決戦
神が動いたのは、月が変わった夜のことだった。
前触れはあった。
その日の夕方から、空気が違った。学院の中庭で稽古をしていたとき、演習場の窓の外が、わずかに歪んだ。魔術師が術を使うときの歪み方ではなかった。世界の層そのものが、どこか遠くで押されているような。
サクラも気づいていた。木剣を持つ手を止め、窓の外を見た。
「来る」
サクラが言った。
こちらも同じことを思っていた。
***
夜になると、王宮から急使が来た。
ルークからだった。内容は短かった。
今夜、神殿の祭司が複数、王都に集結している。神殿内部からの情報だ。おそらく今夜動く。すぐに来い。
サクラと二人で馬車に乗った。
馬車の中は静かだった。サクラは窓の外を見ていた。その横顔は落ち着いていた。しかし手が、膝の上で固く握られていた。
「怖いか?」
聞くと、サクラはこちらを見た。
「怖い」
躊躇なく答えた。
「でも」
サクラは前を向いた。
「行くわ」
***
王宮に着くと、ルークとファイがいた。アルティナ公爵も来ていた。王宮の広間に、王家の魔術師が十数人集まっていた。全員が戦闘態勢だった。
「状況は?」
「神殿の祭司十二人が、王都の外れに集結した。神殿が使う降神の術式を展開しているらしい」
「降神?」
「神を、この世界に直接降ろす儀式だ。中級以上の神であれば、その力で直接サクラに干渉できる」
ルークの顔が、いつになく硬かった。
「防ぐ方法は?」
「術式を壊すか、儀式が完成する前にサクラを安全な場所へ移すか、あるいは」
ルークはこちらを見た。
「サクラ自身の力で、降りてくる神と対峙するか」
広間が静まり返った。
サクラが一歩前に出た。
「私が行く」
公爵が口を開いた。
「サクラ」
「父様」
サクラは振り返った。
「逃げるつもりはないと言いました。今もその気持ちは変わりません」
公爵はしばらくサクラを見ていた。それから、静かに頷いた。
「……わかった」
その一言に、どれほどのものが込められているか。公爵の顔を見て、少しだけわかった気がした。
***
王都の外れ、古い広場に着いたとき、儀式はすでに始まっていた。
十二人の祭司が円を描いて立ち、中央に術式紋様が展開されていた。地面に描かれた光の線が、脈打つように明滅している。空気が重かった。魔術師たちですら、その重さに顔をしかめていた。
ルークが王家の魔術師たちに指示を出した。祭司たちを術式から引き離すための陣形だった。
しかし間に合わなかった。
術式が完成した。
光の柱が、空へ向かって伸びた。音はなかった。しかし光が届いた空の一点が、暗くなった。暗い、というより、そこだけが別の何かになった。この世界の空ではない、何か別の層が、そこに開いた。
そこから、何かが降りてきた。
形はなかった。しかし存在があった。
その瞬間、手のひらの熱が消えた。剣を呼ぼうとした。できなかった。体が、命令を受け付けなかった。
これが神だ、と思った。記憶の中にある、あの存在だ。使徒だった自分を作り、命令を下し、格を剥奪した。その存在が今、この世界に降りてきた。
魔術師たちも、動けなかった。あまりにも次元の違う何かが現れたとき、体が本能的に判断を停止する、そういう状態だった。
サクラだけが、動いた。
一歩、前へ。
その瞬間、広場の空気が変わった。
サクラの周囲に、光が滲み始めた。あの訓練場で見た光だった。白でも金でもない光。それが今、はるかに強く、はるかに広く、サクラ全体から放たれていた。
降りてきた存在が、止まった。
それまで一直線にこちらへ向かっていたものが、サクラの前で止まった。
「……これが」
誰かが呟いた。ルークだった。
「これが、神殺しの力か」
***
対峙は、静かだった。
サクラと、神が。形のない巨大な存在と、一人の少女が。広場の中央で向かい合っていた。
体の力が戻ってきた。少しずつ、手のひらに熱が返ってきた。
剣を呼んだ。
現れた。
刀身の光は、いつもより細く、弱かった。神の存在そのものが、この場の何もかもを圧迫していた。それでも、剣はあった。
