第6話 現実確認とは足を踏むこと
カエデのあとについて入った先は、巨大な箱を思わせる建物の一室だった。
白く平坦な壁や天井。壁際や机の上には、見慣れない機材や道具が整然と並んでいる。何もかもが物珍しく、私とお兄様は揃って室内を見回してしまった。
建物そのものが、巨大な魔道具であるかのようだ。
奇妙な乗り物を見たときとはまた違う形で、異世界へ来たのだという実感がじわじわと湧いてくる。
「山根さん」
カエデが声をかけると、奥の長机に腰掛けていた大男が振り返った。日に焼けた精悍な顔つきで、どっしりとした威圧感がある。
思わず背筋を伸ばす。こういう相手と話すときだけは、身体に染みついた令嬢の振る舞いも役に立つ。
「おお、結城。その二人がそうか?」
「はい。こちら、競技長の山根清一さんです」
紹介を受け、兄が一歩前に出た。
「エラリオ・フレンディです」
「妹のレミーシャです」
ヤマネは腕を組み、私たちの姿を上から下まで眺めた。
「ふむ……それにしても見事なドレスだな。コスプレか?」
「それ、カズキも言ってましたけど、なんなんですか?」
また、それだ。
意味は分からないが、この赤いドレス姿が奇妙に見えることだけは伝わってくる。褒められている気がまったくしないので、聞くたびに少し腹が立つ。
「なんなの、と言われてもなあ。……ああ、ちょうどよかった。藍華、お前はこういうのに詳しいだろ」
ヤマネが部屋の隅へ声を飛ばすと、茶色い箱を抱えた小柄な少女が眉をつり上げた。
「はあ!? 今、片付けしてんだけど! あとキーでも説明できるじゃん。あとキーに振ってよ!」
「ざけんな! 俺だって詳しくねえよ!」
カエデの背後で縮こまっていたカズキが、即座に反論する。少女――アイカは、そんな彼へあからさまに軽蔑の眼差しを向けた。
「……そだった。車バカは車のことしか話せないんだったわ」
「何気にディスるのやめろ!」
「藍華ちゃん、頼める?」
カエデがにこりと笑いかけると、アイカは途端に表情を緩めた。
「楓さんに言われたら断れないじゃん? ……で、山根のおっさん。手短にコスプレを解説すればいいの?」
「頼む」
「あの、その前に」
二人のやり取りを遮るように、私は手を挙げた。
「聞きたいことがあるのですが」
「ん?」
「ここは、どこですか?」
「へ?」
拍子抜けした顔をするアイカへ、私は間髪を入れずに言葉を重ねた。
「私たち、異世界から来ました」
「レミーシャ、そんなに素直に明かして、信じてもらえるのかい?」
兄が横から小声で問いかけてくる。私も声を潜めて答えた。
「一か八かよ。信じてもらえなかったら、そのときに別の手を考えるわ」
本当なら、もっと慎重に相手の出方を窺うべきなのかもしれない。
けれど、言葉だけは通じるようになったのだ。ここがどこなのかも分からないまま、いつまでも怪しい侵入者として扱われる方が困る。
正面へ向き直ると、アイカが怪訝そうにこちらを窺っていた。
「異世界?」
確かめるように繰り返したあと、彼女はカズキへ助けを求めるような目を向けた。カズキは両手を上げ、一歩後ずさった。
「俺を見るな」
「ごめん、藍華ちゃん。私にもさっぱり理解不能よ」
カエデも困り果てたように肩をすくめる。
やっぱり駄目だったか。
早くも別の手を考え始めた私だったが、アイカだけは違った。
じっと私の顔を確かめたあと、その目がみるみる輝き始める。
「……もしかして、異世界転移ってやつ?」
「信じてくださるの?」
「え、マジで? そんなことってあんの!? ……ちょっと、あとキー。これ現実?」
アイカはそう言うなり、カズキに寄ると右足を思い切り踏みつけた。
「いででででで! おい、なんで俺の足を踏むんだよ!」
「痛がった。うん、現実」
「確認するなら自分の足でやれ!」
アイカは何事もなかったように足を退けた。
「えー、本当にあんの、そんなこと!?」
「藍華ちゃん……?」
「楓さん、漫画とかアニメで『異世界転生』とか『異世界転移』ってジャンルがあるじゃん? あれが目の前で起きてるってこと! やばくない!? 超すげーんだけど!」
「まったく要領を得ないのだけれど。ちょっと和希」
「あ?」
カエデも、カズキに寄っていく。
そして思い切り左足を踏みつけた。
「ぎゃあああああっ!! おい、楓! なんでお前まで俺の足を踏むんだよ!!」
「藍華ちゃんだけでは、確認として不十分かと思って」
「二人で確認する必要ねえだろ!」
「うん、喧しいから、現実ね」
「お前ら!!」
足を立て続けに踏まれ、涙目で跳びはねるカズキ。
信じてもらえそうだと一瞬喜んだのに、それ以上に恐ろしい風習を目撃してしまった気がする。
その凄惨な現実確認を前に、私はお兄様の袖をそっと引いた。
「お兄ちゃん。この世界では、現実かどうか確かめるとき、人の足を踏むの?」
「たぶん、あの二人だけだと思うよ」
お兄様の答えを聞いて、少しだけ安心した。
この世界の人間が全員、他人の足で現実を確かめるのなら、今後は鉄板入りの靴でも用意しなければならないところだった。
若干引き気味になりながら、私は恐る恐る尋ねた。
