第3話 馬のいない鉄の塊
恐る恐る薄目を開けた。
小窓の向こうでは、夜の街並みが尋常ではない速さで後ろへ飛んでいく。
これが、いつものお兄様による手加減なしの馬車移動だ。
片輪が浮くくらいなら、まだいい。過去には一度、曲がり角へ勢いよく突っ込みすぎて、御者を失神させた前科もある。
私は手すりを命綱のように握り締め、座席の隅でがっちりと身体を固定した。
「あはは、楽しいなぁー!」
「どこが……!」
御者台のお兄様は、吹き荒れる風の中でもご機嫌だった。
「おっと、前の石畳が沈んでる。少し跳ねるよ!」
「少しって何! 速度を落として! んにゃあっ!」
ドガン、と凄まじい音が響き、身体が座席から浮いた。内臓まで置いていかれそうになる。
「大丈夫かい? レミーシャ」
前方の小窓から、お兄様がこちらを覗き込んできた。
「生きてる、生きてるから! 後ろ見ないで前見て!」
「大丈夫。前は彼が見てくれているよ」
「私に任せきりにせず、エラリオ様も前を向いてください」
「ほら、ちゃんと見てくれている」
「ほらじゃない!」
私が叫ぶと、お兄様は笑いながら前へ向き直った。
この状況に慣れきっている御者も大概だが、だからといってすべてを任せてよいわけではない。
今度は馬車の後ろから、石畳を蹴る蹄の音がいくつも聞こえてきた。
御者が振り返り、追ってくる者たちを確かめる。
「エラリオ様、どうやら追っ手が来ているようでございます」
「そうみたいだね」
「……え?」
激しい揺れに振り回されながら、私はどうにか後方の窓へ張りついた。
「……騎士?」
暗くて正確な人数までは分からない。それでも、武装した騎士が何人も馬を猛烈に駆り、こちらを追いかけてくるのは見えた。
「なんで?」
「断罪の途中で勝手に帰ったからじゃないかな」
「婚約破棄は承ったでしょ」
「たぶん、その先に君を捕らえる話があったんだと思うよ」
「え、ウザっ」
心の声が、そのまま口から漏れた。
「自分の妹の話を鵜呑みにしちゃって、とんでもない兄だね」
御者台から、呆れた声が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、人のこと言えない……!」
「心外だなぁ。僕は一応、双方の意見は聞くでしょう? 最終的にレミーシャの味方をしているだけなのに」
「結果、変わらないじゃない! というか、なんでそんなに冷静なの!」
石畳の上を跳ね回る馬車にしがみつきながら叫ぶと、お兄様は自信たっぷりに答えた。
「僕の馬車に追いつけるわけがないから」
「追いついてるでしょ! どう見ても!!」
小窓から覗くかぎり、後続の騎士たちはもう目と鼻の先まで迫っていた。
「おい! 止まれ! そこの暴走馬車!」
馬のいななきとともに、怒声が夜の街へ響き渡る。
「さすがに重い客車付きじゃ分が悪いかぁ」
「どう考えてもそうでしょー!」
「レミーシャ・フレンディ! 殿下からの――」
「知らないわよ! そんなの!」
私は後方の小窓に張りつき、迫り来る追っ手へ向かって思い切り叫び返した。
「レミーシャ! 令嬢らしく!!」
「そっちもどーでもいいじゃない!?」
王城を背に大逃走劇を繰り広げているお兄様に窘められ、思わず素で言い返す。
令嬢らしい逃走劇など、あってたまるか。
「止まれ! 殿下のご命令だ!!」
「どうせ国外追放とかでしょ! 分かってるわよ!」
「なっ!?」
追っ手の馬列が、一瞬だけ乱れた。
「夢では婚約破棄のあと、私はもうこの国にいないんだから! さっさと出ていくから、牢屋は勘弁してって伝えてよ!」
「なんだと貴様!!」
「レミーシャ、それはすごく不敬だ。やめなさい!」
王族の追っ手から逃げながら言う台詞だろうか。
さすがの私も、ツッコミが追いつかない。
「止まれ!」
「……ちっ」
再び騎士の怒号が飛び、お兄様が苛立たしげに舌打ちした。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「前だ!」
後方の窓に張りついていた私は、慌てて客車の前方へ目を向ける。
進行方向の闇に、目を開けていられないほど眩しい光が膨れ上がっていた。
「何、あれ!?」
「誰かの魔法かもしれない! まずい、止まれない!」
お兄様が力任せに手綱を引く。馬たちは甲高くいななき、車輪が火花を散らしながら石畳の上を滑った。
それでも勢いは止まらない。
馬車は光の渦へ向かって、真っ直ぐに突き進んでいく。
「嘘、ちょっと! 私、お兄ちゃんと異世界に行くって決めてるのに!」
言い終わるより先に、暴走馬車は眩い光の中へ飛び込んだ。
ばちん、と何かが弾ける。
御者の身体だけが淡い光に包まれ、御者台から後方へ弾き出された。
「なぜ私だけがぁぁぁっ!?」
思わず後ろを振り返る。
宙を舞った御者は、追っ手の先頭を駆けていた騎士の背中へ、べしゃりと張りついた。
「なぜお前が降ってくる!?」
「私にも分かりません!」
二人分の悲鳴を後方へ残し、私とお兄様を乗せた暴走馬車は、そのまま光の奥へ飲み込まれていった。
後方の騒ぎが遠ざかり、辺りは眩い光に包まれた。
まるで光の中に道が続いているみたい。
思わず見入っていると、馬車が光のトンネルを抜けた。