守りたいものがある。
その気持ちを、込めた。
光が、少しだけ強くなった。
周囲の全員が、二つの存在から放たれているものの余波に押さえつけられていた。魔術師たちも、ルークも、ファイも、動けなかった。サクラの背中が見えた。真っ直ぐに立っている。震えてはいなかった。
しかし見えた。
サクラの手が、わずかに白くなるほど強く握られているのが。
この人は怖いと言った。怖いけれど行くと言った。今、その言葉の通りにここに立っている。
それだけで十分だった。いや、十分ではなかった。
一歩、前へ出た。
サクラの隣ではなく、一歩前に。サクラと神の間に、自分の体を置いた。
神の視線が、こちらへ向いた。
わかった。この存在はこちらを知っている。かつての使徒だと、認識している。背いた使徒が、今ここに立っているということを。
剣を構えた。
どれほど無謀かは、わかっていた。神相手に、人間の感情から生まれた力が通じるかどうか、わからなかった。それでも、この場所に立つことには意味があった。
サクラを、後ろに置くことには、意味があった。
***
神の力が、直接叩きつけられた。
足が、石畳に沈み込むような感覚があった。膝が笑った。視界が揺れた。
しかし、剣を手放さなかった。
守りたいものがある。
その気持ちだけが、体を支えていた。
神の力が、さらに強くなった。
今度は足が動かなくなった。前へ出ようとしても、空気の壁に押し返されるような感覚があった。視界の端が白くなり始めた。体中が、内側から押しつぶされるような。
それでも、剣は掲げていた。
守りたい、と思った。
あの瞬間のことを、今も覚えている。命じられた瞬間に、サクラの像が流れ込んできた。何千何万という時間を感情なく過ごしてきた存在が、初めて何かを感じた瞬間。それがサクラだった。
だからここに立っている。
神に作られた存在が、神の前に剣を向けて立っている。
剣の光が、強くなった。押しつぶされそうな重さの中で、刀身が輝いた。演習場の術式紋様を照らしたあの光が、今は広場全体を照らしていた。
神が、動いた。
力が、さらに増した。
視界が、完全に白くなった。
***
その瞬間、背後から別の光が来た。
白でも金でもない光だった。
サクラだった。
「レン、退いて」
サクラの声が、静かに届いた。
退けなかった。退いたら、サクラが前に出る。そうなれば、サクラが神と直接向き合うことになる。
「退いて」
もう一度、サクラが言った。今度は命令ではなかった。懇願に近い声だった。
それから、もう一言だけ、静かに続けた。
「……あなたが傷つくのを、見たくないの」
その言葉が、体の奥まで届いた。
守りたいと思っていた。ずっとそう思っていた。しかし今、サクラも同じことを思っている。こちらのことを。
手のひらから、剣が消えた。
意識して消したわけではなかった。ただ、力が抜けた。
半歩、退いた。
サクラが、前に出た。
その背中が、目の前にあった。
小さいと思ったことはなかった。しかし今、その背中は大きく見えた。何かを全部引き受けようとしている人間の背中だった。一人でずっと抱えてきた人間の、それでも逃げなかった人間の背中だった。
守りたい。
その気持ちが、今この瞬間、全て変わらなかった。しかし今は、前に出ることが守ることではなかった。ここに立って、サクラの背中を見ていることが、今の自分にできることだった。
サクラの全身から、光が放たれた。
あの訓練のときの比ではなかった。白でも金でもない光が、広場を満たした。夜の闇が、その光に押しのけられていく。地面に描かれた術式紋様が、サクラの光に触れて次々と消えていった。
祭司たちが、術式から弾き飛ばされた。
神が、後退した。
形のない存在が、後退した。
サクラが、手を伸ばした。
その手のひらに、光が集まった。
集まりながら、凝縮されながら、何かになろうとしていた。
そのとき、サクラが止まった。
伸ばした手が、そのままの形で止まっていた。
神は後退したまま、動かなかった。広場が、静寂に包まれた。
サクラは動かなかった。止まったまま、前を見ていた。
