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それぞれの思惑

 サクラが笑った。


 それだけのことなのに、ファイ・セルディアは思わず手を止めた。


 放課後の中庭。サクラはベンチに腰を下ろし、隣に座るレンと何か話していた。内容は聞こえなかった。ただ、サクラの口の端がかすかに上がっているのが、遠目にもわかった。


 サクラがあんな顔をするのを、久しぶりに見た気がした。


 ファイとサクラの付き合いは長い。物心ついた頃から、アルティナ家とセルディア家は縁で繋がっていた。幼い頃は共に遊び、成長してからは共に学んだ。


 だからこそ、知っていることがある。


 あの笑顔が、いつ頃から消えたかということを。


 幼い頃のサクラはよく笑った。庭を走り回り、ファイが転ぶたびに笑い、夕暮れまで一緒に遊んだ。あの頃の笑顔は、今のものとは違った。何も考えていない、ただそこにある笑顔だった。


 それが変わったのは、いつだったか。


 はっきりとした境界線はなかった。ただ気づけば、サクラの笑顔は変わっていた。令嬢として、アルティナ家の娘として、完璧に整えられたもの。隙のない、美しい、しかし壁のような笑顔。本当の感情を、誰にも触れさせないための顔。


 ファイはずっと、それを崩せなかった。


 幼馴染として近くにいながら、サクラが本当に笑う瞬間を作れなかった。それがずっと、どこか引っかかっていた。自分の力のなさとして。


 それが今、遠目に見ても違うとわかる顔をしていた。


 原因はわかっていた。


 レン、という人間だ。


 ファイは最初、レンを警戒していた。素性不明、記憶なし、魔力なし。それでいてアルティナ家の客人として学院に現れ、サクラのそばにいる。怪しいと思わない方がおかしかった。


 しかし決闘を見て、考えが変わった。


 あの日、レンはボロボロになりながら剣を手放さなかった。魔術の炎に焼かれ、風に吹き飛ばされ、石礫を受けながら、それでも前へ出た。サクラのために。


 嘘をつける人間には、ああいう戦い方はできない。ファイはそう思っていた。


 しかし同時に、別のことも頭から離れなかった。


 レンは何者なのか。


 医務室でルークが言っていた。まるでここにいるために用意されたような、と。その言葉が、ずっと引っかかっていた。セルディア家の書庫には、アルティナ家との縁で受け継いできた古い文書がある。子供の頃に読んだきりの、神に関する記述が、その中に含まれていたはずだった。


 次に実家へ戻ったとき、書庫を調べてみよう。ファイはそう決めた。


 サクラがまた笑った。今度はレンが何か言い返したらしく、少し呆れたような顔をしながらも、口元が緩んでいた。


 ファイは小さく息をついた。それから、ゆっくりと窓の外へ視線を戻した。


 理由が何であれ、レンがサクラのそばにいることで、サクラがああいう顔をするなら。あの笑顔を取り戻すために、自分には何年もかかった。レンはそれを、たった数週間でやってのけた。


 悔しい、とは思わなかった。



***




 王都の夜は静かだった。


 グラシア王宮の書庫は、夜になると人が来なくなる。ルーク・グラシアはそれを知っていたから、日が沈んでから足を運んだ。


 目当ての文書を探し当てるまで、少し時間がかかった。神に関する記録は、意図的に目立たない場所に収められていた。王家の人間でなければ、存在を知ることすらできない場所に。


 蠟燭の光の下で、古びた羊皮紙を広げた。


 書体は古く、読み慣れるまで少し時間がかかった。最初のページに「神殺しの予言」という言葉を見つけたとき、思わず蠟燭を持つ手に力が入った。


 読み進めた。


 神殺しの力を持つ者の記述の隣に、必ずセットで登場する存在があった。文書の中では「使徒」と呼ばれていた。神によって作られ、神殺しの力を持つ者を監視し、必要であれば排除するために送り込まれる、と。


 使徒。


 その言葉を目で追いながら、ルークはページをめくる手を止めた。頭の中にレンの顔が浮かんでいた。意識して払おうとしたが、うまくいかなかった。


 さらに読み進めると、過去の記録に、使徒が任務を全うしなかった例がいくつか記されていた。理由は書かれていなかった。ただ事実として、そういう使徒がいたということだけが。


 そしてその使徒たちのその後は、記録されていなかった。文書はそこで、唐突に途切れていた。


 文書を閉じた。蠟燭の炎が揺れた。ただそれだけを、しばらく見ていた。


 レンのことを考えた。


 魔力がない。記憶がない。しかし契約魔法で武器を生成できる。サクラを守ろうとする意志が、力の源になっている。


 使徒だったのかもしれない。


 そう考えると、全てが繋がりすぎるほど繋がった。神に作られ、サクラを排除するために送り込まれた。しかし何かの理由で任務を全うせず、記録から消えた使徒たちと同じように、今ここにいる。


