人間として生きる
神殿の祭司十二人は、王家の魔術師たちに拘束された。
翌日から、王都は静かだった。
神殿は沈黙した。使者も来なかった。情報屋への接触も、ぴたりと止まった。ルークの言った通り、当分は動けないだろうとファイは言った。それがどれほど続くかは、誰にもわからなかった。
サクラは三日間、公爵邸で休んだ。
力を使った消耗は、日を追うごとに回復した。四日目には食欲が戻り、五日目には中庭を歩けるようになった。六日目の夕方、演習場への稽古の再開を申し出てきたとき、こちらは断った。
「まだ早い」
「大丈夫よ」
「大丈夫かどうかは俺が判断する」
サクラは少し口を尖らせたが、結局その日は引いた。翌日も同じやり取りをして、翌々日にようやく許可した。
木剣がぶつかる音が、また演習場に戻ってきた。
***
学院が再開されたのは、それから一週間後のことだった。
神殿の件は、学院内では「神殿との儀礼的な摩擦」として処理されていた。詳細を知る者は少なく、知っていても表立って口にしなかった。貴族の世界では、知っていても知らないふりをすることが、時に最も賢い選択だった。
教室に入ると、視線が来た。いつもと違う種類の視線だった。
侮蔑ではなかった。好奇心でもなかった。
何かを測るような、しかし敵意のない目だった。
隣の席に座ると、サクラが小声で言った。
「気にしないで」
「気にしていない」
「今度は本当に?」
「本当に」
サクラが小さく笑った。
***
ある昼食の席で、ルークが言った。
「エドガーが、お前に話があるらしい」
「エドガー・バルモアか」
「ああ。伝言を頼まれた。放課後、演習場で待っていると」
少し考えた。
「わかった」
放課後、演習場へ行くと、エドガーが一人で立っていた。取り巻きはいなかった。制服のまま、腕を組んで待っていた。
近づくと、エドガーは少し間を置いてから口を開いた。
「あの夜のことを聞いた。神殿の件だ」
「そうか」
「お前が神と戦ったと」
「サクラが戦った。俺は隣にいただけだ」
エドガーは少し目を細めた。
「……そういう言い方をするのか」
「事実だ」
しばらく沈黙があった。
「俺はお前を馬鹿にした」
エドガーが言った。声が、あの決闘のときとは違った。
「魔力なしの孤児と言った。公爵の名を借りた犬と言った」
「覚えている」
「撤回する」
短い言葉だった。しかし、その重さは十分に伝わった。
「貴族の世界では、力のない人間に価値はないと思っていた。魔力のない人間が学院にいることが、許せなかった」
「今も許せないか?」
エドガーは少し考えた。
「……わからなくなった」
それが正直な答えだと思った。
「エドガー」
「何だ」
「撤回はいらない」
エドガーが眉を上げた。
「あの言葉は、あの時のお前が思ったことだろう。それは事実だったんだろう。撤回するより、お前がわからなくなったことの方が、俺には十分だ」
エドガーはしばらくこちらを見ていた。それから、短く笑った。
「……お前は変わっているな」
何も言わなかった。
エドガーは踵を返した。出口に向かいながら、振り返らずに言った。
「また決闘を申し込むかもしれない。次は賭けなしで」
「受ける」
エドガーが出ていった。
演習場に一人残った。
悪くない、と思った。
***
ある週末の夜、公爵に呼ばれた。
書斎に通されると、公爵は暖炉の前に立っていた。火が揺れている。部屋の中は温かかった。
「座れ」
椅子に腰を下ろした。公爵は暖炉を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「レン」
「はい」
「お前はこれから、どうするつもりだ」
少し考えた。
「サクラのそばにいます」
「それだけか」
「今は、それだけです」
公爵は暖炉の火を見ていた。
「お前は使徒だった。神に作られた存在だった。人間に落とされて、今ここにいる」
「はい」
「人間として生きることを、どう思っている」
その問いは、予想していなかった。
少し考えた。正直に答えた。
「わかりません。人間として生きることが何なのか、まだわかっていない部分が多い」
「そうだろう」
公爵は振り返った。
「俺もわからないことだらけで生きてきた。妻を失い、娘を一人で育て、神に監視されているかもしれないという重荷を抱えながら。それでも毎日、一つひとつ選んで生きてきた」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
「人間として生きるというのは、たぶんそういうことだ。全てがわかってから動くのではなく、わからないまま選び続けること」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
「お前はすでにやっている」
「俺が?」
