学院という戦場
グラシア国立貴族学院は、王都の丘の上に建っていた。
白い石造りの校舎が連なり、広大な敷地の中に演習場、図書館、寮棟が整然と並んでいる。入学式の朝、馬車の窓からその全景を眺めながら、路地裏とはまるで別の世界だと改めて思った。
サクラは隣に座り、手元の資料に目を落としていた。緊張しているようには見えなかった。もっとも、サクラが緊張を表に出す人間ではないことは、この数週間で十分にわかっていた。
「着いたわ」
馬車が止まると、サクラは資料をまとめて立ち上がった。扉が開き、外の空気が流れ込んでくる。新しい場所の匂いがした。
***
入学式は大講堂で行われた。
天井の高い石造りの空間に、百人近い新入生が整然と並んでいる。全員が上等な制服を纏い、家柄の良さをにじませた立ち姿をしていた。壇上の学院長が挨拶を述べる声が響く中、これだけの人間が同じ場所に集まって同じ方向を向いているという光景が、妙に遠く感じた。路地裏にいた七日間、これほどの人数を一度に目にしたことはなかった。
視線がこちらに集まっていることには、早々に気づいていた。
サクラの隣に立つ、素性の知れない人間。それがどれほど異質に映るか、想像するのは難しくなかった。囁き声が聞こえた。アルティナ家の客人らしい、魔力がないそうだ、なぜここにいるのか。
サクラはそれを意に介した様子もなく、前を向いていた。
式が終わると、午後には寮への入居があった。割り当てられた部屋は二階の端で、窓から学院の庭園が見渡せた。荷物といえる荷物はほとんどなかった。公爵邸から持ってきた着替えと、入学時に配られた教科書だけだ。男子寮と女子寮は棟が分かれており、週末には公爵邸に戻る約束になっていた。
翌日、新入生たちはそれぞれの組に分かれた。サクラとは同じ組になった。公爵家の意向が働いているのだろうと思った。
教室に入ると、二人分の席が並んで用意されていた。窓際の席に座ると、すぐに周囲の視線を感じた。好奇心と、警戒と、わずかな侮蔑が混じった目だった。
「気にしないで」
サクラが小声で言った。
「気にしていない」
「……嘘ね」
正確には、気にしていないわけではなかった。ただ、どう対処すればいいかわからなかっただけだ。
***
最初の授業は魔術基礎論だった。
教壇に立った壮年の教師が、出席を取りながら一人ずつ簡単な魔術の実演を求めた。新入生の力量を測るためらしかった。
生徒たちが次々と魔術を披露した。炎を灯す者、風を起こす者、小さな水球を浮かべる者。基礎的なものばかりだったが、それぞれが当たり前のように魔力を扱っていた。
やがて名前を呼ばれた。
「レン。アルティナ家客人」
立ち上がると、教室中の視線が集まった。
「魔術を」
「魔力がありません」
教室がざわめいた。教師は眉をひそめた。
「魔力がない、とは?」
「文字通りの意味です。一般魔術の使用ができません」
ざわめきが大きくなった。どこかで笑い声が上がった。魔力のない人間が貴族学院に、という声も聞こえた。
教師はしばらく黙っていたが、やがて短く「座れ」と言った。それ以上は何も言わなかった。
席に戻ると、サクラがこちらを見ていた。何も言わなかったが、その目には謝罪でも哀れみでもない、どこか真剣な色があった。
***
昼食の時間になると、中庭のベンチに座って食事をとった。食堂は人が多く、視線が集まるのが目に見えていたからだ。
「ここにいたのか」
声がして顔を上げると、二人の人間が立っていた。
一人は金髪に青い瞳の少年で、整った顔立ちをしていた。纏う雰囲気に、育ちの良さがにじんでいる。もう一人は銀髪で、少し人懐っこい笑みを浮かべていた。
「俺はルーク・グラシア。君がアルティナのところの客人だって聞いてね」
金髪の少年が言った。
「隣はファイ。アルティナ家とは旧知の仲だよ」
「ファイ・セルディアです。サクラとは幼い頃から」
銀髪の少年が続けた。
ルーク・グラシア。その名には聞き覚えがあった。サクラから少しだけ聞いていた。皇太子、と。
「……皇太子が、なぜ」
「堅苦しいのは苦手でね。それに」
ルークはベンチの隣に腰を下ろしながら言った。
「魔力なしで武器を生成したって話、本当? それは興味深い」
「本当だ」
「見せてもらえる?」
断る理由もなかった。右の手のひらに意識を向けると、あの夜と同じように、何かが形を結んでいく感覚があった。指を開くと、細身の剣が現れた。
ルークが目を細めた。ファイが息を呑んだ。
「……本当に魔力を使っていない」
ルークが呟いた。
「どういう原理なんだろう。魔術じゃない、ということは……魔法?」
「わからない」
「正直だね」
ルークは笑った。警戒心のない、素直な笑い方だった。
「面白い。仲良くしよう、レン」
***
問題が起きたのは、入学から十日ほど経った放課後のことだった。
演習場から戻る途中、数人の上級生に呼び止められた。先頭に立っていたのは、黒髪を後ろに撫でつけた長身の少年だった。上級生の中でも特に位の高い家柄らしく、周囲の生徒たちが道を開けるのが見えた。
「アルティナの客人とやらに話がある」
少年は腕を組み、こちらを見下ろした。
「魔力なしの孤児が貴族学院にいるとは聞いていたが、本当だったとはな。笑えない冗談だ」
黙っていた。
「アルティナのお嬢様も物好きだ。拾った野良犬を学院まで連れてくるとは」
