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アルティナ公爵家

 馬車の中は静かだった。


 向かいの席に座るサクラは、窓の外を流れる夜の街並みをじっと見ていた。揺れるたびに黒髪がかすかに揺れ、魔術灯の光が薄紅の瞳に反射する。追われていたとは思えないほど、その横顔は落ち着いていた。


 ただ、膝の上で組んだ手が、わずかに強張っているのがわかった。


 何も言わなかった。聞くべきことは色々あるような気がしたが、どれも今ではない気がした。馬車は石畳の上を滑るように進み、やがて大きな鉄門の前で止まった。


 門の両脇に立っていた衛兵が、サクラの姿を見て素早く頭を下げた。門が音もなく開く。中に広がっていたのは、これまで路地裏から垣間見ることしかできなかった世界だった。


 手入れの行き届いた庭園。白い石造りの回廊。中央にそびえる館は、グラシアの王城ほどではないにしても、これまで寝床にしていた路地裏とは比べようもない規模だった。


 馬車を降りると、館の扉が開き、数人の使用人が駆け寄ってきた。


「サクラ様、ご無事で……! お怪我は?」


「ないわ」


 サクラは短く答えた。使用人たちがほっと息をついたのも束の間、今度はこちらへ視線が集まった。ぼろぼろの服。汚れた顔と手。どこからどう見ても場違いな存在に、使用人たちの目に戸惑いが浮かんだ。


「この方は?」


「今日から客人よ。部屋を用意しなさい」


 それだけ言って、サクラは館の中へ歩き始めた。使用人たちは顔を見合わせ、それでも素早く動き出した。指示に慣れた動きだった。


 サクラの背中を追いながら、客人、という言葉を頭の中で繰り返した。



***



 通された部屋は、これまでの人生――七日間しかないが――で目にしたどんな場所より広く、清潔だった。天蓋付きの寝台。暖炉。窓の外には庭園が広がっている。使用人が湯を用意してくれ、新しい服も届けられた。


 風呂に入り、服を着替えると、鏡の中に見知らぬ人間がいた。


 顔は知っている。七日間、水面に映る自分を見てきた。しかし清潔な服を纏ったその姿は、路地裏の孤児とはどこか違って見えた。かといって、貴族でもない。どこにも属さない、宙ぶらりんの何かだった。


 ノックの音がした。


「入っていい?」


 サクラの声だった。返事をすると、扉が開いた。着替えを済ませたサクラは、先ほどの泥のついたドレスではなく、落ち着いた濃紺の室内着を纏っていた。手に盆を持っている。


「食事を持ってきたわ。厨房に頼んだの」


 盆の上にはスープと、パンと、焼いた肉が載っていた。湯気が立っている。


「……座りなさい」


 サクラが小さなテーブルに盆を置き、椅子を引いた。促されるまま座ると、サクラは向かいの椅子に腰を下ろした。


「食べて」


 スープを一口飲んだ。熱が喉を通り、胃の底へ落ちていく。手が、勝手にスプーンを持ち直していた。七日間、体が忘れていた何かが、ゆっくりと戻ってくるような感覚だった。


 サクラはこちらが食べるのを、何も言わずに見ていた。急かすでもなく、ただ静かに。その視線が少し居心地悪かったが、それよりスープの温かさの方が勝った。


「……いいのか? こんなにしてもらって」


「客人に食事を出すのは当然でしょう」


 そう言いながら、サクラ自身も手元のカップに口をつけた。温かい茶らしかった。


 しばらく無言が続いた。


「追ってきた男たちは何者だ?」


「わからない。心当たりは……いくつかあるけれど、確証はないわ」


「公爵家の令嬢が追われる理由が、いくつもあるのか?」


「この国では珍しくないわ。貴族の世界はそういうものよ」


 淡々とした言い方だった。慣れているのか、それとも見せまいとしているのか、判断できなかった。


「……父には報告する。あなたのことも含めて」


「構わないのか? 素性もわからない人間を家に上げて」


「あなたが私を助けたのは事実よ。それで十分」


 サクラはこちらを真っ直ぐ見た。


「それに」


 少し間があった。


「あなたには行くところがないでしょう」


 反論できなかった。事実だった。



***



 アルティナ公爵と対面したのは、翌朝のことだった。


 書斎に通されると、執務机の前に初老の男が立っていた。白髪交じりの髪、整えられた口髭。サクラと同じ薄紅の瞳が、こちらをゆっくりと観察した。その視線には圧があった。値踏みでも敵意でもない。ただ、長く人を見てきた人間の目だった。広い書斎の中で、この人物だけが空気の密度が違うように感じた。


「昨夜、サクラを助けてくれた子かね?」


「はい」


「名は?」


「レン、と言います。サクラ様につけていただきました」


 公爵は少し目を細めた。サクラの方を見て、それからまたこちらを見た。


「素性は?」


「記憶がありません。七日前に路地裏で目を覚ましたときから、何も」


 正直に答えた。隠す理由もなかった。公爵は表情を変えず、しばらく黙っていた。その沈黙は責めるものではなかった。考えている、という重さがあった。


「昨夜、サクラから話は聞いた。魔力なしで武器を生成したと」


「はい」


「魔力のない人間に武器の生成はできない。それは魔術の常識だ」


「わかっています。しかし実際に生成しました」


 公爵は再び黙った。今度は少し長い沈黙だった。


「……サクラ」


「はい、父様」


「この子を、しばらく客人として置いてもいいか?」


 サクラは静かに頷いた。


「私もそのつもりでした」


 公爵はこちらに向き直り、おもむろに手を差し伸べた。


「レン。我がアルティナ家へようこそ。しばらく世話になるといい」


 その手を握った。大きく、節張った手だった。剣を握ってきた手だと、なんとなく思った。



***



 アルティナ家での生活が始まった。


 最初の朝、食堂に案内されたとき、使用人の一人が「おはようございます、レン様」と言った。返し方がわからず、一拍遅れて「……ああ」とだけ答えた。使用人は特に気にした様子もなく、椅子を引いてくれた。白いテーブルクロスの上に、整然と並んだ食器。パンとスープと、小さな果物の皿。どこに手をつければいいかわからないまま、隣の席のサクラが自然な動作でナプキンを広げるのを横目で見て、真似をした。