「あの……何か前例でもあったのですか?」
「うーん、前例っていうか、創作物なんだけどね。でも、あたしは信じるよ。だって、競技が始まる前に、あの林道は端から端まで確認してるんだよ? 入口だって全部封鎖してた。馬車が外から入り込める場所なんて、どこにもないじゃん」
信じる。
この世界へ来てから初めて、私たちの話を受け入れてくれる人が現れた。胸の奥に張りついていた不安が、ほんの少しだけ薄れていく。
ヤマネは顎に手を添え、低く唸った。
「まあ……物理的にはそうだな」
「それに、あんな格好で馬車に乗って、誰にも見つからず山へ入れると思う?」
アイカに畳みかけられ、ヤマネは渋々と頷いた。
「……少なくとも、普通に入ってきたとは考えにくいな」
「でしょ? ねえ、異世界の話をもっと聞かせてよ!」
「待て待て。それはあとだ」
身を乗り出すアイカを太い腕で押し留め、ヤマネは鋭い視線をお兄様へ向けた。
「お前たちは、ラリーの競技妨害をしに来た侵入者ではない……という認識でいいんだな?」
「えっと、偶然……?」
異世界まで来て、また身に覚えのない罪を着せられるなんて冗談ではない。今度こそ、妙な疑いを残さずに話を終わらせなければ。
「ええ。妹の言う通り、まったくの偶然です」
私の曖昧な返答を引き継ぎ、兄が落ち着き払った声で応じた。
「僕たちがあそこへ出てしまったのは、完全に不測の事態でした。お話を伺う限り、競技妨害を疑われているようですが、僕たちにそのような意図はありません」
私はお兄様の隣で、ヤマネをまっすぐに見上げた。
「私たちも、どうしてあそこへ出たのか分からないんです。帰る道も……分かりません」
口にして、喉が詰まった。
お兄様が一緒だから、どうにかなると思っていた。けれど、二人とも知らないことは、いくら二人で考えても答えが出ない。
「ですから、この世界のことを教えていただけませんか。何も知らずに、またご迷惑をかけたくありません」
疑いを晴らすため、私は令嬢としての姿勢を崩さず、丁寧に頭を下げた。今は、助けてもらわなければどうにもならない。
ヤマネはしばらく黙り込み、私とお兄様を交互に見た。
「……なるほど。嘘をついているようには見えないな」
深く息を吐き、困ったように頭を掻く。
「こんな超常現象、にわかには信じ難いが……少なくとも、故意の競技妨害として責任を問うわけにはいかないか」
どうやら、捕らえられたり罰を受けたりする心配はなくなったらしい。
ヤマネの判断を受け、カエデがすぐさま次の確認に移った。
「山根さん、選手たちにはなんと説明します?」
「変わらず、『一般車両のコース内侵入による安全確保のため、競技中断』だ。最終SSは全車キャンセル。SS5終了時点のリザルトを、公式結果として採用する」
カエデは迷いなく頷いた。
「分かりました」
ようやく胸を撫で下ろしたものの、今のやり取りは分からないことだらけだった。
エスエス。リザルト。
またしても、言葉は分かるのに意味の分からない単語だ。
あの魔法薬、本当にきちんと効いているのだろうか。
「ちっ。和希を怒鳴りつけるチャンスが消えちまったな」
「消えていいんだよ、そんなチャンスは!」
声を荒らげるカズキに、ヤマネは豪快な笑い声を返した。
「はははは、冗談だ。藍華、片付けは免除してやる。その二人の相手をしていろ」
「よっしゃ、任せて!」
「聞くだけじゃなくて、こっちのことも教えてやれよ」
「分かってるって!」
「和希と結城は、残りの機材を撤収してくれ」
「へいへい……」
「じゃあ、またあとでね」
カエデが先に立ち、カズキも踏まれた足を引きずりながら部屋を出ていく。二人を見送ったお兄様が、どこか拍子抜けしたように呟いた。
「信じて……もらえたのかな?」
「どうだろうね」
少なくとも、罪人として捕らえる気はないらしい。それに、この世界のことを教えてほしいという願いも聞き入れてもらえた。それだけでも、今は十分だった。
私たちが首を傾げていると、アイカが快活な笑顔を浮かべた。
「レミーシャ……ちゃんで合ってる? そっちのイケメンさんは?」
「エラリオです」
兄が品よく微笑むと、アイカは気さくな笑顔を返した。
「エラリオさんね! あたしは上山藍華。藍華って呼んでよ!」
「はい、アイカ」
私が呼びかけると、アイカは両手をぱんと打ち鳴らした。
「よし! 山根のおっさんからも許可が出たし――さあ、異世界の話、たっぷり聞かせてよね!」
お兄様と顔を見合わせ、私はアイカへ向き直った。
「ええ。何から話しましょうか」
「決まってるじゃん!」
アイカは身を乗り出し、期待に満ちた目で私を見つめた。
「魔法! 本当に使えるなら、今ここで見せてよ!」
魔法? そんなものでいいの?
不思議に思ったが、この世界へ来てから、驚かされてばかりだった。
馬のいない馬車。
箱から聞こえてくる人の声。
どこまでも継ぎ目なく続く、平坦な道。
どれも、彼女たちにとっては当たり前のものなのだろう。
私が魔法を使えることと、きっと同じように。
……それなら、私にも驚かせてあげられることがありそうだ。