それでも黙っていた。言い返す言葉が思い浮かばなかったわけではない。ただ、この種の挑発に乗ることに意味があるとは思えなかった。
「おい、聞いているか」
「聞いている」
「ならば答えろ。お前のような人間がここにいる理由が、どこにある」
「アルティナ公爵の客人として入学した。それだけだ」
少年は鼻を鳴らした。
「公爵の名を借りなければ何もできない、か。情けない」
そこで背後から声がした。
「エドガー先輩」
振り返ると、サクラが立っていた。制服のまま、真っ直ぐな目で上級生を見ている。
「レンに何か御用ですか?」
「サクラ・アルティナか。ちょうどいい」
エドガーと呼ばれた上級生は、口の端を持ち上げた。
「決闘を申し込む。この魔力なしの孤児と、俺とで」
周囲がざわめいた。
「賭けるものは……そうだな。お前だ、サクラ・アルティナ」
場が静まり返った。
「この孤児が勝てば何も言わない。しかし負ければ、お前は一ヶ月間、俺の言うことに従え」
サクラの表情が変わらないのに、こちらは驚いた。ただ、その手が静かに握られているのが見えた。
「……受ける必要はない」
サクラが静かに言った。こちらへ向けた声だった。
「受ける」
気づけば答えていた。
「レン」
「構わない」
エドガーを見た。余裕の笑みを浮かべている。魔力なしの相手など問題にもならない、と顔に書いてあった。
「明日の放課後、演習場で。楽しみにしているぞ」
***
その夜、部屋で木剣を握っていると、扉がノックされた。
「入っていい?」
サクラだった。入ってきたサクラは、椅子に座ってこちらを見た。
「なぜ受けたの?」
「受けなければ、ずっと同じことが続く」
「でも相手は上級生よ。魔術の腕も確かだわ」
「わかっている」
サクラはしばらく黙っていた。
「……私のために受けたの?」
少し考えた。
「それもある。しかし」
木剣を握る手に力を込めた。
「お前をそんな形で賭けにされたまま、黙っていられない」
サクラが目を瞬かせた。それから、静かに息をついた。
「……馬鹿ね」
「そうかもしれない」
「でも」
サクラは立ち上がり、扉へ向かいながら言った。
「負けないで」
命令のような、祈りのような言葉だった。
***
翌日の放課後、演習場には人が集まっていた。
噂が広まっていたらしく、上級生も下級生も大勢が見物に来ていた。ルークとファイの姿もあった。ルークは腕を組んで静かに見守り、ファイは明らかに心配そうな顔をしていた。
エドガーが中央に立ち、こちらを見た。
「来たか。せめて勇気だけは認めてやろう」
答えなかった。
審判役の教師が両者の間に立ち、ルールを告げた。魔術の使用は自由。降参か、戦闘不能で決着とする。
教師が下がり、演習場に沈黙が落ちた。
エドガーが先に動いた。
魔力が収束する気配があった。次の瞬間、風の刃が飛んでくる。身を捻って躱すと、石畳を抉る音がした。速い。そして重い。
右の手のひらに意識を向けた。
守りたいものがある。
剣が現れた。あの夜と同じ、淡い光を帯びた細身の剣。しかし今日は、刀身の光がより強く見えた。
「魔力なしで武器生成……本当だったか」
エドガーが目を細めた。しかし余裕の色は消えなかった。
「しかし剣一本で、魔術師に勝てると思うな」
連続して魔術が飛んできた。炎、風、石礫。一つひとつを躱し、弾きながら距離を詰めていく。体が覚えている動きだった。しかし数が多かった。
左腕に炎が掠った。制服が焦げ、肌が焼ける感覚がした。一瞬、視界が揺れる。それでも足を止めなかった。
膝に風の魔術が直撃した。体が傾いた。前を向こうとしたとき、視界の端が白くなった。膝が笑っている。それでも剣を手放さなかった。
守りたいものがある。
その思いを、剣に込めた。
刀身の光が強くなった。
エドガーとの距離が、一間を切った。
「なぜ……まだ立っている」
エドガーの声に、初めて動揺が滲んだ。
「お前は魔力がないはずだ。なぜその剣が……」
答える余裕はなかった。最後の力を振り絞り、エドガーの魔術起動を剣の腹で弾いた。術式が霧散する。そのまま剣の柄を、エドガーの腹に叩き込んだ。
エドガーが膝をついた。
演習場が、しんと静まり返った。
審判役の教師が声を上げた。
「エドガー・バルモア、戦闘不能。勝者、レン」
その声を聞いた瞬間、膝から力が抜けた。
石畳に片膝をついた。体のあちこちが痛んだ。左腕の火傷、膝の打撲、胸の痛み。まともに立っているのがやっとだった。
ふと、エドガーに目をやった。膝をついたまま、こちらを見ていた。怒りかと思ったが、違った。何かを測るような、静かな目だった。それから短く、ほとんど声にならない声で言った。
「……覚えておく」
敗北宣言でも、謝罪でもなかった。ただそれだけを言って、エドガーは立ち上がり、人混みの中へ消えていった。
駆け寄ってくる足音がした。
「レン」
サクラだった。膝をついてこちらの顔を覗き込んでいる。薄紅の瞳が、今日は珍しく揺れていた。
「馬鹿。無茶をしすぎよ」
「……勝った」
「わかってる」
「賭けは、俺が守った」
サクラは一瞬、目を伏せた。
「……ええ」
小さな声だった。
周囲がざわめき始めた。ルークがこちらへ歩いてきながら、何かを呟いているのが聞こえた。ファイが医務室を呼びに走っていた。
手の中の剣が、静かに消えていった。
石畳の冷たさが、膝から伝わってくる。路地裏で目を覚ましたあの朝と、少し似ていた。しかし今は、隣に誰かがいた。