 そういう朝が、続いた。


 使用人たちは三日もすれば普通に接してくれるようになった。路地裏では誰も名前を呼ばなかったが、ここでは朝も夜も「レン様」と呼ばれた。そのたびに少し、自分というものが輪郭を持っていく気がした。


 サクラとは、毎日のように顔を合わせた。


 サクラは忙しい人間だった。家庭教師との授業、礼儀作法の稽古、来客への対応。公爵令嬢というのは想像以上に多忙らしかった。それでも夕方になると、決まって中庭に姿を現した。


「何をしているの?」


 ある夕方、中庭で木剣を素振りしているところへサクラがやってきた。


「体を動かしていた」


「剣の心得があるの?」


「わからない。ただ、体が動きたがっている」


 サクラはしばらくこちらを見ていた。それから、近くに立てかけてあったもう一本の木剣を手に取った。


「教えてくれる?」


「俺が、か?」


「あの夜の動きを見ていたわ。剣術の心得があるのは明らかでしょう」


 断る理由もなかった。


 それから夕方の中庭は、二人の稽古場になった。


 サクラはもともと剣の基礎を習っていたらしく、姿勢は正しかった。しかし力みが強く、大きく踏み込んだ後に体が流れる癖があった。


「踏み込んだ後、重心が前に残りすぎている」


「こう?」


「もう少し。……そう、そこだ」


 修正するたびに、サクラは素直に繰り返した。文句を言わず、同じ動作を何度でも試した。その集中の仕方が、どこか剣を握る自分と似ていると思った。


 こちらは教えながら、少しずつ体の記憶を取り戻していくような感覚があった。どこかで誰かに教えられた動き、刷り込まれた型。言葉にはできないが、体が覚えている何かが、確かにあった。


 ある日の稽古の後、サクラが汗を拭きながら言った。


「ねえ、レン」


「何だ?」


「学校に行く気はある?」


 突然の話だった。


「学校?」


「グラシア国立貴族学院。貴族の子弟が通う学校よ。私も来月から入学するの」


 木剣を持ったまま、サクラを見た。夕日が傾いて、中庭に長い影を作っていた。さっきまでの稽古で、サクラは何度も同じ動作を繰り返した。うまくできないたびに唇をわずかに引き結んで、また最初からやり直していた。この人は、必要だと思ったことには妥協しない。


「俺は貴族ではない」


「父様が推薦状を書いてくださると言っていたわ。アルティナ家の客人として入学できる」


「なぜ?」


「あなたには記憶がない。自分が何者かもわからない。だったら、色々なことを学べる場所に行くべきでしょう。もしかしたら自分のことも、何かわかるかもしれない」


 理屈は通っていた。


「……それだけか?」


 少し間があった。サクラは視線を中庭の石畳に落とし、それからまたこちらを見た。


「一人で行くより、知っている人間がいた方がいいと思っただけよ」


 それだけ言って、サクラは木剣を元の場所に戻し、館の中へ歩き始めた。


 その背中を見ながら、胸の奥で何かが動いた。あの夜、初めて名前を呼ばれたときに感じたものに、少し似ていた。


「……わかった」


 サクラは振り返らなかった。ただ、歩みが一瞬だけ止まって、それからまた動き出した。



***



 入学の話は翌日には決まった。


 公爵は書類の手配を素早く進め、一週間後には入学許可が下りた。アルティナ家の推薦状は、それほど重いものらしかった。使用人たちが制服や教材を揃えてくれた。


 入学前夜、窓から夜空を眺めていると、ノックの音がした。


「入っていい?」


 サクラだった。扉を開けると、手に小さな包みを持っていた。


「これ」


 受け取ると、中には細い革のブレスレットが入っていた。小さな金属の留め具に、見慣れない紋様が刻まれている。


「アルティナ家の紋章よ。学院では身分証の代わりになるわ」


「……ありがとう」


「礼はいらない。客人の面倒を見るのは当然のことよ」


 そう言いながら、サクラはこちらの手首を取り、ブレスレットを留めてくれた。慣れた手つきだったが、その指先が少し冷たかった。


「サクラ」


「何?」


「学院でも、追われることはあるか?」


 サクラの手が、一瞬止まった。


「……わからない。でも」


 留め具を確認してから、サクラは手を離した。


「あなたがいるなら、少し安心ね」


 それだけ言って、サクラは部屋を出た。


 残された部屋の中で、ブレスレットを見た。細い革に刻まれた紋章が、窓から差し込む月明かりに淡く光っていた。


 明日から、新しい場所へ行く。


 記憶はない。魔力もない。自分が何者かもわからない。それでも、守りたいものがある。


 それだけは、確かだった。

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