えば、今でも怖い。あなたが最初から私を排除するために作られた存在だったということが」
その言葉を、ただ受け取った。
「でも」
サクラは続けた。声が揺れていた。しかし揺れながらも、確かだった。
「あなたが命令を断ったのは、あなた自身の選択だった。魂に誓いを刻んだのも、あなた自身だった。誰かに命じられたものではない。違う?」
「……違わない」
「なら」
サクラは前を向いた。
「私は、あなたを信じる。今日のあなたを。昨日のあなたを。ここにいるあなたを」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
静かに、深く。
何も言えなかった。ただ、隣に座っていた。
庭園の光が、朝から昼へと変わっていった。二人とも、しばらく何も言わなかった。
***
その日の夕方、ルークとファイに話した。
二人は黙って聞いていた。ルークは途中で一度目を伏せ、ファイは最後まで視線を逸らさなかった。
話し終えると、しばらく沈黙が落ちた。
「……そうか」
ルークが最初に口を開いた。
「全部、思い出したんだな」
「ああ」
「サクラには話したのか?」
「今朝」
「サクラの反応は?」
「信じると言った」
ルークは小さく息をついた。それから、こちらを見た。
「俺も同じだ」
短い言葉だった。しかしその重さは、十分に伝わった。
ファイは少し間を置いてから、口を開いた。
「レン」
「何だ」
「お前が命令を断ったとき、初めて感じた感情が守りたいという気持ちだったと言ったな」
「ああ」
「それは」
ファイは視線を逸らした。それから、咳払いをした。
「ファイ」
ルークが静かに遮った。
「それ以上言うと、レンが困る」
「……そうだな」
ファイは表情を改めた。真剣な目だった。
「俺たちはそばにいる。これからも。お前が何者であっても、何を思い出しても。それだけは変わらない」
ルークも頷いた。
言葉が出なかった。
ただ、頷いた。
***
夜、部屋の窓から夜空を見上げた。
今は、全てがある。
記憶がある。名前がある。友人がいる。守りたい人がいる。
手のひらを見た。
剣は呼ばなかった。ただ、熱があった。魂に刻まれた誓いが、静かに燃え続けているような、その熱が。
神はまだ、動いている。サクラへの干渉は、これからさらに強まるはずだ。
しかし今夜は、ただここにいた。
全てを知った上で、それでもここにいることを選んだ。
それで、十分だった。
窓の外で、夜風が吹いた。
遠くで、何かが動いた気配がした。神の気配だった。しかし今夜は、怖くなかった。
目を閉じた。
夢を見なかった。
初めて、何も見ない夜だった。




