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路地裏の邂逅

 目が覚めると、石畳の冷たさが頬に染みていた。


 体を起こすと、見知らぬ路地裏だった。積み上げられた木箱の隙間から、夕暮れ色の空が細く覗いている。遠くから市場の喧騒が聞こえた。肉を焼く匂い、馬の蹄の音、誰かの笑い声。世界はどこかで賑やかに動いているのに、自分だけがそこから切り離されているようだった。


 名前がわからない。


 それだけでなく、どこから来たのかも、なぜここで倒れていたのかも、何もわからなかった。頭の中を探ってみると、言葉の意味は知っている。空腹とはどういうことか、寒さとはどういうことかも理解できる。しかし肝心なことが――自分が何者であるかが、するりと指の間からこぼれ落ちるように、どこにもなかった。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 腹が、減っている。



***



 街は「グラシア」と呼ばれる王国の首都だった。そのことは、路地の入り口に貼られた古びた布告文を読んで知った。グラシア王国、治安維持のための魔術行使規制について、とある。魔術という言葉も自然に読めた。ということは、この世界に魔術があることも知っている。ただ、自分にそれが使えるかどうかは……試してみるまでもなく、なんとなく使えないとわかっていた。


 根拠はない。ただそういう気がした。


 数日は路地裏で過ごした。捨てられたパンの端を拾い、水路で喉を潤し、野良猫と肩を並べるようにして夜をやり過ごした。貴族らしい身なりの人間が通るたびに、手のひらから淡い光を溢れさせながら颯爽と歩いていく姿が目についた。あれが魔術というものだろう。街灯を点ける者、荷車を浮かせる者、指先から細い炎を伸ばして煙草に火をつける者。魔術はこの街の人間にとって、手や足と同じくらい当たり前のものらしかった。


 自分にはそれがない。


 不思議と悲しくはなかった。もともと持っていたものを失ったわけではなく、最初からないのだと、どこかで知っていたから。



***



 運命的な衝突は、七日目の夕暮れに起きた。


 その日は珍しく、大通りに近い路地まで踏み込んでいた。パン屋が閉店間際に屑入れに捨てる焼き損じを狙っていたのだ。角を曲がった瞬間、視界が白く弾けた。


 柔らかいものにぶつかった。


 倒れる前に咄嗟に壁に手をついて、もう片方の手で、ぶつかった相手を抱き止めていた。反射的な動きだったが、自分でも驚くほど素早かった。


 最初に目に飛び込んできたのは、薄紅の瞳だった。


 桜の花びらに似た、儚い色。驚きに見開かれたその瞳が、間近でこちらを見つめていた。それから初めて、白いドレスが目に入った。夜会にでも出席するような、丁寧な刺繍と幾重にも重なったレースの衣装。乱れた黒髪の間から覗く肌は、白磁のように滑らかだった。


 少女は一瞬、息を呑んだ。そして次の瞬間、鋭い眼差しでこちらを見上げた。


「……離しなさい」


 低く、しかし凛とした声だった。命令に慣れた声。生まれたときから誰かの上に立ってきた人間の声。


 すぐに手を離して、一歩退いた。少女はドレスの裾を払い、姿勢を正した。乱れた髪を指で梳こうとして、しかし何かに気づいたように足を止め、後ろを振り返った。


 路地の奥が、静かすぎた。


「……追ってきている?」


 少女が呟いた。独り言のような、確認するような声。


 何かを感じた。上手く言葉にできない感覚だったが、この路地の空気が少し前と変わっているのはわかった。潮が満ちるような、じわじわとした圧迫感。人の気配が、複数。


「そのようだ」


 気づけば答えていた。少女は驚いたように目を瞬かせ、それからこちらを改めて見た。ぼろぼろの服。汚れた手。路地裏の孤児そのものの出で立ちを、しかし少女は蔑むでもなく、ただ静かに観察した。


「あなたは?」


「名前はない。この辺りの路地裏に住んでいる」


 サクラは一瞬、こちらの言葉を吟味するように視線を路地の奥へ向けた。気配はじわじわと近づいてきている。考える時間はない。


「追っ手が来るなら、大通りより路地の奥の方がいい。入り組んでいて、よほど土地勘がなければ追えない。この辺りの抜け道なら知っている」


 言いながら、路地の先を顎で示した。


「……路地裏の方が、今の私より安全な場所を知っていると?」


「ここより、少しだけ」


 少女は一秒だけ考えて、頷いた。


「案内しなさい」



***



 三人の男が路地に入ってきたのは、隠れ場所に向かって走り始めて間もなくのことだった。


 全員が魔術師の装束を纏っていた。腰に魔術を増幅させる術式石を下げ、手には既に魔力が収束しかかっている。本職の、腕のいい部類だった。


「待て」


 男の一人が言った。声に魔力が混じり、空気が重くなる。束縛の魔術の前兆だ。


 少女の腕を引いて、角を折れた。


 しかし次の曲がり角から、さらに二人が現れた。前後を挟まれた形になる。行き止まりに近い袋小路。積み上げられた木箱と、崩れかけた煉瓦の壁だけがある場所。


 少女が息を詰めた。初めて、恐怖の色が薄紅の瞳に滲んだ。


「……サクラ・アルティナ様。大人しくしていただければ、傷つけるつもりはございません」


 男の一人が言った。丁寧な言葉遣いだったが、目は笑っていなかった。


 サクラ・アルティナ。その名が、ふと何かに触れるような感覚を連れてきた。知っているような、知らないような。しかし今はそれを考えている場合ではない。


 少女――サクラ――の前に、半歩出た。


「何をするつもり?」


 背後でサクラが言った。驚きと、かすかな怒りが混じった声。


「さあ?」


 正直に答えながら、男たちを見た。五人。全員魔術使い。自分には魔力がない。手の届く距離まで近づく以外に、できることはない。


 右の手のひらに、何かが生まれる感覚があった。


 熱くはない。しかし確かに、何かが形を結んでいく。指を開くと、そこには細身の剣があった。刀身は淡い光を帯びており、柄は手に吸い付くように馴染んだ。見たことのない形状のはずなのに、まるで生まれたときから持っていたもののように、しっくりと手に収まった。


