♪、96 君達がいるから、頑張れる
雪はゆらないとはいえ、この時期は冷える。
吉乃は口にはしないがかなりの冷え性だ。
その冷え性も出産によって重症化したのか、今年は例年以上に厚着をしている。
今朝も娘を腕に抱きながらぶるぶると肩を震わせていて、いつもは振り払われてしまう出勤前の抱擁も珍しく受け入れられ、複雑な気持ちになったのは秘密だ。
と、こんなことを考えてはいるが俺は今仕事中であり、その上結構重要な会議の最中でもあるのだが、如何せん。
どういうわけか会議が進まない。
否、進まないというわけではない。
ハッキリ言ってしまえば、今回の一大プロジェクトのプレゼンテーション担当である社員の実力が伴ってなく、さらに使用されている資料も古いモノであることから察するに、どうやら社員の士気や能力が著しく下降しているようだ。
これでは安心してプロジェクトは任せられない。
俺はいつの間にか寄っていた眉間の皺を揉み解すために眼鏡を外し、ついでに資料も机の上に粗雑に投げ捨てた。
「樋橋、疲れてるようだな。しばらく休んだらどうだ?この企画はお前には荷が大きすぎたようだ」
俺の言葉に名を呼ばれた社員は顔色を蒼褪めさせた。
その横で唇を噛んでいる人間もいるが俺はあえてそいつを無視し、重役らがいる前でそれとなく辞表を促した。
「お前を必要としてくれる会社もあると思うぞ?この際、その会社に話を聞いてみたらどうだ?その方がお互いの為だと俺は思うがな」
ひゅっと息をのんだのは果たして誰だっただろうか。
だが、そんなことは今は関係ない。
冷酷だ、非常だと罵られようが、会社を、ひいては会社に勤める社員や社員の家族、関係企業を守るためには必要不可欠なことだ。
俺とて妻がいる。
まだ這う事すらやっとな娘もいるのだ。
たった一人の為に今回の社運をかけたプロジェクトは失敗させられない。
怨みたいのなら怨めばいい。
見返したいと思うのなら見返してみればいい。
ただし、ここでは出ない何処かで。
猶予はあったはずだ。
この会議が始まる前に、何度も何度も。
取り払った眼鏡を再びかけ、俺は椅子に背を預け、不要だと烙印を押した社員に改め退室を命じた。
「今日までよく働いてくれた。次の職場での活躍を願っている」
後ろで鬼、悪魔と小さな声で俺を非難していた新任の秘書は秘書で後で厳重注意したのは余話である。
紛糾した会議の尻拭いをすれば当然帰る時間は遅くなる。
そっと鍵を開ければ、灯りはついてなかった。
予想したとはいえ、寂しく思うのは贅沢だろうか。
少し前までは冷え切っていた俺達の関係からしたら、今の俺は幸せなのだろうが。
疲労からか食欲もなく、そのまま寝室に向かい、寝室の扉を開いた俺はそこで目を瞠った。
おそらく保育園で作ったであろう鬼のお面と殻つきの落花生が少し。
それらが置いてある机の上に顔を伏せて眠っている愛する妻の寝顔と、ベッドの上で指をくわえて眠っている大切な娘の姿。
ふわり、と疲れが溶けて消えてゆくような気がしたのはきっと気のせいじゃない。
灯が消えていても、君たちがいてくれるから俺は頑張れるし、鬼にもなれる。
すやすやと眠る愛おしい家族の寝顔に、きっと今年は鬼は遠慮してくれた事だろう。
机に伏せて眠っている吉乃をベッドに運び、額にそっと唇を落とし、シャワーを軽く浴び、手早く着替え、愛する妻と娘を抱きしめて幸せを噛み締めながら眠りに落ちた。