第8話 お兄様が見つめているのは
アイカはその場に座り込み、何やら小さな板を取り出すと、その上で指を動かし始めた。
話はしないんだろうか。
私は小さく肩を竦め、次々と機材が片付けられていく様子を眺めた。
本当に、異世界へ来てしまったのだ。
物心ついた頃から、自分の見る予知夢が絶対に外れないことはよく知っている。
だからこそ色々と裏で手を回し、ガドロフ王子との婚約破棄を早々に実現させたのだ。
あんな重度のシスコン王子など、元から好きでもなんでもなかったから未練なんて欠片もない。
だって私には、お兄様がいる。あの王子よりも百倍、いや千倍も素敵なお兄様が。
予知夢で見た、お兄様のあの心からの笑顔がどうしても忘れられなかったのだ。
……これ。王子のことを言えないかもしれない。私もずいぶんと重症なブラコンだ。
そんなことを考えていると、夕暮れの風がすっと吹き抜けていった。露出の多いドレス姿では、どうしても肩が冷える。
ぶるりと小さく身体を震わせたそのとき、ふわりと後ろから温かい上着が掛けられた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「風邪を引いてしまいそうだからね」
振り返ると、お兄様がいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
ああ。なんて優しいお兄様。
どうしてこの人が、実の兄なのだろう。血の繋がりさえなければと、つい叶わぬことを考えてしまう。
私が密かに胸をときめかせていると、不意にお兄様が感嘆の溜息を漏らした。
「凄いよね」
てっきり私に向けられた言葉かと思いきや、お兄様のキラキラとした視線は、遠くで運ばれていく鉄の塊――
『車』へと注がれていた。
「あんな鉄が、馬より速く走るんだよ?」
まるで新しい玩具を見つけた子供のような、純粋すぎる横顔。
前言撤回。やっぱり、実の兄でいい。
うちのお兄様は、速く走ることにしか興味がないスピード馬鹿だった。
「僕も操ってみたいな」
遠ざかる車を見つめながら、お兄様がぽつりとこぼした。
その横顔があまりにも切実だったので、私は思わず励ますように口を開いていた。
「キショウさんなら、『いいよ』って言ってくれそう」
「え?」
予想外の言葉だったのか、お兄様が目を丸くして振り返る。
「カズキは即答でダメだって言ったじゃない? 多分、彼にとってあの乗り物はすごく大事なものなのよ」
「どうしてそんな風に思ったんだい?」
「お兄ちゃんの、馬に対する熱量と同じ感じだったから」
首を傾げるお兄様に、私は一番分かりやすい例えを出して説明することにした。
「お兄ちゃん、嫌でしょ? 自分の馬たちが、全然知らない人に操られるの」
「嫌だね。あの子たちは、僕の可愛い子たちだ」
間髪入れずに即答するお兄様。
「うん、それ。その感じ」
「そうか。カズキもこんな気持ちだったんだね」
「……本当、納得早いよね」
「あはは」
照れたように笑うお兄様は、すっかりカズキへの共感を深めたらしい。馬鹿がつくほど純粋な愛着を持つ者同士、通じ合うものがあるのだろう。
「でも、キショウさんは違うと思う。あの人は物腰が柔らかくて、『どうぞ』って言ってくれそう」
「僕たちに掃除させる気満々なのに?」
お兄様が、アイカの言葉を思い出して少しだけ可笑しそうに目を細めた。
「そうだけど」
あの笑顔の裏の打算を思い出しつつも、私は頷いた。キショウなら、お願いを無下にはしないような気がしたからだ。
「でも……そうだね。キショウさんなら、あの御者台……って言うのかな。操る席に座らせてくれそうだね」
お兄様は頷き、夕暮れの空の下、期待に満ちた柔らかな笑顔を浮かべたのだった。
「あ、カズキとキショウさんだ」
遠くから歩いてくる二つの人影を見つけ、お兄様が声を上げた。
「終わったのかな?」
私の声に反応し、アイカが小さな板から顔を上げて立ち上がった。
「まえキー、ねーちゃんに連絡しといたよ」
「ありがとう、藍華。なんか言ってた?」
「『もっと早く言え』って、怒りマークで返ってきた」
怒りマーク、とはなんだろうか。アイカが持っているあの小さな板には、離れた相手の感情を視覚的な記号で伝える魔法でもかかっているのだろうか。
「そんなこと言われても」
「まえキーが勝手に決めるからじゃん」
言い合う兄妹の様子に、私は申し訳なさで胸が痛くなった。
「あの、なにか不都合が……?」
「あ、ごめん。違う違う。夕飯の支度の話だから」
「それは尚更、申し訳ないことをしてしまいました……」
突然、得体の知れない居候を二人も連れ込まれるのだ。夕食の準備をしているというお姉様に、多大な迷惑をかけているに違いない。
