契約の欠片
医務室で手当てを受けながら、天井を見ていた。
左腕の包帯が白く巻かれている。焼ける感覚は薄れていたが、動かすとまだ鈍く痛んだ。膝も、胸も。体のあちこちが、今日の決闘を丁寧に記録していた。
サクラは手当てが終わると「今日はよく休みなさい」と言い、一度部屋を出た。その顔は平静を保っていたが、扉が閉まる直前、廊下に出てから小さく息をついたのが聞こえた。
しばらく一人だった。
それからルークが戻ってきた。椅子を引いて座り、腕を組んでこちらを見た。
「一つ、聞いていいか」
「何だ」
「あの剣の強度、途中から明らかに上がっていた。何かを意識したか?」
少し考えた。
「……守りたいものを、込めた」
ルークは黙った。しばらく考えるような顔をして、それから静かに言った。
「契約魔法、という話を聞いたことがある」
「契約魔法?」
「魔力ではなく、魂を媒介にする魔法だ。魔術とは根本的に異なる。そして」
ルークはこちらをまっすぐ見た。
「契約の内容に対する覚悟が強いほど、力が増すという」
その言葉が、胸の奥で何かに触れた。
守りたいという気持ちが、剣の強度を上げた。覚悟が、力になった。
「……俺は、何かと契約しているのか?」
「わからない。でも」
ルークは立ち上がり、窓の外を見た。夕暮れが夜に変わりかけていた。魔術灯が一つひとつ点り始める。
「記憶がないということは、契約した瞬間のことも覚えていないはずだ。しかしその力は残っている」
沈黙が落ちた。
「契約の相手が何なのか、なぜ記憶を失ったのか。それを探る価値はあると思う」
「……そうかもしれない」
ルークはこちらを見た。それから少し声のトーンを変えた。
「もう一つ、話してもいいか。これは俺が調べたことだ」
「何を調べた?」
「君のことを」
予想外の言葉だった。黙って続きを待った。
「入学前から気になっていてね。アルティナ家が素性不明の客人を迎え、学院に推薦した。しかも魔力なしで武器生成ができるという話まで聞こえてきた。皇太子として、気にならない方がおかしい」
「それで、何がわかった?」
「ほとんど何も」
ルークは静かに言った。
「グラシアの戸籍にレンという名前はない。アルティナ家以前の記録も存在しない。まるで七日前に突然この世界に現れたような、そういう空白がある」
「事実そうだ」
「わかってる。ただ」
ルークは少し間を置いた。
「一つだけ、気になることがあった」
「何だ」
「君の存在が、記録にない割には、妙に……自然だということだ」
意味がわからず、黙っていた。
「記憶を失った人間は、大抵どこかぎこちない。言葉の端々に、失われた文化や習慣が滲む。しかし君にはそれがない。この国の言葉を完璧に話し、礼儀も知っている。戦い方も、魔術師相手に対応できるほど洗練されている」
ルークはこちらをじっと見た。
「まるで最初からここにいたような。あるいは——ここにいるために、用意されたような」
胸の奥で何かがざわりとした。
「用意された、か」
「可能性の一つとして言っただけだよ。断言はしない。ただ」
ルークは窓の外に目を戻した。
「君が何者であれ、今日サクラを守ったのは事実だ。俺はそれで十分だと思っている」
返す言葉が見つからなかった。
扉が開いた。サクラだった。ルークを見て、少し目を細めた。
「もう話しているの?」
「有益な話だったよ」
ルークは軽く肩をすくめた。サクラはこちらへ歩み寄り、包帯の巻かれた左腕をちらりと見た。
「痛い?」
「少しだけ」
「少しだけ、ね」
サクラは呆れたような顔をした。それから椅子を引いて、静かに腰を下ろした。何かを言おうとして、やめて、また考えるような間があった。
「……ありがとう」
小さかったが、確かに聞こえた。
胸の奥で、何かがまた静かに動いた気がした。
***
サクラとルークが医務室を出た後、ファイだけが残った。
窓際に寄りかかり、しばらく外を見ていた。それから、こちらに向き直った。
「少し、話してもいいか」
「ああ」
ファイは銀髪をかき上げ、床を見てから顔を上げた。いつもの人懐っこい表情ではなく、どこか慎重な目をしていた。
「俺も少し調べた。ルークとは別に」
「何を?」
「アルティナ家のことを。サクラのことを」
ファイは続けた。
「サクラとは幼い頃からの付き合いだ。妹みたいに思っている。だから知っている。あの子がずっと、一人で抱えてきたものを」
「……何を抱えていた?」
「今すぐ全部話すことはできない。サクラ自身が話していないことを、俺が先に言うのは違う気がするから」
ファイは真っ直ぐにこちらを見た。
「ただ一つだけ言える。サクラのそばには、ずっと誰かが必要だった。魔術の使える護衛なら公爵家にいる。でも俺が探していたのは、そういう意味じゃない」
「どういう意味だ?」
ファイは少し間を置いた。
「サクラが本当のことを話せる人間。あの子が弱いところを見せても、逃げない人間」
窓の外で夜風が吹いた。
「今日の決闘を見ていた。ボロボロになっても、レン、君は剣を手放さなかった。サクラのために」
ファイは視線を逸らし、それからまた戻した。
「正直に言えば、最初は信用できなかった。素性も記憶もない人間が、サクラに近づいている。それが怖かった」
「当然だ」
「でも今は……違う」
ファイは小さく笑った。照れているような、安堵しているような、複雑な笑い方だった。
「サクラのことを、頼む」
短い言葉だった。しかしその重さは、十分に伝わった。
「……ああ」
ファイは頷いた。それから「じゃあ、またな」と言って扉へ向かった。
出ていく直前、振り返った。
「ルークが言いたかったこと、俺も同じだよ」
「何だ?」
「もう少し、人を信用してもいいと思う」
扉が閉まった。
***
医務室に一人残された。
天井を見上げた。包帯の巻かれた腕が、じくじくと痛んでいる。
契約の相手が何なのか。なぜ記憶を失ったのか。ここにいるために用意されたとは、どういう意味なのか。
答えはまだ、霧の中にあった。
しかし今日、確かなことが一つ増えた。
手のひらを見た。剣が消えた後も、まだかすかに熱が残っていた。守りたいという気持ちが、この熱を作っている。
それだけは、嘘じゃない。
友人、という言葉を、心の中で繰り返した。
ルークとファイ。二人の顔が浮かんだ。
悪くない、と思った。




