第1話 婚約破棄より緊張する日
あれから、二年が経った。
王太子から婚約破棄を突きつけられたあの日でさえ、私はここまで緊張しなかった。
それなのに今、たった数桁の数字が並ぶのを待つだけで、心臓が口から飛び出しそうになっている。
隣のお兄様に至っては、もう何分も電光掲示板から目を離していない。
ぎゅっと拳を握りしめ、瞬きすら忘れている様子だ。
……目が乾くだろうから、あとで目薬を貸してあげよう。
そんな私も、平静を装いながら、同じ画面をちらちらと盗み見ているのだけれど。
思えば、私たちがこの地球の『日本・北海道』に降り立ったあの日から、本当に色々なことがあった。
お兄様の愛馬を無事に預け、キショウの家へ転がり込んだ翌日。
私たちは彼が経営する自動車整備工場で、地獄のような大掃除を手伝わされたのだ。あの油にまみれた過酷な肉体労働は、思い出すだけで背筋が凍る。二度とご免だ。
幸いにもそれ以降は、カエデのご厚意で彼女の別荘に住まわせてもらっている。
異世界とはいえ、生きていくためには当然お金が必要だ。
お兄様はそのままキショウの工場で働き始め、私はこの世界の基礎知識を学ぶことからスタートした。
見るもの触れるもの、何もかもが目新しくて退屈はしない。ただ、ふとした瞬間に故郷のお父様やお母様の顔が浮かび、無性に会いたくなる日もある。
けれど、いつまでも感傷に浸っている余裕はなかった。
お兄様の中で「自らの手で鉄の塊を操りたい」という熱が、日増しに膨らんでいったからだ。
居ても立っても居られないお兄様のため、私はこの世界で車を運転するための資格――『自動車運転免許』の取得方法を調べ上げた。
ところが、最大の壁は運転技術でも学科試験でもなかった。
『住民票』という公的な書類だ。
そんなもの、持っているわけがない。
なにせ私は、ウィンテリヌスはヴァロ王国の、誇り高き伯爵令嬢なのだから!
……と主張しても、紙切れが湧いて出るわけではない。
そこで、大声では言えない『裏技』を使ってどうにか手に入れた。
その代償として、とある建物の中が派手に水浸しになったけれど。
…………ええと。
仕方ないじゃない。
私たちは外国人どころか、この星の人間ですらないのだ。まともな手続きが通用するはずもない。
これでも、実行する直前にはほんの少し良心が痛んだのだから。
ともあれ、手に入れた住民票を武器に、私とお兄様は揃って自動車学校の門を叩いた。
数々の教習を乗り越え、ついに今日。『札幌運転免許試験場』まで辿り着いたのだ。
運命の合格発表。
あとは自分たちの受験番号が、目の前の黒い画面に現れるのを待つだけ。
「緊張してきた……」
隣から、普段なら絶対に聞けないような弱々しい声がこぼれ落ちた。
「私だって、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしてるんだよ、お兄ちゃん」
「そんなこと言ったって……」
「もぉ、見てられないなぁ、二人とも」
ガチガチに固まる私たちを見て、付き添いのキショウが面白そうに笑っている。
「キショウさん、煽るのやめてください」
「煽ってないよ。大丈夫だって。学科試験の勉強、和希からみっちり教わってたんでしょ?」
「……ひたすら脱線してましたけど」
私はすかさず隣へジト目を向けた。
「僕を見ないでくれ」
気まずそうに顔を逸らすお兄様に、遠慮なく追撃を放つ。
「お兄ちゃんが、カズキにラリーの走り方ばかり食い下がって聞くからでしょう!!」
「教習所はスピード制限されてて楽しくないんだよ!」
お兄様が子供のように唇を尖らせた。
「だからって、標識を覚えなきゃいけないのにラリーの話に脱線する!?」
「カズキも言ってたじゃないか、なんとなくこんな感じで覚えておけばいいって!」
「あの引っかけだらけの問題文を見てから言ってよ!」
「覚えたよ、ちゃんと! 『警笛鳴らせ』は!」
「山道限定じゃない!!」
日本の道路交通法をなんだと思っているのだろう。よりによって、そんな局地的な標識ばかり暗記してどうするのか。
私たちがギャーギャーと言い争っていると、キショウがぽんと手を叩いた。
「まぁまぁ二人とも。ほら、表示されるよ」
私たちはピタリと口論を止め、正面の画面へ向き直った。
ああ、心臓の音が嫌というほど鼓膜を打つ。
「お兄ちゃん」
「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫……」
お兄様は壊れた魔道具か何かなのかしら。
自分より緊張している人間を見れば冷静になれるなんて、誰が言ったのだろう。余計にドキドキしてくる。
パッ、と。
真っ黒だった電光掲示板に、数字がずらりと並んだ。
「115、115、115、115……」
今度はお兄様の呪文が『大丈夫』から『受験番号』へと切り替わった。必死に唱える横顔が可愛すぎる。
私も数字を目でなぞる。私の番号は127番。
123、125、126――
「あ」
「あ!」
私とお兄様の声が、ほぼ同時に重なった。
「あった。あったよ! レミーシャ!」
「うん、あった! あったね、お兄ちゃん!!」
「なんでそんな大学合格みたいなテンションなのさ」
手を取り合って大はしゃぎする私たちの横で、キショウが呆れたようにツッコんでいたけれど、全く耳に入らない。
合格したのだ。
ついに手に入れたのだ。
この手で自動車を運転する、栄光なる資格を!
「はいはい、写真撮りに行くよ」
妙に落ち着き払ったキショウの声に、私はハッと我に返った。
「シャシン?」
「……さっきのアナウンス、聞いてなかったの? 免許の交付には写真撮影が必要なんだよ。ほら、他の受験者たち、もうみんな次の場所に行っちゃったよ」
キショウが示した先へ視線を向ける。
合格発表を待つ人々でひしめき合っていたはずの電光掲示板の前には、いつの間にか私とお兄様、そしてキショウの三人しか残っていない。
少し離れた場所では、試験場の女性職員が笑いを堪えていた。
「もしかして……こんなにはしゃいでたの、僕たちだけ?」
「うん」
キショウは残酷なまでの即答で肯定した。
「合格して嬉しくないのかい?」
「いや、嬉しいとは思うけど。そこまで全身で表現するほどの感動はないかなぁ」
「……え」
「……日本人って、随分と淡白じゃない?」
「そんなこと言われてもね。ほら、置いていくよ」
促され、私たちはしぶしぶと歩き出した。
頭の熱が引くにつれ、あんなにも大騒ぎした事実が急激に恥ずかしくなってくる。頬が熱い。
あんな難関を突破したのに、どうして皆、涼しい顔をしていられるのだろう。日本人の感性はいったいどうなっているのか。
恥ずかしさをごまかすように、私は足早に歩くキショウの背中を、お兄様と一緒に追いかけた。
「ねえ、レミーシャ」
「なあに、お兄ちゃん?」
「免許をもらったら、僕もカズキみたいに速く走れるのかな」
……お兄ちゃん。
お願いだから、まずは制限速度というものを覚えて。
免許を手にする前から、私の胃が痛くなってきた。