 男たちが動きを止めた。


「……魔力なしで、武器生成だと?」


 誰かが呟いた。


 それが好機だった。


 気づいたときには踏み込んでいた。剣の腹が弾いた感触、術式が霧散する音、それを認識するより先に、次の男との距離が消えていた。背後から魔力の収束音がした。考えるより先に体が沈み、頭上を熱い奔流が通り過ぎる。振り返らずに壁を蹴り、二人目に肉薄した。


 体が知っていた。


 魔術師がどこから術を放つか、どの角度に死角があるか、どう動けば一対多でも捌けるか。頭の中は静かなままで、体だけが淀みなく動き続けた。


 気づくと、五人全員が地に伏していた。


 大きなダメージを与えたわけではない。全員、意識はある。ただ戦闘続行ができない状態に追い込んだだけだ。それで十分だった。


 荒い息をつきながら振り返ると、サクラが石畳の上で膝をついていた。転んだらしい。ドレスの裾に泥がついている。


 手を差し伸べた。


 サクラはその手をしばらく見つめて、それからゆっくりと掴んだ。引き上げると、立ち上がりながら正面から顔を見た。薄紅の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。


「……あなた、名前は本当にないの?」


「ない」


「なぜ助けたの? 私はあなたに何もしていない」


 守りたかった、という言葉が浮かんで、それから消えた。


「……気が向いた」


 サクラは一瞬だけ、意外そうな顔をした。それからかすかに、ほんのかすかに口の端が動いた。笑ったのか、呆れたのか、よくわからなかった。


「そう」


 短く言い、サクラは服の汚れを払った。それから改めてこちらを見た。値踏みするような、しかしどこか温かみのある視線。


「アルティナ家に来なさい。お礼をする」


「……アルティナ家?」


「アルティナ公爵家。私の家よ」


 路地の出口に向かって歩き始めたサクラの背中を、しばらく眺めた。


 手の中の剣は、いつの間にか消えていた。まるで最初からなかったように。


 ただ、手のひらに薄っすらと残る温もりだけが、確かに何かがあったことを告げていた。



***



 公爵家の馬車が迎えに来るまでの間、路地の入り口でサクラの隣に立っていた。


 夕暮れが夜に変わり始め、街の魔術灯がひとつひとつ点り始める。橙と青が混ざる空の下で、サクラはどこか遠くを見ていた。


「……怖くなかったの? あの男たちが」


 突然、サクラが言った。


「よくわからない」


 サクラはこちらを見た。何かを待つような、静かな目だった。


 少し間があってから、続けた。


「怖い、嬉しい、悲しい。そういうものがどういうものか、頭ではわかるが、実感としてわからない」


「……記憶がないの?」


 直球だった。誤魔化す気にもなれず、頷いた。


「気づいたら路地裏で倒れていた。名前も、出身も、何も」


 サクラは黙っていた。哀れみの目ではなかった。かといって無関心でもなく、ただ静かに、こちらの言葉を受け取っているような表情だった。


「いつから?」


「七日前」


 それだけ言った。サクラは小さく頷いて、また遠くを見た。夜風が路地を抜けて、白いドレスの裾を揺らした。


「怖くないの?本当に。自分が誰かもわからないのに」


 今度はからかいでも確認でもなく、純粋な問いかけのように聞こえた。


 何も言えなかった。怖いかどうか。記憶がないことを、自分はどう感じているのか。


 しばらく黙っていてから、ただ一つだけ確かなことを口にした。


「今日、あなたに会った」


 言ってから、少し言いすぎたかと思った。サクラは驚いたように目を瞬かせた。それから視線を前に戻し、ひとつ息をついた。


「……変な人ね」


「そうかもしれない」


「でも」


 サクラは続けた。声が、わずかに柔らかくなった気がした。


「記憶がなくても、あなたは今日、私を助けた。それは本物でしょう」


 その言葉が、静かに胸の奥へ落ちていった。


「名前をあげる」


 サクラが言った。唐突だったが、その声はどこか真剣だった。


「今日から、あなたの名前は『レン』。私が決めた」


「……なぜ?」


「名前のない人間は不便でしょう。それに」


 サクラは前を向いた。凛とした横顔が、点り始めた魔術灯に淡く照らされている。


「名前のない人を助けてもらったままでは、私の気が済まない」


 レン。


 その名を、心の中で一度繰り返してみた。


 遠くから馬蹄の音が近づいてきた。アルティナ家の紋章が入った立派な馬車が、路地の前に止まる。御者が無言で扉を開けた。


 先に乗り込んだサクラが、振り返ってこちらを見た。


「乗りなさい、レン」


 初めて名前を呼ばれた。


 それだけのことなのに、胸の奥で何かが静かに、しかし確かに動いた気がした。

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