第4話 お兄様がしょぼくれる
あの禍々しい液体を飲んだおかげで、見知らぬ青年の言っていることが、不思議なくらいすんなり頭に入ってきた。
御者台にいるお兄様も同じらしく、戸惑いながら聞き返す。
「ラリー? なんだそれは?」
「いいから降りろ! あーもう、なんで俺のポストでこんな面倒なことが起こるんだよ!」
青年は頭を抱え、ぶつぶつ文句を言いながら、腰に下げていた黒い小箱を外した。それを口元へ寄せる。
「あー、3ポストからスタートへ」
箱に話しかける彼を、私たちは怪訝な目で見つめていた。
少し間を置いて、小箱から別人の声が返ってくる。
『スタートです。馬車が現れたって聞いてる』
「そうなんだよ。今はコース脇に避けて、俺のところにいる」
『了解。HQと話してるから、そのまま待機して』
続いて、小箱から少し甲高い女性の声が響いた。
『代わったわ』
「楓! どうすんだよ、これ」
『和希、HQの判断を伝えるわ。そこはキャンセル。残りの車両は速度を落として通過させる』
「ああ」
『全車両が通過したら、その馬車と乗っている人たちを連れてHQへ来て』
「え、それ俺、怒られるやつだろ」
『仕方ないじゃない! 私も一緒に行くんだから、文句言わない!』
「へーい」
エイチキュー。キャンセル。
話している内容自体は聞き取れる。なのに、それらが何を指すのかは、さっぱり分からない。
小箱との会話を終えた青年は、盛大にため息を吐いてこちらへ向き直った。
「そんなわけで、ちょっとここにいて、そのあと一緒に来てくれるか? ていうか、馬車から降りる気ねえだろ、お前ら」
「あ、ああ。すみません」
素直に謝ったお兄様は、御者台からひらりと飛び降りた。客車へ回り込み、私のためにドアを開ける。
「レミーシャ、降りてほしいそうだよ」
「降りる必要、ある?」
「ここがどこかも分からない僕たちは、指示に従った方がいい」
「……それもそうね」
渋々頷き、差し出された手を取った。
赤いドレスの裾を少し持ち上げ、令嬢として完璧な所作で馬車を降りる。
土と草の匂いが立ち込める森に降り立つと、青年が私を上から下までまじまじと眺め、目を丸くして後ずさった。
「……え、ちょ、コスプレ?」
こすぷれ。
意味は分からないのに、馬鹿にされた気だけはした。
「失礼な方ですわね」
「え? いや、こんな山ん中にドレスとかねえだろ」
不満を込めて睨むと、青年はますます困った顔になる。お兄様も苦笑しながら会話へ加わった。
「それを言われると、僕も正装なんだけど」
「あー……えっと、何? 結婚式の写真でも撮ってて、迷い込んだとか?」
「シャシン?」
また知らない単語が出てきた。私とお兄様は、揃って顔を見合わせる。
「なんだろうね? 僕もさっきから単語の意味が理解できなくて、頭が混乱するよ」
「……やべー……俺、ぜんぜん会話できてねえ」
言っていることは聞き取れるのに、肝心の話が噛み合わない。
魔法薬は言葉を通じさせてくれても、お互いの常識までは埋めてくれないらしい。
そうしている間も、私たちの背後にある山道を「鉄の塊」が重い音を響かせながら次々と通過していく。
最初の一台ほどではないものの、それでも馬車よりずっと速い。
呆気に取られて見送っていると、青年が口を開いた。
「競技車両が全部通過したら、俺のスイフトについてきてくれ」
「スイフト?」
「ん、あの蒼い車」
彼が指した先に、艶やかな蒼い乗り物が停まっていた。先ほど猛然と駆け抜けていった鉄の塊と、よく似た形をしている。
「あの、馬はどこに?」
真剣な顔で辺りを探すお兄様に、青年はやりにくそうに頭を掻いた。
「……馬なしで走れる馬車、って言った方がいいか?」
「!?」
お兄様が息を呑んだ。
その目は蒼い乗り物に釘付けになっている。まるで屋敷で新しい地図を手に入れたときのように、瞳がきらきらと輝いていた。
その一言で、夢の中の乗り物と、目の前の蒼い塊がぴたりと重なる。
馬のない乗り物……!