 問題は、これをレンに伝えるべきかどうかだった。


 伝えたい、というのが、ルークの正直な気持ちだった。自分が何者かを知る権利は、レン自身にある。それは明らかだった。記憶がないまま、誰かに作られたかもしれない存在として生きていくのは、不公平だとも思った。


 しかし、踏みとどまるものがあった。


 もし伝えたとき、レンが迷い始めたら。自分の意志がどこまで本物で、どこまで作られたものかを疑い始めたら。今レンを動かしているものは、守りたいという気持ちだけだ。それが揺らいだとき、何が残るのか。


 知らせたいという気持ちの方が強かった。しかし、その気持ちが正しいかどうかはわからなかった。


 まだ答えは出なかった。ファイとも話し合わなければならないことがあった。そしてもう少し、調べる必要があった。


 蠟燭を吹き消すと、書庫が暗くなった。


 窓の外に、夜空が広がっていた。星が多かった。どこかその星を、神が見下ろしているのかもしれないとルークは思った。あるいは、星の向こうから、何かがこちらを見ているのかもしれない。



***




 週末の午後、ルークはファイを王宮の庭園に呼び出した。


 人目のない場所を選んだのは、意図的だった。学院の中では、誰が聞いているかわからない。


 ファイは噴水の縁に腰を下ろし、ルークを見上げた。


「珍しいね。わざわざ王宮に呼び出すなんて」


「学院では難しい話だから」


「レンのこと?」


 さすがに察しが早かった。ルークは頷いた。


「それと、神のこと」


 ファイの表情が変わった。人懐っこい笑みが消え、真剣な色が滲んだ。


「どこまで調べた?」


「王家の書庫にある文書を読んだ。神殺しの予言と、使徒の記録」


「使徒」


 ファイは静かに繰り返した。


「ああ。神に作られ、神殺しの力を持つ者を排除するために送り込まれる存在だ。過去の記録には、任務を全うしなかった使徒がいくつかあった。理由は書かれていない。そしてその後の行方も記録されていない」


 噴水の水が流れる音だけが続いた。ファイはしばらく膝の上で手を組んでいた。


「……レンが、そうだと思う?」


「状況証拠が揃いすぎている」


「俺もそう思っていた」


 ファイは膝の上で手を組んだ。声は静かだったが、その手が少し固くなっていた。


「ただ、確証がないから黙っていた。それに……認めたくない気持ちも、正直あった」


「認めたくない?」


「レンがサクラを守りたいと思っているのは本物だと、俺は信じている。でも、もし最初から排除するために作られた存在だったとしたら、その気持ちがどこから来るのか、わからなくなる。本物かどうか、確かめる方法がない」


 ルークは少し考えた。ファイの言葉は感情から来ていた。しかしその感情の根っこにあるものは、ルークが書庫で感じた迷いと同じものだった。


「確かめる方法はある、と俺は思う」


「どうやって?」


「レン自身が選び続けることだ」


 ファイがこちらを見た。


「記憶が戻れば、全てがわかる。神に作られた存在だと知ったとき、それでもサクラのそばにいると選ぶかどうか。その選択が、答えになる」


「……でも、それはまだ先の話だ」


「ああ。だから今は、黙っておく方がいいと俺も思う」


 ファイは小さく息をついた。


「今のレンを動かしているのは、守りたいという気持ちだけだ。それが本物かどうかを疑わせる情報を、今渡す必要はない」


「うん」


「ただ」とルークは続けた。「記憶が戻るとき、レンは一人で受け止めることになるかもしれない。そのときに備えて、俺たちがそばにいることを確かめておきたかった」


 ファイはしばらく黙っていた。噴水の水が流れ続けていた。


「……いるよ」


 短く、しかし迷いのない声だった。


「そばにいる。何を思い出しても」


 ルークは頷いた。


「俺もそうする」


 庭園に静寂が落ちた。


「一つ聞いていいか」


 ファイが言った。


「何だ」


「レンが全てを思い出したとき、それでもサクラのそばにいると選ぶと思うか」


 ルークは少し考えた。


「思う」


「根拠は?」


「あいつ、サクラの話をするとき、少しだけ言葉が変わる」


 ファイが目を細めた。


「変わる、というのは」


「いつもは必要なことしか話さない。短くて、無駄がない。でもサクラのことを話すとき、わずかだけど間が生まれる。言葉を選んでいる間だ。大事なものを扱うときの、あの間だよ」


 ファイは黙っていた。


「作られた存在だとしても、あの間は作れない。少なくとも俺はそう思う」


 静かな声だった。


 ファイは少し視線を落とし、それから顔を上げた。


「……そうであってほしいと、俺も思う」


 午後の光が、庭園を金色に染めていた。


 二人はしばらくそのまま、何も言わずに並んでいた。

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