私が深くうつむいていると、キショウが苦笑交じりに首を振った。
「気にしないで。うちの姉は、夕飯の支度を昼過ぎには終わらせて、いつも食べきれないくらい作る人だから」
「え?」
「それは凄いね」
顔を上げた私の横で、お兄様も感嘆を漏らした。
「姉さん、料理が好きだからね」
昼過ぎに夕食の準備を終える? 王宮の厨房ならともかく、一般の家庭でそんなに早くから仕込みをするなんて、どれほど料理に情熱を注いでいるのだろう。
「涼姉のメシ、マジで絶品だからなぁ。俺も食べてぇ」
カズキが、羨ましそうに口を挟む。
「あとキーが行くとは言ってないから、もう無理」
すかさずアイカが無慈悲に切り捨てた。
「なんだか、とても楽しみです」
「あまり期待しすぎないでね。口に合わない可能性もあるし」
キショウが控えめに言うと、アイカが横から茶化すように付け足した。
「たまに変なの作るからねぇ」
信じられないといった表情を浮かべたカズキが腕を組む。
「全部美味いだろ」
「和希は味音痴でいいよね」
「マジでそれ」
「おい。兄妹でディスるな!」
カズキの反論を、上山兄妹が息の合ったコンビネーションで涼しく受け流している。
ふふっ、と。
その光景があまりにおかしくて、私は自然と笑い声をこぼしてしまった。
アイカに聞こえてしまったらしく、彼女がぐるりとこちらを振り向いた。
「なに? レミーシャちゃん」
「いえ。とても仲がいいのですね」
私が微笑むと、カズキが照れ隠しのように頭を掻いた。
「まあ、幼馴染みだしな、俺ら」
「羨ましいですね。僕たちには、そういった気安い友人がいなかったから」
お兄様が、少しだけ遠い目をして呟いた。
「え、取り巻きとかいないの?」
アイカが意外そうに目を丸くする。
またしても、彼女の中にある「創作物の貴族像」と違ったらしい。お兄様は苦笑しながら、やんわりと説明した。
「取り巻き……と呼ばれる人たちは、ごく稀にいますよ。王子や王女の周りに、というのが主ですが。貴族社会では、常にお互いを牽制し合っています。交流はあっても、その多くは表面上の付き合いで、心から友人と呼べる相手はなかなかできないものなんですよ」
「へー。なんか、ちょっと想像と違う」
私たちの世界の窮屈さを少しだけ知ってもらえた気がして、私が口を開きかけた、その時だった。
「こらこら。ここで話に花を咲かせないで。続きは帰ってから!」
まるで引率の教師のように、キショウがパンパンと手を叩いて私たちの会話を打ち切った。
「馬の件は話がついてるよ。和希が先導するから、ついてきてくれる? ……って、あれ? 和希?」
キショウはキョロキョロと辺りを見回した。
すると、カズキがさっさとあの蒼いスイフトへと歩いていく姿が見えた。
「もー、すぐ車に乗りたがるんだから」
「色々ごめんなさい、キショウさん」
私が改めてお礼を言うと、キショウは少しだけイタズラっぽく目を細めた。
「うん。その代わりと言ってはなんだけど」
「はい」
「明日、僕の工場の掃除、手伝ってね」
ふふふ、と。
くくっ、と。
満面の笑みで告げられたキショウの言葉に、私とお兄様は堪えきれずに吹き出してしまった。アイカの不吉な予言が、見事に的中したからだ。
「え?」
急に笑い出した私たちを見て、キショウがキョトンとする。
「いえ、なんでもありません。お任せください。ね、お兄ちゃん」
「ええ。厄介になるんですから、当然ですよ」
笑いを噛み殺しながら答えるお兄様に、キショウは少し不思議そうに首を傾げた。
「……そう? じゃあ、お願いね」
「おーい、行くぞー!」
少し離れた場所から、カズキが大きく手を振って呼んでいる。
「ああ、待って、和希。藍華、これ。僕は和希のナビしなきゃいけないから先に帰ってて」
キショウはそう言うと、小さな金属の塊をアイカに放り投げた。
「げ、軽トラ……。レミーシャちゃん、エラリオさん、また後で」
「ええ」
アイカは金属の塊を受け取ると、なぜか深く呻き声を上げ、ずーんと肩を落としてとぼとぼと歩いていった。軽トラ、というのが何なのかは分からないが、あまり乗りたくないのかもしれない。
「牧場には結城さんが行ってるから、お二人は牧場から僕の家まで結城さんの車に乗ってね」
「はい、わかりました」
馬の準備をしながらお兄様が答えると、キショウはカズキが乗っているあのスイフトへと向かっていった。
まずは馬たちを牧場へ連れていく。それから、キショウさんの家へ向かうのだ。
私は客車へ乗り込んだ。
これからまたあの速い乗り物を間近で見ながら移動できるのだと思うと、なんだか私まで少しだけ胸が躍った。
そうして私たちは、夕闇が迫る地球の道を、スイフトを追って再び進み始めたのだった。
第1部 完