途端に、車輪から伝わる石畳の硬い振動が消えた。
視界が戻る。木々の隙間から差し込む陽光に目を細めながら小窓を覗くと、外には鬱蒼とした森が広がっていた。
どうやら、見知らぬ狭い山道へ放り出されてしまったらしい。
「誰かの転移魔法だったのかな」
手綱を握るお兄様が、馬たちの歩みを緩めながら辺りを見回す。
「それにしたって、転移魔法をあんな街中に仕掛ける?」
「術者が転移した名残とか」
「考えられなくもないけど――」
首を傾げたところで、聞いたこともない異様な音が背後から迫ってきた。
地鳴りのような爆音が空気を震わせる。驚いて小窓を振り返ると、何かがこちらへ向かって猛然と突っ込んできていた。
「何、この音!」
「いや、音より、馬もいない鉄の塊が僕の馬車に追いついてきた!」
「そこを問題にしないで、お兄ちゃん!」
背後の爆音が、いきなり低い唸りへ変わった。
謎の鉄の塊が、私たちの後ろで速度を落としたようだ。なのに馬車との距離は、見る間に縮まっていく。
「駄目だ、このままではぶつかる! あの脇道へ入るよ!」
お兄様が素早く手綱を捌き、二頭の馬を枝分かれした細い林道へ向けた。
不気味な音に怯えた馬たちが、甲高くいななく。
「どう、どう。大丈夫だ」
お兄様は馬たちを宥めながら、どうにか馬車を脇道へ入れた。
その低い唸りが、一気に跳ね上がった。腹の底まで震える。
謎の鉄の塊は、もうもうと土煙を巻き上げながら、私たちのすぐ横を凄まじい勢いで駆け抜けていった。
轟音はあっという間に遠ざかり、あとには舞い散る砂埃だけが残った。
私たちは何も言えず、ただ瞬きを繰り返す。
「何あれ」
「さあ……?」
ぽかんと土煙を見送っていると、脇道の奥から人影が現れた。
「――っ! ――――!!」
目が痛くなるほど鮮やかな橙色の上着をまとった黒髪の青年が、激しい口調で何かを捲し立ててくる。
まったく聞き覚えのない言葉に、私は小首を傾げた。
「何を言っているのかしら」
「どうやら僕たちの言語ではないようだけど……怒っているのだけは、すごく伝わってくるね」
「――――! ―――!」
青年はさらに声を張り上げる。
そのとき、私たちの背後にある山道を、先ほどとは形の違う鉄の塊が、凄まじい音とともに駆け抜けていった。
そこでようやく、私は合点がいった。
「お兄ちゃん、ここ異世界かも」
「え?」
「待ってて。そんなこともあろうかと、馬車に魔法薬を忍ばせておいたの」
「そんなこともあろうかと……?」
私が客車の座席下を開けて中を漁り始めると、お兄様が御者台から小窓越しに目を丸くした。
「どうやって異世界へ行くのか、夢には出てこなかったでしょ。だから、必要になりそうなものをあちこちに仕込んでおいたのよ」
「……王女様が君の撒いた餌に食いつくよう仕向けた裏工作といい、我が妹はなんて用意周到なんだ」
「変なところで感動しないで。……あった。これよ、お兄ちゃん」
前方の小窓から、どろりとした黒い液体の入った小瓶を突き出す。
お兄様は受け取ろうともせず、あからさまに眉を顰めた。
「何それ。飲み物?」
「口にした者が、どんな言葉でも理解できて、自分の言葉も相手に通じるようになる『かもしれない』魔法薬よ」
「……なるかもしれない」
「飲んでよ、お兄ちゃん」
「どうして僕が先なのかな」
「ん? 実験?」
「やっぱり!」
そんな気の抜けたやり取りをしている間にも、別の轟音が近づいてくる。
いつまで経っても話が通じない私たちにしびれを切らしたのか、青年が御者台のお兄様の腕をぐいと引っ張った。
「ちょっ、危ないです。引っ張らないでください!」
「――――!」
「ほら、お兄ちゃん! 飲んだら会話できるかも!」
「あー、もう!」
やけくそになったお兄様は小瓶をひったくり、中身を一気にあおった。
飲んだ。
あのキモい液体を。
「……お兄ちゃん?」
「……味、最悪だ」
「味なんてどうでもいいんだけど」
「あ、分かる」
「え?」
顔を顰めていたお兄様が、ぱっと目を見開いた。
見知らぬ男へ向き直り、愛想笑いを浮かべながら、恐る恐る話し始める。
「え? あ? どこから入ったのか? え、いや、なんていうか、転移で突然ここに……あ、信じませんよね。ええ、僕も何を言っているのか……あははは」
いつだって完璧なエラリオお兄様が、かつて見たこともないほどしどろもどろになっている。
「……通訳して」
「この状況では無理だよ、レミーシャ。ほら、残ってるから飲んで!」
小窓から突き返された小瓶の中には、禍々しい黒い液体がまだ半分ほど、タプタプと揺れていた。
私の顔から、さっと血の気が引く。
「……うん」
瓶の口からは、鼻をつく異臭が漂っている。お兄様はよく、こんなものを一気に飲めたものだ。
そんなことを言っている場合ではない。
まずは言葉が分からなければ、何も始まらない。
私は意を決して鼻をつまみ、残った液体を口へ流し込んだ。
舌にまとわりつく苦みと生臭さに、思わず吐き出しそうになる。
その直後、先ほどまで意味不明だった男の怒声が、はっきりとした言葉に変わった。
「だから、ここはラリーの競技区間だ! 馬車でどこから入ってきたんだ!」
言葉は分かった。
けれど、「ラリー」が何なのかは、さっぱり分からなかった。