「これだわ! 夢でお兄ちゃんが操っていたものと同じ乗り物!」
私は興奮のあまり、お兄様の袖を掴んだ。
景色が流れて消えるほどの速さで駆け、お兄ちゃんが満面の笑みで操っていた――あれだ。
「……? なんなんだよ、こいつら」
夢と同じ乗り物を見つけて喜ぶ私と、食い入るように蒼い車を眺めるお兄様。
青年だけが、完全に置いていかれていた。
聞きたいことは山ほどある。まずは、一番大事なことからだ。
「一つ、質問をよろしいかしら?」
「ああ、何?」
「ここは何処なのでしょう?」
青年は何度か目を瞬かせた。
「……えっと」
「シンプルに教えてくださるかしら?」
歯切れの悪い彼を急かすと、今度は胡散臭そうな目を向けられた。
「お前、どっかのお嬢様?」
「わたくし、フレンディ伯爵家長女、レミーシャ・フレンディですわ。こちらは兄ですの」
姿勢を正し、堂々と名乗る。
隣に立つお兄様も、品の良い微笑みを浮かべて続いた。
「エラリオ・フレンディです。自己紹介が遅くなってしまい申し訳ない。我々は、ここではない別の世界から来た者で、勝手が分からない上に、聞き慣れない単語も多く、かなり混乱しています」
「……俺は和希。長谷川和希だ。ここのポストを任されてる。よろしく……でいいのか?」
一応は名乗ってくれたものの、まったく納得していないのが顔に出ている。
私が返事に困っていると、カズキは眉を寄せて質問を重ねてきた。
「それで、伯爵家って……海外のお偉いさん? 混乱してる割には、あんたの妹さんは随分と堂々としてんな」
「……妹はいつもこうなんです」
「お兄様、余計なことを言わないでくださる?」
悪びれもせず笑うお兄様を、私は軽く睨みつけた。
カズキの視線が、私とお兄様の間を何度も往復する。
「別の世界って、生きる世界が違うってことだろ?」
「いいえ。異世界ですわ」
「え? 異世界? 待ってくれ、何? 俺、そういうの疎くて悪ぃんだけど、アニメとか漫画とかの設定? え、俺もその設定で話さなきゃ駄目なやつ?」
「……」
駄目だ。
よく分からないけれど、信じてもらえそうな気配は、欠片もない。
私は額を押さえ、長く息を吐いた。
「……素直に言っても信じてくださらなかったわ。お兄ちゃん、口調しんどいから戻していい?」
「むしろ、なぜその口調にしていたんだい?」
「だって、初対面の殿方に素を見せるわけにはいきませんでしょう?」
「もう十分見せていると思うけど」
「うるさい」
愉快そうに笑うお兄様へ、返事代わりに鼻を鳴らす。
「あー……あいつが言ってたあれか? 『異世界転生』とかいうテンプレ設定」
カズキが何やらブツブツと呟いている。
私たちの事情を理解してもらうには、まだ時間がかかりそうだ。
「ところで、カズキ」
お兄様がなぜか目を輝かせて、あの蒼い物体を指差した。
「今度はなんだよ」
「あのスイフトという乗り物、僕にも操れるかな?」
「絶対に駄目だ」
カズキは、これまでで一番迷いのない声で言い切った。
お兄様の肩が、目に見えて落ちた。
さっきまで輝いていた瞳から光が消え、口元に浮かんでいた微笑みまで、しおしおと萎んでいく。
……お兄ちゃん、そんなに乗りたかったの?
思わず吹き出しそうになり、私は慌てて唇を引き結んだ。
それでも、お兄様の視線は蒼いスイフトへ釘付けになったままだった。
よほど操ってみたいのだろう。
私が叶えてあげる。
――いいえ、違う。これは、叶う未来なのだ。
どうすればそこへ辿り着けるのかは、まだ分からないけれど。
私の予知夢は絶対に外れない。
すぐに教えてあげてもよかった。
でも、お兄様のこんなしょんぼり顔は滅多に見られない。もう少しだけ眺めていよう。
「なに? レミーシャ」
私の視線に気づいたお兄様が、のろのろとこちらを見る。
「お兄ちゃん、大丈夫。絶対にあれを操れるようになるから」
「……予知夢で見たからかい?」
「そうだけど」
「どうやって?」
あ、これは今すぐにでも操りたいヤツだ。
せっかく自信満々に言ったのに、このしょぼくれた兄の心には届いていないらしい。
「どうやるかは、これからだよ、お兄ちゃん! 異世界にだって来られたんだしね!」
私は満面の笑みをお兄様へ向け、言い切った。