公爵はこちらをまっすぐ見た。
「お前は命令を断った。神に作られた存在が、神の命令を断った。それがどれほどのことか、わかるか」
少し間があった。
「それだけで、お前はすでに人間として生きている」
その言葉を聞いた瞬間、手のひらがじんわりと熱くなった。剣を呼んだわけではなかった。しかし熱があった。この熱が何を意味するのか、今はわかる。
「人間として生きることを、難しく考えるな」
公爵は椅子に腰を下ろした。
「ただ、選び続けろ。それだけでいい」
***
春が来た。
学院の庭園に花が咲き、窓から差し込む光が柔らかくなった。一年前の今頃、自分は路地裏にいた。七日間、石畳の冷たさと共に生きていた。
今は、ここにいる。
昼食の席で、ルークがぼんやりと窓の外を見ながら言った。
「もうすぐ二年生だな」
「そうだな」
「早いものだ」
ファイがパンをちぎりながら言った。
「早くないよ。色々ありすぎた」
「それもそうか」
サクラは静かに食事をとりながら、こちらを見た。
「何?」
「何でもない」
「顔に出ている」
「何も考えていない」
「嘘ね」
その言葉を聞いて、ルークとファイが同時に笑った。
「サクラがそれを言うようになったか」
ファイが言った。
「どういう意味?」
「以前は、レンがよく言われていた言葉だ」
サクラが少し考えて、それからこちらを見た。一瞬、目が合った。
何も言わなかった。しかし、口の端がわずかに動いた。
食堂に、四人の声が混じった。
***
夕方の稽古は、続いていた。
演習場に二人で向かい合い、木剣を構えた。
最初の一合。二合。三合。
サクラの剣筋は、出会った頃とは別人のようだった。力みが消え、踏み込んだ後の重心が安定し、返しの速さが増していた。
五合目、こちらの木剣がサクラの剣に弾き飛ばされた。
手のひらが痺れた。
驚いた。そして、胸の奥がじんわりと温かくなった。
床に転がった木剣を、サクラが首元に突きつけた。
静寂。
「……やるな」
「あなたに教わったのよ」
サクラは木剣を下ろした。こちらが落とした木剣を拾い上げ、手渡してくれた。その指先が、少しだけ触れた。
「もう一本」
「俺からか?」
「そう。今度は私が教える番よ」
木剣を受け取った。
構え直すと、サクラも構えた。
夕暮れの光が窓から差し込み、サクラの黒髪を橙色に染めた。薄紅の瞳が、こちらをまっすぐ見ていた。
最初の夜、路地裏で見た目だ、と思った。
あの瞬間から、全てが始まった。命令を断った。魂に誓いを刻んだ。記憶を失った。路地裏で目を覚ました。サクラと出会った。名前をもらった。公爵家に来た。学院に入った。決闘した。記憶を取り戻した。神と戦った。
その全てが、今ここに繋がっている。
「何を考えているの?」
サクラが言った。
「最初の夜のことを」
「路地裏の?」
「ああ」
サクラは少し間を置いた。
「どんなことを?」
「あのとき、お前を見た瞬間に守りたいと思った。今も同じだ」
サクラの顔が、わずかに赤くなった。しかし視線は逸らさなかった。
「……そういうことを、急に言うのね」
「事実だから言った」
サクラはしばらく何も言わなかった。木剣を持つ手が、一瞬だけ静止した。
それから、小さく息をついた。
「馬鹿ね」
「そうかもしれない」
サクラは笑った。演習場の夕暮れの中で、その笑い方は、第一章で見た「完璧に作られた笑顔」ではなかった。力が抜けた、ただそこにある笑い方だった。
それから、木剣を構え直した。
「じゃあ、かかってきなさい」
「手加減はしないぞ」
「私もしない」
踏み込んだ。
木剣がぶつかる音が、演習場に響いた。
***
夜、寮の窓から夜空を見上げた。
星が多かった。
手のひらを見た。剣を呼ばなかった。ただ、熱があった。魂に刻まれた誓いが、今夜も静かに燃えていた。
神の気配を探した。
遠くにあった。以前のように近くはなかった。しかし消えてもいなかった。どこかでまだ、こちらを見ているのかもしれなかった。
しかし今夜は、気にならなかった。
かつては感情のない、意志のない、命令だけのために存在していた。
今は違う。
名前がある。友人がいる。守りたい人がいる。
それが、人間として生きるということなのかもしれない。
公爵の言葉を思い出した。
わからないまま選び続けること。
まだわからないことだらけだった。これからも、わからないことが増えるだろう。神がまた動くかもしれない。サクラの力が、また何かを引き寄せるかもしれない。
しかし今夜、ここにいる。
目を閉じた。
夢を見なかった。
ただ、静かな夜があった。
朝になれば、また一日が始まる。
サクラがいて、ルークがいて、ファイがいる。公爵がいる。演習場がある。木剣がある。
手のひらに、まだかすかに痺れが残っていた。
窓の外で、夜風が吹いた。
春の匂いがした。