やがて、サクラがゆっくりと手を下ろした。
光が、消えた。
***
しばらく誰も動かなかった。
やがて、神の気配が変わった。
消えたわけではなかった。しかし、引いた。この世界の層が、ゆっくりと閉じていくのがわかった。
光の柱が、消えた。
術式紋様が、完全に消えた。
祭司たちは地面に伏していた。王家の魔術師たちが、素早く動いて取り囲んだ。
サクラが、ゆっくりと振り返った。
顔が、青白かった。立っているのがやっとのように見えた。
すぐに駆け寄った。
サクラがこちらの腕を掴んだ。倒れまいとするように。
「……終わった?」
小さな声だった。
「ああ」
「神は?」
「退いた」
サクラは小さく息をついた。
「殺さなかった」
「……わかっている」
サクラは手のひらを見た。光はもう消えていた。
「殺せたかもしれない。でも」
サクラは顔を上げた。
「殺したくなかった。それだけよ」
「……お前らしい」
サクラは少し笑った。疲れた笑い方だったが、本物の笑い方だった。
「そう?」
「ああ」
ルークとファイが駆け寄ってきた。公爵が来た。王家の魔術師たちが周囲を固めた。
広場に、人の声が戻ってきた。
***
夜明けが近かった。
王宮に全員が戻り、サクラは医務室で手当てを受けた。力を使ったことによる消耗は魔術師のそれとは違い、体よりも何か根本的なところが疲れているような状態だった、とファイが説明した。ただ、命に関わるものではないと医師は言った。
廊下で待っていると、ルークが隣に来た。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
廊下の窓から外を見ると、空が、少しずつ明るくなり始めていた。夜がまだ残っているが、その端が、かすかに白んでいた。
「終わったな」
ルークが言った。いつもより、声が低かった。軽さがなかった。
「終わったかどうか、まだわからない」
「そうだな」
ルークはしばらく空を見ていた。
「お前が神の前に立ったとき」
静かに続けた。
「魔術師の一人が、何かを言おうとして、やめた。俺もそうだった。止めようとして、止められなかった」
少し間があった。
「お前がそこに立つ理由が、わかったから」
「神は死んでいない」
「わかってる。ただ」
ルークは少し間を置いた。
「サクラが力を使って、神が退いた。それは事実だ。神殺しの力が、本物だということが証明された。神がそれを知った。それは、何かを変えるかもしれない」
「レン」
ファイが廊下の向こうから歩いてきた。
「サクラが呼んでる」
***
医務室に入ると、サクラはベッドに腰を下ろしていた。顔色はまだ悪かったが、目はしっかりしていた。
椅子を引いて、隣に座った。
「大丈夫か?」
「大丈夫よ。疲れただけ」
サクラはしばらく黙っていた。それから、口を開いた。
「あなたが先に神と対峙してくれた」
「ああ」
「あのとき」
サクラは手のひらを見た。
「あなたの剣の光が見えた。いつもより、ずっと強かった」
「覚悟を込めた」
「何の覚悟?」
「お前を守る、という覚悟だ。それだけだ」
サクラはしばらく黙っていた。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
「いいえ」
サクラはこちらを見た。薄紅の瞳が、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「言わせて」
少し間があった。
「ありがとう、レン。初めから、ずっと」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
静かに、深く。
何も言えなかった。ただ、隣にいた。
窓の外が、白んできた。夜明けが来ていた。
朝の光が、医務室の窓から差し込んできた。
サクラが、窓の外を見た。
「きれいね」
「そうだな」
しばらく二人で、朝の光を見ていた。
神との戦いは、終わっていないかもしれない。しかし今日、ここに朝が来た。
それだけは、確かだった。




